絶望的リフレイン
「暑い!」
ホーチミン国際空港の到着ターミナルを出たオレが、この国に着いて最初に発した言葉である。
早朝にも関わらず、既に30度にはなっているのではないか。それだけではない、湿度も高く一瞬にして汗が噴き出してくる。
「矢吹、こっちだよ!」
バスやタクシーが走り抜けて行くターミナル前にいるオレに、通りの反対側から大きな声が掛かった。
声を掛けてきたのは、北島裕二(きたじまゆうじ)、オレが少し前まで勤めていた商社のホーチミン支社・支社長代理だ。北島とは同じ年齢で同期であった。彼は全てに対して優秀であり、同期の出世頭だ。
「平日の朝早くから、申し訳ないな。仕事でも無いのに。」
北島はオレが退職後、ホーチミンに行く事情を伝えた際、「お前とは長いんだ。こっちへ遊びに来るのならオレが面倒見てやるよ」と、何のためらいも無く言ってくれた。仕事でも無いオレのためにホテルや、QSV(クワトロ・セゾンV)の公演場所等を調べ予約の手配もしてくれている。
北島の運転する車で、空港からホーチミン市内に向かう。車中では、思い出話等で盛り上がった。
「しかし、驚いたなあ。矢吹が定年前に辞めるなんてさ。」
「そうかあ?」
「まあ、それ以上にアイドルに会いにこっちへ来るって聞いた時はもっと驚いたけどね」と、言いながら大笑いしていた。それから暫くして、
「副島麗香・・・だっけ?」
「ああ、そうだよ。」
「ここの日本人会の連中に聞いてみたんだが、結構苦労しているみたいだな。」
「そうなのか?」
この一年、”レイレイ”の情報はネットで知るぐらいだった。それも小さな記事で探してやっと見つかる程度だ。
”副島麗香、ホーチミンでの生活は順調!QSVもメジャーデビューへ。”
概ね、こんな感じのニュースであったので、コアなオタとしては余り心配はしていなかった。確かに慣れない異国での生活を考えれば、相当の苦労はあるとは思った。しかし、日本にいても不遇が続いていた”レイレイ”にとって、大した苦労ではないと勝手に信じていた。
「オーディションで23人のメンバーが揃って、そこに経験のある彼女が加わったので、グループの先行きは安泰だよ。」と、オレは得意げに北島に話した。
「QSVって彼女を入れて24人なのか?」と、北島が聞いてきた。
「そうだよ。まあ、実動時はスペースの都合もあるので、5-6人でミニコンとやる場合もある。24人全員での活動はそれほどは無いと思うけど」と俺が言った後、少し困った顔を北島はした。
そして、
「メンバーが24人ってのは、間違った情報だな。恐らく、実際は10人いるかいないかじゃないか。」
「はあ?公式サイトにも全24人のプロフィールが載っているし・・・。それに専用劇場も先月出来たって聞いているよ。そこには、メンバー全員の写真が飾ってある。」
「専用劇場?・・・。あ、あのことかあ。まあいいや。そういうことなら、矢吹、兎に角現状をみることだな。」と、北島は車の外を見ながら意味深な言いかをした。
「こいつ、何言ってだ!」とその時は心の中で思った。
しかし、この後オレ自身が思ってみない現状をみるとは、この時は想像すらしていなかった。
「まあ、取り敢えず疲れているんだろ。ホテルでゆっくりしてろよ。夕方、迎えに来るから。”専用劇場”、楽しみにしているんだろ?」
「ああ、有難うな、北島」
北島が取ってくれた、ホーチミン市内の3つ星ホテルに到着すると、そう言い残し、北島は其の儘車で仕事に向かっていった。
オレはチェックインし10階の部屋に向かった。部屋はツインだ。
新しいホテルだが、ゆったりしていて心地よい。カーテンを開け、窓の外を望むと、建設途中の高層ビル群が見える。下を見ると、忙しそうなホーチミン市民の見ることも出来た。活性化している。30年、いや40年前の日本に近い感じがする。
オレは、”レイレイ”に会いにここまで来た。そして、今夜、約1年ぶりに彼女のステージが観られる。
ベッドに横たわり、色々な思いが頭の中をめぐっていた。
リリリリーン・・・リリリリーン・・・
「電話か?」
ふと気が付く、ホテルの窓から眩しい夕陽が入ってきている。
「寝てしまったのか・・・。」
鳴り響くホテルの備え付け電話に出てみる。
「矢吹?」
「おっ、北島。今何時だ?」
「おいおい、大丈夫かよ。ベトナム時間で午後6時半だ。もうフロントに着いているよ。」
「悪い!すまん。直ぐに降りる。ちょっと待っててくれ」
ホテルに着いた安堵感があったのだろうか。仕事は出来ないオレだったが、時間には元々厳しい人間なのだ・・・不覚だ。”レイレイ”のステージは7時半からと聞いていた。大急ぎで、フロントにいる北島の元へ向かう。
「やっぱり、歳だな。」と、QSVの専用劇場に向かう車の中で、大島はオレに笑いながらそう言った。
この時間道はやはり渋滞をしている。劇場まではそれほど遠くはないらしいが、自分の寝坊に少し後悔もしていた。
「退職して少し気が緩んだのかもなあ。ホーチミンに無事着いたことあると思うけど」と、オレも笑いながら、そう答えた。
車は、渋滞する大通りから左折し、路地に入った。
