1.果樹園の乱
「カミラ、ディルク、二人は殿下のおそばに行きなさい」
「わかりました」
父の言葉にカミラは頷いた。
カミラは騎士団総長グナイスト伯ニクラスの長女であり、この年、13歳。
母譲りの美貌だけでなく、実戦において才覚を発揮し、文においても秀でた才能の片鱗を見せていた。
ランベルト王子の妃候補の一人であるが、すでにその実力と功績から社交界では本命と目されている。
カミラと一緒に歩く一歳違いの弟のディルク。
彼も幼いながらカミラとともにすでに戦場で名を馳せていた。
二人はグナイストの双槍と敵に恐れられていたのである。
「騎士団の大部分が王都から引き離されている。そして王命による呼出しだ。杞憂かもしれないが用心に越したことは無い。ランベルト殿下を頼むぞ」
二人はニクラスの言葉にもう一度頷き、王子が住まう内宮殿へ向かった。
「こんなところでお一人なのですか?」
中庭に差し掛かるところでカミラは供も連れずに歩いていたランベルト王子に気が付いた。
ランベルトは、ディルクと同い年。
15歳の成人をもって立太子することになっている。
金髪の柔らかな巻き毛の少年である。
先に成長期を迎えたカミラより頭一つ分、背が低い。
カミラにとっては将来の伴侶となる可能性がある男性というよりも可愛いもう一人の弟のような存在であった。
ランベルトも、幼い頃から一緒に育ってきたこの姉弟に、よく懐いていた。
「ああ、カミラ、来ていたのですね。変わりはありませんか?」
「ありがとうございます。いつもの通り元気ですわ。殿下こそ、お元気そうで何よりです」
カミラは知らぬ者が見ると、芯の強さを感じさせる目と、その美しさからキツい印象を与えるところもあるのだが、ランベルトの前では年頃の女の子らしい笑みを浮かべる。
「ディルクも久しぶり。元気そうだな」
「ありがとうございます」
「殿下は、どちらへ向かおうとしていたのですか?」
「天気がいいので果樹園に行こうかと」
「そうですか。いつも言っていますが、たとえ内宮でも護衛を連れて歩くようにしてください。今日は仕方ありませんから、グナイストの双槍がご一緒させていただきますわ」
「それは心強い。ディルクも頼むぞ」
「はい、殿下。お供させていただきます」
王子が一人でフラフラと歩けるような王家の私的な空間でもある内宮。
当然内宮の周囲は警護されているが、内宮の中では誰であれ武器の所持は許可されていない。
安全な空間でもあり、王族が寛ぐ場所でもある。
だからこそ、ランベルトは信じていたのだ。
この穏やかな日々がいつまでも、いつまでも続くものだと。
―― この日までは。
「殿下! 警戒を」
果樹園の中を進み、青い実を付け始めているリンゴの木を見上げていたランベルトはカミラの鋭い声に驚いた。
「何事だ?」
「戦闘です」
「戦闘?」
その時、ようやくランベルトの耳にも、かすかに響く剣戟の音が届いた。
「近いのか?」
「まだわかりません。ですが、それほど遠くありません。急いで警護の元へ移動しましょう」
王族の安全が最優先。
そうカミラとディルクは幼い頃から叩き込まれていた。
グナイスト家は建国以来、そうやって王室とともにあったのだ。
だが丸腰では身を守る術が限定される。
「姉さん、奥から1人!」
周囲の様子をみるために木に登っていたディルクが近づいてくる人影に気が付いた。
「敵?」
「不明」
短い言葉で姉弟は言葉を交わす。
「殿下、状況がわかりません。果樹園から出て父と合流したいと思います」
「わかった」
日頃から戦闘の訓練を受けているカミラとディルクと違い、王子は荒事には慣れていない。
それでも動揺が最小限なのは将来の王としての資質なのであろう。
「姉さん、僕はこのまま木の上で警戒する」
「任せたわ」
木の上のディルクと簡単に役割を分担するとカミラはランベルトの腕を取り駆け出した。
「ランベルトか!」
少し走った所で正面から男性の声が響いた。
カミラは足を止めランベルトを背後に庇いながら叫ぶ。
「無礼者! 殿下を呼び捨てるなど、どこの者だ!」
その声に木陰から一人の男性が姿を現す。
そしてカミラの誰何の声を無視して、短刀を構えた。
(長剣はもっていない。警護が裏切った訳ではないな)
素早く敵そう思いつつも、油断なくカミラは男を見据える。
「女子供を傷つける趣味は無い、どけ?」
「グナイストにそれを言うか」
「黒槍の一門か。確かにそれなら年齢は関係無いな。一緒に死ね」
その瞬間、男の頭上からディルクが飛び降りた。
「がっ」
まだ子供の身体付きだが、すでに実戦を経験しているディルク。
握りしめた石で男の後頭部に叩き付ける。
それを見て、カミラは再びランベルトの腕を取り走り出した。
