ほかに選択肢がないのです 8
考えてみれば、至極当然な成り行きだった。
もし名も知らぬ未知なる存在に操られていると知ったら、誰だって抵抗するだろう。
満足な豚より不満足な人間、とは功利主義を唱えたミルの言葉だったか。
彼らは人間であろうとしているのだ。
「そこをどいてください。傲慢を『矯正』しなければなりません」
レイナの持つ剣の切っ先は震えていた。
まだ迷いがあるのだろう。
逆の立場だったら、俺はどうしただろうか。
ありもしない妄想で現実逃避しようとしても、時間は前に進んでいく。
「や、やめてくれ!」
認めるわけにはいかなかった。
なんで、夕凪が殺されようとしているんだ。
レイナやボランジの感情を理解できても、夕凪に罪なんかない。一度死んだ彼女をまた殺そうとする権利は誰にもないはずた。
夕凪の小さな体を覆うように球体の入り口を自らの体で塞ぐ。
「どいてください。キヌ。誰も泣かない世界のために、『歴史を動かす者』は不要なんです」
こんな小さな女の子がそんな大それた存在であるはずがない。
妄想症をこじらせただけなんだ、と叫んでもきっとなんの意味もなさないだろう。だから俺はただ事実だけを伝えることにした。
「頼む、やめてくれ! 幼馴染なんだ!」
叫んでも誰の胸にも響かない。
「悪いやつじゃない! ちゃんと言ってきかせるから、だから……」
殺さないでくれ。
「キヌ、ゴシ……」
潤んだ瞳で力無く、腕の下の夕凪が俺の名を呼んだ。
なにかを呟いていたが、掠れて聞き取れなかった。
「そこをどいてくださいッ!」
レイナが叫んだ。
その願いを聞き届けることはできない。
もう二度と、夕凪の血を見たくないのだ。
「キヌ! その子から離れないで!」
ベルだった。身の丈ほどある杖を構え、俺の前に立っていた。
杖から放射状の光が出ている。
「ベル、なにをしているのですか!」
波状になって現れた光が盾のようにレイナとベルを隔てた。レイナは眉間にシワを寄せて、切りかかっているが、刃はまったく通らない。昔、地下のダンジョンで見た『守護スキル』に近しい力を持っているらしい。
「私は、キヌが好き! だから、キヌが守ろうとしているものは、守る、それだけだよ、レイちゃん!」
光の壁を挟んでベルとレイナが対峙する。
「その感情は偽物です! ベル、目を覚ましてください!」
「目を覚ますのはレイちゃんの方だよ! こんな小さい子を傷付けていい理由なんてどこにもないもん!」
「騙されてはいけません。ここで誤れば万の人が死にます! だから私は正しくなければならないのです!」
泣きながらレイナが叫ぶ。正しくあろうと無理をしているようだった。
相対するベルも大泣きだった。
「キヌは私たちの味方だよ! 命を助けてくれたんだよ! そのキヌが守りたいって言ってるのに、なんでレイちゃんはユウナギを殺そうとしてるの?」
「偽りの神だからです! ベル、貴方は感情を弄ばされてるんですよ!」
「偽物でもいいもん! 偽物でも、誰かに操られてたって、私は……」
刃が光に触れる度、がぎんと鈍い金属音が響く。
「私はキヌが好き!」
もはや理屈では無かった。
誰がどう考えたって正しいのはレイナだ。
それでも、ベルが夕凪を助けてくれようと頑張ってくれているのは、一重に愛情から生じる衝動に違いない。
お礼も言えず、俺もただ泣いていた。
「朝比奈夕凪!」
ベルが鼻血を垂らしながら叫んだ。
「あんたも神様ならキヌを助けなさいよぉっ!」
俺はなにもしていない。女の子に守られているだけだ。
発破をかけられたらしい夕凪は苦しそうな表情のまま微かに微笑むと俺の首根っこを掴んで、ぐいっと引き寄せた。
「なっ、おい、なにすんだ。ベルが」
まだ呼吸は戻っていないらしい、咳き込みながら、夕凪は細い指で球体の中にあった出っ張りに触れる。
プシュウと音をたてて、球体の蓋が閉まり始める。
「きゃあ!」
ベルの悲鳴が上がった。
レイナの攻撃は防げていたが、あとから来たボランジの大剣の一撃は防げなかったらしい。横殴りの攻撃をくらい、勢いよく吹き飛ばされた。ベルが壁に打ち付けられているのが閉まりかけの扉から見えた。
「ベル!」
声をかける。
「逃げてっ!」
よかった、生きている。
体を起き上がらせて俺たちに向かって叫んでいる。
「だい、じょうぶ、がはっ、も、もうすぐ、転移する、から」
咳き込みながら、夕凪が言った。
転移。転移ってベルが昔使っていた空間転移のことか。
ドアが閉まりきるまでもう幾ばくもない。
ベルは大丈夫だ。レイナたちは同じギルドの仲間であり、殺されることは無いだろう。
俺と夕凪さえ、逃げ切れれば。
ボランジとレイナが来るまでまだ時間はある。よかった。おそらく、彼らがここに来る前に転移は成功する。
安堵した刹那、ひゅん、と風を切る音がした。
「え?」
頬に熱を感じた。次いで痛みが走る。
「……な」
右頬に手をやると、切れていた。ドロリとした血液が手のひらにつく。
「なんだ、これ」
球体の扉が閉まりきる前に、隙間の先から見えたのは弓を構える水色の髪の女。名前はたしか、テッサ。
時間が止まったような錯覚に陥る。
心臓が早鐘になる。右手から血が滴り落ちた。
「ゆうな、ぎ?」
静かな予感があった。背筋が凍る。吐き気がする。フラッシュバックに幻聴がこだました。
夏の日、蝉の音、草いきれ、木立、白球、轟音、脳漿、陽炎、炎天下、絶望。
振り替えると、少女の小さな喉元にぱっくりと穴が空いていた。矢は、薄目を開けたままの夕凪を磔にされていた。
「ああああ!」
扉が閉めきられた球体の内部が完全に真っ暗になった。
そこから先は覚えていない。
気がついたとき俺は自室の床にうつ伏せに転がっていた。
右頬から垂れた血が小さな赤い水溜まりを作っていた。