「さすがだな。長年ホーチミンに住んでいると抜け道も知っているんだ。」と、冗談ぽくオレは北島へ言った。
「抜け道?まあ、そんなもんかな。もう着くけど。」と、北島が言った途端、車はその路地にある小さな駐車場に入った。そして、車を降りたオレは北島について歩く、2-3分だっただろうか。
「ここだよ。”専用劇場”」、立ち止まった北島がそう言い目の前の建物を指した。
「おい、冗談だろ?」
廃墟とまではいかないが、それに近い古びた6階建てのビルだ。その1階部分は壁もなく小さな駐車場のようになっている。そこに、10人いるかいないかの若者男女が女性の写真を貼った団扇とペンライトのようなものを持ち、なにやら話し込んでいる。そいつら以外、そこの周りには人気はない。
「左側に小さなドアがあるだろ。あそこが”劇場”の入り口だよ。」と、チョット事務的な感じで、北島はオレに説明した。見た目、何かの”秘密基地”の入り口にようにも見える。
「かなりイメージと違ったよ。でも、中は広いんだよな?」
「まあ、自分で確認してみることだな。俺はこういうのに興味が無いから分からんヨ。」
今にもノブが壊れそうな入り口のドアを開け中に進むと、間口の狭い階段があり地下へ下りるようになっている。小さな電球しかついておらず、暗いため階段を下りても”劇場”がどこにあるのかよくわからない。
ただ、少し奥の方から人の声がする。そこへ向かって数歩歩くと急に強いステージ用ライトがこちらに向けてきた。
「嘘だろ!」
オレは思わず叫んだ。「狭い!これじゃ・・・。日本のアマチュアが使うライブハウスより小さいじゃないか!」
当然なのだが、オレは日本の”クワトロ・セゾン”の劇場をイメージしていた。東京にある”QS劇場”は400人近くは入る。まあ勿論、日本のアイドル文化が未だ育ってないベトナムなので、日本程の規模の”ハコ”を作るとは思っていなかった。それでも最低100人位は収容出来、キチンとした壇のある”ステージ”があるものだ。いや、無いわけがない・・・それは、ここの”劇場オープン”のニュースをオレは日本のメディアで観ている。
「北島、ここは何かの事情で利用している”仮の専用劇場”だよな?」
「いや、ここが本物の”QSV専用劇場”だ。」と、強く説得力のある言い方で北島はオレに答えた。
いいとこ、20人入れば満員だろうか。折り畳みの椅子が10数脚あり、ステージと言われるものはその椅子の前にある”空いたスペース”と言うことだろう。東京のQS劇場のように”壇”があるステージからは程遠いものだ。そして、ステージが始まる10分程前だというのに、客はオレと北島、そして、我々が入って来た時に声が聞こえた地元の男女5人。つまり、7人。
「これがお前が言ってた。現実か?」と、念のため、北島に聞いてみる。
「その通りだよ、矢吹。」と北島は言い、続けた。「どういう報道をお前が観てきたかしらないけど・・・。クワトロ・セゾンの運営が色々”下駄”を履かせたんだよ。去年QSVの結成の際、我々日系企業にQSVの運営が、資金面の協力要請を日本大使館を巻き込んでやっていた。”クール・ジャパン”効果がどうとかで。でも、ベトナムの日系企業は未だエンターテイメントをサポート出来るところが、タイあたりと比べると少ないんだよな。ウチも含めてだけど有名どころの企業は殆ど協力することはなかったんだ。まあ、QSVの運営としては日本のマスコミにやるって言った手前、引くに引けなく、現実とは違う情報を日本に流しているんだと思うよ。」
「そういうことか・・・。」と、オレが呟いたと同時に、開演のブザーが鳴った。なんか古臭い感じだ。実際、日本のクワトロ・セゾンのオープニングにはブザーなんか鳴らない。
気が付くと、我々の後ろに7-8人の客が新たに入って来ていた。それでも15人いるかいないか・・・。
ステージ用ライトが、狭く小さなステージスペースに光を当てる。
オープニング曲の前奏が流れ始めた。日本でも聞いたことのある曲だ。すると、ステージ上にQSVのメンバーらしき4人のシルエットが浮かび上がった。「専用劇場で4人!こんなのありなのか?」とオレは小さく独り言を言ったが、ここまでのことを考えると、目の前にある現実を受け入れるしかない。
ライトが全体を照らすようになり4人のメンバーは曲に合わせてダンスを始めた。オレは先ず4人のメンバーを確認した。センターにいるのは、”リン・マイ”だ。この子はQSVが出来た1年前、センターに指名されたエース。その”リン・マイ”の若干後方右側に立つのが、ダンスセンスが一番あると言われる”レ・チャン”。左側が”モチ”と言うグループ最年少の13歳のキュートな子だ。
そして最後部、このメンバーの誰よりも切れの良いダンス。そして、アイドルらしい素振り。
1年ぶりに”再会”した”レイレイ”こと副島麗香だ。
笑顔も1年前と変わっていない。オレはもう劇場の大きさや集客数なんかどうでもよくなった。
彼女のためにステージの間、”ミックス”を打ち、彼女の勝負カラーである”黄緑色のサイリウムライト”を振り続けた。
ベトナムでの初夜は、久しぶりにオレを熱くした。