序章:北冥戦記
「オーランド!ちょっと手伝ってくれ!」
僕は父さんの声に顔を上げると、読んでいた本を閉じて声のした方に向かっていく。
「すまんが3番目の棚から釘を持って来てくれ!今ちょっと手が離せなくてな。」
大柄な身体にドワーフのような髭を生やした父さんが木の板を下から手で押さえて落ちないように支えている。
どうやら釘を刺す前に板の自重で仮の支柱にしていた木材が割れてしまったらしい。
板だけが落ちるのは問題無さそうだが、その上にはペンキや道具箱などがいくつか置いてあり、板を離すと色々と散らばって大惨事になりそうだ。
「ちゃんと留めてないのに色々と置くからだよ…」
「はは、まさか支えにしてた木がこのくらいで折れると思わなくてな。まあ、さっき思いっきり足をぶつけてしまったからなんだが。」
「はぁ、わかったよ、少し待ってて。」
僕は父さんに言われた場所にしまってあった工具箱を見つけて持っていく。
父さんは手が離せないので代わりに釘を打ち付けて板を固定する。
「オーランド助かったぞ!このまま床に塗料をぶち撒けていたら母さんが帰ってきたら大変な事になっていたぞ。」
「あはは、そうだろうね。」
母さんは普段とても優しいが、父さんの実益と趣味を兼ねていると豪語する大工仕事で家の内外が散らかるのには少々厳しい。
というのも、父さんの大工仕事は趣味の割合が多すぎてあまり実益がないものが多く、形も奇抜で壊れやすく使い勝手が悪い。
台所に立つのはほとんど母さんなのに、勝手に父さんが台所を大改造した時の母さんの怒りは僕ら兄妹のちょっとしたトラウマになっている。
父さんは3時間説教された後、翌朝までかけて台所をもとに戻させられていた。
夜中に男のすすり泣きが聞こえた気がするけど僕は何も聞かなかったことにしている。
「オーランドはまた本を読んでいたのか?」
「うん」
「そうか。また『北冥戦記』か?飽きないのか?何か読みたい本が他にあれば買ってくるが?」
「いや、あれが良いんだ。」
「そうか。」
父さんは何故か少し恥ずかそうに頬を掻いている。
『北冥戦記』
15年前に冥王から世界を救った英雄アーサーを主人公にした冥王との戦いを描いた本だ。
20年ほど前に北の国の一つであるエルドランド帝国が冥府から甦ったとされる冥王に乗っ取られた。
冥王は自らの眷属と闇の種族を束ねてあらゆる国々を蹂躙しようとした。
エルフの森は焼かれ、ドワーフの王国は瓦礫の山となり、有翼人は絶滅してしまった。
人間の国も3つの国が滅び、南の国々は難民に溢れかえった。
冥王と対立するあらゆる種族は互いのしがらみを越えて結束し、冥王の軍勢に対抗した。
多大な犠牲を支払いながらも、戦いの最前線で戦ったアーサーと各種族の精鋭達は多くの仲間を失いながら冥王のもとにまで辿り着き、死闘の末にその冥王を討ち取ったとされている。
アーサーは生きて祖国に凱旋するも、ある日突然自らの幼なじみの恋人と共に歴史の表舞台から姿を消す。
これには諸説あり、権力に利用されるのを嫌った、逆に暗殺された、実は凱旋したのは影武者で本人は冥王との戦いで亡くなっていたなど様々だ。
僕は生きて父さんと母さんみたいに幸せな家庭を築いて今もどこかで暮らしていると思っている。
だってその方がみんな幸せじゃないか。
そんな父さんが恥ずかしそうにしているのは、父さんの名前も同じアーサーだからだ。
父さんの旧い知り合いだという魔術師のおじさんが訪ねて来た時にこの『北冥戦記』をプレゼントしてもらったのだ。
「君の父さんと同じ名前の英雄が活躍しているんだ。」
と腹を抱えながら教えてくれた。
父さんはページをペラペラとめくりながら、
「うわぁ」とか「ありえん」とかブツブツ呻いていた。
「あ、母さんとリーザが帰ってきたみたいだ。」
「おお、もうそんな時間か。今日の晩飯が楽しみだな!」
多くの英雄達が活躍する『北冥戦記』は好きだけど、実際に戦争が起きて欲しいとは思わない。
こんな平和で平凡な日々がずっと続けば良いと思った。
この時代が新しい英雄を必要とすることになるとは、この時は誰も思わなかった。
北の荒廃した大地も復興し、ようやく多くの人々が人生を謳歌できるようになった。
しかし冥王に従っていた眷属達はそれを許しはしなかったのだ。