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自分の心に手を当てて

文学における「なぜ」の存在についての個人的見解。

作者: 水無月

 どこかくらいくらい森の中、一人で歩く少女がいた。

 少女はただまっすぐに歩いた。辿り着いた其の場所は――

「ここ、どこ?」

 ふと少女は我に返る。自分が全く身に覚えのない場所にいることに気がついた。


 この短い文をみていただけただろうか。この文はある森に迷い込んだ少女を三人称で語っている。

 何も考えずにただ歩き、気づくと訳のわからないところに居る。

 ほとんどの人はこの文だけを見せられたときになぜ迷い込んだのだろうと感じるはずだ。

 現在まで発表されている小説などは「なぜ」で埋め尽くされている。それはなぜか。今も「なぜ」が生まれた


 私は、そのなぜは自身の経験から脳が引き出す数々の可能性のエラーと考えた。

 では例を一つ出そう。

 最初に出した文の主人公を狼にしてみる。


 どこかくらいくらい森の中、一匹歩く狼がいた。狼はただまっすぐに歩いた。辿り着いた其の場所は――


 狼は言葉を話さないので、ここまでで終わりだ。

 どうだろうか。最初の一文、少女の際はなぜ森を歩いているのかという疑問が生まれるが、狼にした場合はあまり違和感が無いと思う。

 それは狼は森に居る動物だからだ。だから森を一匹で歩いていても不思議ではない。

 これは自身の経験、そして知識等からわかるものだ。

 狼は動物で森などに生息している。

 これは多くの人の共通認識であり、これを少女にした際、この共通認識から外れてどうして少女が居るかが分からないために「なぜ」が生まれる。

 少女は私達が暮らしているこの社会で同じように生活している一人の人間。と言う共通認識がある限り、このエラーは免れない。


 何も狼だけではない。森に住んでいるのは他にもたくさんいる。自身が思いついた動物に上の分を当てはめてほしい。ほとんどの場合、違和感が無いだろう。

 なぜなら自身が森に住んでいる動物を考えている時点で多くの人が森を歩く動物を考えるのは当たり前だからだ。それが自身の知識、認識である。 


だが一部の人は「あれ?」と思うかもしれない。おかしい動物もいるのだ。空を飛ぶ動物。その場合は「空を飛ぶのに地面を歩く」と共通認識から外れるため、それを他の人から見られた場合、

「なぜ」が生まれる。


他にも有名な小説から引き出してみよう。

20世紀の文豪、フランツカフカの「変身」。

この話は普通に暮らしていたあるセールスマンが朝起きると、突然大きな虫になっていた。と言う内容だ。

この部分を見ると、なぜ虫になってしまったのだろうとほとんどの人は思うだろう。それこそが前にも供述した通り「人間は虫に変身などしない。ヒトのまま」と言う共通認識のエラーによって起こる「なぜ」なのだ。


このような「なぜ」は小説に多く入っている。それが非現実感を更に引き出し、読者を世界に引き込むことのできる工夫なのだ。


このことから私は人の「なぜ」は「自身の経験や知識から生まれる認識のエラー」だと考える。

だが多く存在する小説の中では、この考察が通用しない小説、純文学が無数にある。

あくまでこの考えは私個人のものである事を踏まえて、更に小説、純文学の世界を楽しんでほしい。


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