雨上がりの秋空に 2
次の日も小雨が町を濡らし続けた。
空が青すぎると、なんだか無性に惨めになるので、曇りか雨がちょうどいいのだ。
止まない雨はないとか、有り体なことをいうのはやめだ。
雨が降ってても槍が降ってても、学生は変わらず学校に行く。そういう仕事を与えられているから。
水気を払ってから傘立てに傘を突っ立てる。
雨の日の学校が始まろうとしていた。
さぎりの持ってきた課題プリントは、進学校の名に恥じぬ難易度で、とてもじゃないが、一人では解けそうになかった。クラスメートや教師に助けをもとめるのは至極当然の行為なのである。
教室に入り、自分の席を目指して歩いていると、名前を忘れたクラスメートが「体調は大丈夫?」と心配してきたので「オールオーケー」と適当に答えて、座席に座る。
生乾きの臭いが不快指数を高めていた。
隣を見ると仏頂面の港さぎりがじとっとした目付きで俺を見ていた。
「おはよう」
声をかけると、
「来たのね」
と返された。
来いと言ったのはお前だろうが。
「お前、足……」
「とても痛いわ」
さぎりは右足に包帯を巻いていた。上履きではなく、スリッパを履いている。
松葉杖が壁に立て掛けられていた。昨日ドアを蹴破って怪我したらしい。
「自業自得というやつね。もう衝動で動かないと誓う。昨日はごめんなさい。あなたの両親には断られたけど、修理費用はちゃんと払うわ」
「あ、いや、いいよ。今朝とか制服の俺を見ただけで、母親涙ぐんでたから」
ひきこもりはちょっとしたことでも親を感動させられる稀有な存在なのだ。
「それより昨日言ってたことは本当か?」
小さく首をかしげられる。
「相談乗ってくれるってやつ」
「ええ、いいわよ。困ったことがあったらなんでも言って。聞くだけのことはするわ」
頼りない神龍だな。
「課題プリントなんだけど、問の三番の……」
「そうじゃないでしょ……」
呆れたようにため息をつかれたので、どうすればよかったのか、戸惑ってしまった。
「朝比奈夕凪のことよ」
「……」
彼女はそう言ってから、机から一冊のキャンパスノートを取り出した。
いつかデパートで異世界についた論じた時のノートだ。
「私が初めて朝比奈夕凪を視認した『あの駅』でのこと……」
「その話はやめよう」
思ったよりすんなりと言葉が出ていた。
もう吹っ切れたのだ。前を向くということは後ろを振り返らないということだ。
夕凪は死んだ。もういない。
十年前からそれは変わらない。
「聞いて。これで最後だから」
なのに、彼女の目は真剣そのものだった。
父親を殺人者にした朝比奈夕凪を一番恨んでいるのは彼女のはずなのに、それは矛盾した行動のように思え、一種独特な覚悟を決めているようだった。
「わかった。続けてくれ」
さぎりは小さく頷くとノートを広げて、見やすいようにくっつけた机の中心に置いた。
ノートにはあの時の状況が事細かく書いてある。
音、聞こえた。
電光掲示板、メッセージ、人身事故。
光、届いていた。
無人。砂になる。
ほんとうだろうか。
私たちの意識が作り出した錯覚ではないだろうか。
時計の針は動いていなかった。
時間、止まっていた?
「なんだこれ、どういう意味だ」
「事象の地平線」
「ん?」
「物体に反射した光が網膜に届くことによって映像は処理される。だけど、何らかの力で光が歪められ速度が遅くなれば、映像はスローモーションのように見えてくる。光すら歪む重力場であれば、映像は引き伸ばされて、限りなく長く見えるようになる。通常であれば時間が止まるなんてこと起こり得るはずがないけど、止まったように見えることはある。その境界線のことを『事象の地平線』」
「いや、あの空間は時間が止まっていたとかじゃないだろ。普通に異世界だ」
普通に異世界ってなんだ。異世界の時点で普通じゃねぇわ、と心の中でセルフ突っ込み。
「一つの可能性としての話よ。あの駅周辺は重力が通常の場所よりも強い」
「重力は場所によって変わるのか?」
「たとえば西日本より東日本、特に太平洋側の方が重力が強いらしいわ」
「なにを根拠に……」
「データ出しは複雑よ。測地学といい、人工衛星や周辺施設などを用いて算出するの。だけど、依頼をしたら、すぐに出してくれた」
「誰が」
「香川誠也」
少し考えたが、聞き覚えのない名前にため息が出た。
窓についた雨粒が重力にしたがって、下に線を引いて垂れていた。
「……どなた様ですか?」
「数学部の先輩で、ひも理論が専門の物理学者。博士号を二つ持ち、IQは180で、今はアメリカに留学している」
「設定盛りすぎだろ」
あるべきところに帰れ。フィクションという夢物語にな。
「今日の昼休みアポイントを取ったの」
「ちょっと色々と言ってる意味がわからないんだけど、……その人アメリカに留学してるんじゃないの?」
「インターネットって便利よね。地球の裏側の人ともリアルタイムで会話ができるんだもん」
頭を抱えて項垂れようとしたら、担任が教室に入ってきて、雑談は中断された。