「カミラ、ディルクは?」
「大丈夫です」
姉の言葉の通り、ディルクは無言のまま、倒れた男の顔面を反応がなくなるまで殴り続けた。
そして転がっていた短刀を手に先に走っている姉を追おうとする。
だが、その背後から別の男が襲いかかってきた。
カミラはランベルトの手を引きながら入り口を目指し走っていた。
非常時用に合図を送る笛を持っているが、敵を引きつけるかもしれないため、吹くことが出来ない。
「ちっ」
走ってきた二人を待ち伏せていたのだろう。
木陰から黒い影が飛び出してきた。
カミラは咄嗟にランベルトを突き飛ばしたが、自らは正面から振り下ろされた短刀を避けることができず、左の肩口で受けてしまう。
腹部までドレスとその下に着込んでいた肌着が裂け、血が噴き出す。
「カミラ」
地面に倒れたランベルトは視界の中で血に染まるカミラを見て声を上げた。
(大丈夫、鎖骨が折れただけ。内臓までは達していない)
カミラは灼熱のような痛みを無視し、自分を斬りつけた刺客を睨み付けながらもランベルトに鋭く声を掛けた。
「殿下、立って! 走っ!」
刺客は最後まで言わせない。
子供であること、女性であること。そんなことはまるで念頭にないように油断なく短刀を腰だめに構えカミラを襲う。
それをカミラは避けたが痛みで動きが緩慢になる。
怪我がなければ完全に避けられただろうが、刃先が右頬を掠め、頬に灼熱を受けたような痛みが走る。
「ぐっ」
その刺客の背中に短刀が刺さった。
追い付いたディルクが背後から短刀を投げつけたのだ。
その姿はすでにボロボロであり、右足を大きく引きずりながらも、そのまま声も出さずに刺客へ向かって手を伸ばし突進してくる。
そのディルクに対し、刺客は振り向きざまに持っていた短刀で真横に薙いだ。
腹を切り裂かれディルクは崩れ落ちる。
(駄目だ。逃げられない)
カミラは逃げ出せずにいたランベルトに覆い被さる。
1分でも1秒でも、王室の命を繋ぐ。
それがグナイストとしての生き方だ。
「クソガキが、どけ」
刺客はカミラの意図に気が付いたのか、その身体を蹴り飛ばす。
まだ体重の軽いカミラは、傷が深いこともあり、踏ん張れずに簡単に転がってしまう。
ランベルトに向かって短刀を振り上げる刺客。
そこへ腹を裂かれたディルクが飛びつく。
「このクソガキが!」
腕に飛びつかれ、一瞬、動きを止めた刺客は腕を振り下ろしディルクを地面に叩き付けた。
「あ、あ、ああ」
ランベルトの口から諦めにもにた言葉が漏れる。
その姿を見て刺客、少し余裕を取り戻したのか、一歩足を進め、ゆっくりとランベルトに告げる。
「殿下、どうかお覚悟を」
「させません!」
振り下ろされる短刀の前にランベルトを押しのけるように飛び込むカミラ。
その左顔面を短刀が斬り裂く。
カミラの視界が真っ赤にそまる。
そして――
「ぐふっ」
刺客の喉に突如、黒い槍が生えた。
カミラが振り返るとかなり距離のある果樹園の入口からこちらを睨み付けている父ニクラスの姿。
だが、その全身は彼の子供たちと同様血まみれである。
この距離からでも肩で大きく息をしているのが解る。
「殿下は無事か!」
それでもニクラスは駆け出しながらが叫ぶ。
「無事です! 早く! ディルクを!」
近づいてきたニクラスは倒れている息子に一瞬だけ視線を送るとランベルトの前に跪く。
「殿下、遅くなりました。ご無事で何よりです」
「ディ、ディルクを! 早く!」
「はっ」
その言葉を受けてようやくニクラスはディルクの様子を確認するために、その横に屈んだ。
「ち、父上……殿下は……」
「無事だ。よく護ってくれたな。そなたは私の誇りだぞ」
「ね……姉さん……は」
その言葉に全身から血を流しながらもカミラはまっすぐ立ち上がり、ディルクの側に立つ。
「ディルク、私もあなたを誇りに思うわ」
「……よかった、姉さん……よかった……」
そういってディルクは小さく二度ほど息を吐くと目を開けたまま動かなくなった。
その様子をしばらくみつめていたニクラスは優しくその瞼を閉じさせると、ゴロリとその場で横になった。
その身体の周囲に、血だまりが拡がる。
「父上?」
「不覚を取った。カミラ、お前もよく殿下を護ったな。義父に合図を送った。殿下を連れて義父の元へ……行け……ディルク、父もすぐに……」
息子にわずかに遅れ、グナイスト伯ニクラスも息を引き取った。
「伯爵! ディルク!」
「殿下、早く避難を」
「何を言う! そなたの父と弟を置いて」
「殿下! 私ももう満足に動けません。騎士団総長の父が倒されたということは、どの程度の敵が周辺にいるか解らないのです。どうかグナイストの誇りが全うできるよう、殿下は避難してください」
