第1話
友人の回想をもとにした大空位時代について。
※ ※ ※
深夜。
イオアンは〈塔〉の影に身を沈めた。
湿った夜気が肌にまとわりつき、石壁は冷たく汗ばんだ掌を吸い取る。 遠くで微かな声――まずい。巡回の兵士か。
息を殺し、近づく足音に神経を研ぎ澄ます。
そのとき、背後から荒い息づかいがかかった。 振り向くと、ポカテルが舌を垂らし、尻尾を激しく振っている。
(馬鹿、こんな時に……!)
声を上げれば見つかってしまう。手で追い払おうとするが、ローブにまとわりついて離れない。 左手でポカテルを払いのけた瞬間、壁にかかった何かに引っかかり、 カン、と金属音が夜気を裂いた。
心臓が止まる。
「誰かいるのか?」男の鋭い声。
灯りがこちらへ近づいてくる。
イオアンは咄嗟にポカテルを抱きかかえ、兵士たちのほうへ放った。すると、哀れな鳴き声が聞こえてきた。
「なんだ、イオアン様の犬か。飼い主に似て、どんくさい奴だな」
笑い声と共に足音は遠ざかっていった。
安堵の息を吐く――だが、今夜は急がないと。
イオアンは影の中を先へ進んだ。
※ ※ ※
〈塔〉の裏手に、壁にへばりつくように質素な馬小屋があった。 横木をまたぎ、頭をぶつけないよう屈みながら馬房に忍び込むと、 奥から月明かりを受けて小さな馬が近づいてきた。
「遅くなったな」
ブケラが首を下げ、温かな鼻づらでイオアンの手を嗅いだ。
「危うく見つかるところだったんだ。伯爵家の世継ぎが、話し相手が馬だけなんて知られたくない。もう二十三だからな」
そう自嘲気味に笑うと、ブケラの眉間から首筋へと指先を優しく滑らせる。 背に回すと、骨ばった感触が指に触れ、表情が曇った。毛並みも艶がない。 飼葉桶を覗くと減っていなかった。
「本当に死んでしまうぞ」
心配そうに口にする。
「もう限界なんだ。明日、父上に話すからな」
つぶらな黒い瞳がこちらをじっと見つめる。 イオアンは干し草に腰を下ろし、体を伸ばした。
「今夜が最後になるかもしれない。必ず食べてくれ。そうじゃなきゃ……」
瞼が重くなり、そのまま眠りに落ちた。
※ ※ ※
馬房に朝日が差し込む。
鬱金色のローブをまとい、干し草の上でイオアンが丸くなっている。
闇エルフでもないのに 浅黒い肌、きっちり分けた銀髪。磨き上げた大理石の彫刻のような顔は、いま苦痛に歪んでいる。
ブケラが鼻づらを近づけると、イオアンが薄目を開けた。
「心配するな。いつもの悪夢だ」
胸元からペンダントを取り出してみせる。
宝石が円を描くように配置されている金細工の立ち獅子が、朝日を浴びて、冷たく光っている。
「こいつが私を責めるんだ。嫡男として、ちゃんとやっているのかとな」
物憂げにローブにしまい、飼葉桶を覗き込む。やはり減っていない。
「言ったじゃないか……」
ブケラの首筋に額をあずけて、低く呟く。
「食べていなければ、父上に告げることになると」
よろよろと馬房を出ると、大広間へ向かった。焦燥した頭に、井戸端の女たちの笑い声や、鍛冶屋の金床を打つ音が遠くから聞こえてくる。イオアンは朝食の時間が嫌いだった。なぜなら、いちばん孤独を感じるから――。
薄暗い馬房からブケラの黒い瞳が、イオアンの姿を静かに追っていた。