そう言ってカミラは膝から崩れ落ちる。
「カミラ!」
「殿下、逃げてください」
また足音が聞こえてきた。
「くっ……殿下、背後に。必ずお護りします」
「馬鹿な、そなたはそんな傷で」
それでもカミラどこにまだそんな力があるのか、真っ直ぐ立ち上がり、ランベルトを背後に隠した。
そこへ数人の男が現れる。
「ここにいたか。ほう、グナイスト伯も死んだか」
「大叔父上!」
「乱を興した以上、もう私は戻れん。ランベルト、可哀想だが死んでもらうぞ」
ランベルトの前に立つのは先王弟ギースベルト公爵。
可愛がってもくれ、ランベルトも懐いていた。
その男がいま、ランベルトを殺そうとしている。
「なぜ……」
「知らぬまま逝け。二人仲良く、苦しまぬようにしてやる」
「突撃、制圧しろ!」
そこへ騎士が数十人と雪崩れ込んできた。
慌ててギースベルトたちも反撃を試みるが、あっという間に取り押さえられてしまった。
戦闘が始まると同時にランベルトを引きずるように木の陰に隠れたカミラだったが、騎士団が味方であると確認できると、ようやく強張った身体を緩める。
「殿下、ご安心を。我が祖父です。助けを求めてもよろしいでしょうか?」
「頼む。早くカミラの傷を手当しないと」
傷を気遣うランベルトの腕をそっと押さえるとカミラは手を挙げ祖父を呼ぶ。
「お祖父様! 殿下はここです」
「カミラか! そこで待っていろ!」
騎士達を率いていた祖父アルバンが近づいてきた。
グナイスト一門の当主、グナイスト侯アルバンである。
アルバンは倒れている息子と孫の姿をみて一瞬顔を顰めるが、すぐにランベルトの前に跪く。
「殿下、ご無事で安心しました。なんとか間に合いましたぞ」
「グナイスト侯か。間に合ってなどいない。ディルクが……伯が……」
「いえ、我が家門にとっては王族の安全が全てです。誰の身が朽ちようとも王家を護ることが我らが誇り。殿下を護れた以上、間に合ったのです」
そう言って背後に倒れる二人を再び見つめる。
「息子も孫も我がグナイストの誇りとなりました。どうか殿下も誉めてやってください」
「だけど!」
納得出来ず叫びそうになったが、アルバンの目の奥に僅かに光るものを見て、何も言えなくなってしまう。
「殿下、陛下も妃殿下もご無事です。すぐに移動しましょう」
「僕はいい、早くカミラの手当を」
「駄目です。まずは殿下の安全です」
一刻も早く手当てをというランベルトの言葉を遮り、カミラ自身が王子の避難を優先する。
「孫の手当は部下に任せます。今は何より御身の安全を」
「だが」
「殿下、行って下さい。正直、もう限界です。殿下が安全になっていただけませんと、休まりません」
「そ、そうか、わかった。必ず手当を受けるのだぞ。絶対に死ぬなよ。あとで必ず見舞いに行くからな」
そういってランベルトはアルバンに抱えられるようにして果樹園を後にした。
「カミラ様」
「とても眠いわ……あとはお願いします」
「はい。ゆっくりお休みください」
「お父様、ディルク……」
そう呟くとカミラはそのまま崩れ落ちる。
それを近くにいた者たちが慌てて支えた。
この日。
後に果樹園の乱と呼ばれる先王弟ギースベルトが起こした叛乱。
武器を持ち込めない内宮に、十年以上の歳月をかけて王宮内の従者を入れ替え目立たぬ武器を持ち込んだ彼は内宮を制圧することには成功した。
だが、偶然、王と王妃を相手に警護の打ち合わせをしていたグナイスト伯ニクラスは、雪崩れ込んで来た叛乱軍を単身で撃退。王と王妃の安全を確保した後、そのまま敵を蹴散らしながら果樹園に取り残されたランベルト王子を救うべく、突入し、後に合流した義父であるグナイスト侯アルバンとともに敵を制圧した。
その後、一時拘束されていたギースベルトは密かに手を結んでいた2つの騎士団の手引きを受け王都より脱出。先代騎士団総長だったアルバンは娘婿ニクラスの死を受けて復帰し叛乱軍を制圧するも、その多くを取り逃がすことになった。王国の王権は大きく揺らぐことになり、その後、約8年に渡る混迷の時代を送ることとなる。
果樹園の乱により両軍合わせ多数の死者が出たが、その中にはグナイスト伯ニクラスと、伯の長男であるディルクの名が連ねられていた。
また果樹園でランベルトとともに襲われたニクラスの長女カミラは重傷を負いながらも一命をとりとめ、その後、数ヶ月の療養を得て回復。
ランベルトを救った功績で女性ながら一度ディルクを経由する形で父の爵位の継承が認められた。
グナイスト女伯カミラの誕生である。
だが、顔に大きな傷を残した彼女は、同時に王子妃の候補から外れることになった。
ランベルトとカミラ。
二人の縁は一度、切れてしまったかのようにみえた。
そして――