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常夜出でて旅の空 9




 ベッドに寝転んでいた。


「……」


 あやふやな現状を確かめるように手のひらをジッと見る。見慣れた右手。それを伸ばして宙で拳を握ってみたが、現実感は乏しかった。

 上半身を起き上がらせて、ベッドの横の窓を見ると、覚えのない中庭を見下ろすことができた。

 秋風に揺すられたキンモクセイは優しく揺れて、優しさに耐えられなかった花弁がオレンジ色のカーペットを敷いていた。


 持病もないのにお世話になってばかりだな、と白い天井を見てため息をつく。


 付添人のさぎりは意識を取り戻した俺を抱きしめ、泣きながら「ごめんなさい」と「ありがとう」を繰り返した。


 トラックとの直撃は免れたらしいが、眼前に迫った恐怖で失神してしまったらしい。隠世(かくりよ)に行く前に聞いた、骨を砕ける音はなんだったのか、俺にはわからないが、なんとも軟弱な精神だ。

 念のため検査してもらったが、問題もなく、俺は家に帰らされた。病院のベッドはふさわしい人が使うべきだ。


 母親に付き添われて、自宅に帰る。母はしきりに「学校でイヤなことない?」と未成熟な精神を心配してきたが、イヤなことしかないので、「なんでもない」と返事をした。

 どうやら、コンビニでの事故を踏まえて、俺の自殺未遂を疑っているらしい。


 死ぬならとうの昔にそうしている。

 夕凪を殺してしまったあの日に。



 自室のドアを開けると、乱雑に散らかった自分の領域に微かな安堵を感じた。その一方で、少女の匂いが無いことが酷く寂しく感じた。

「夕凪」

 名前を呼んで辺りを見渡す。

 愛らしく笑う彼女の姿は無かった。

 部屋の窓から差し込む西日が目に痛かった。


 机の上にノートと鉛筆が転がっていた。

 なんだろう、と思いながら、ノートを手に取る。ケシカスがパラパラと机に落ちた。

 下手くそな漫画が書かれていた。

 男の子と女の子がお菓子の家を探して森をさ迷うというメルヘンチックな内容だった。

 道中、天狗に浚われたり、不思議な生物と戦ったりしながら、冒険を続け、仲良くチョコレートを分けあって終わる。

 そういうしょうもない内容だ。彼らは最期に「おいしいね」と幸せそうに笑っていた。


 漫画を読み終わったとき、日はすっかり暮れて、夜になっていた。

 暗くなった一人きりの部屋で夏が終わったことを悟った。



 次の日の学校で俺はさぎりに夕凪が居なくなったことと、昨日の臨死体験のことを相談した。

 水蜜桃とのことを聞き届けたさぎりは小さく頷いてから言った。


「朝比奈夕凪は祖母宅の近所の山で遭難しかけたことがあるそうよ。全国ニュースにはならなかったけど、地元新聞には特集され、レスキュー犬の勇姿を称えている。その山は昔から神隠し多く、もしかしたら朝比奈夕凪は、この頃から神に見初められていたのかもね」


「えっと……つまりどういうことだ?」


「世界中どの神話を見ても神は自らの都合で人を殺すわ。あなたのせいじゃない。強いて言えば、運が悪かっただけのこと」


「もしかして、慰めてくれてるのか……?」


「……んなわけ」


 力無げにさぎりは言ったが、耳は赤く染まっていた。


「正直非現実的要素は嫌いだけど、流石に信じるわ。あなたには命を助けられたし、私の代わりに黄泉比良坂(よもつひらさか)に行ったというなら、申し訳なくて居たたまれないぐらいよ」


 日本書紀や古事記の記述なんて知らないが、黄泉比良坂や高天原は聞いたことはあった。だからきっと脳がパニックを起こして、適当な幻を作り上げただけなのだろう。


 前に進むべきなのかもしれない。


 あの草原で夕凪にかけられた言葉を思い出す。

 生きるのは辛いが、死ぬのはもっと辛い。


 隣の席に座るさぎりに、夕凪のお墓参りに行くことを提案したが断られてしまった。

 いわく、夕凪と俺の関係に入る余地はないとのこと。

 彼女がなにを言っているかいまいち分からなかった。


 放課後、校門を潜り、そのまま墓場を目指した。バスに揺られながら、朝比奈夕凪の告別式を思い出す。


 雨上がりの午後だった。

 駐車場にできた水溜まりには青空が写り込んでいた。

 喪服の大人が手を合わせ、涙を流しながら、天真爛漫の少女の死を悼んでいた。

 幼い精神では、目の前の非現実的光景に脳がついて行けなかったが、心のどこかで喪失感を感じたのは確かだった。

 少女の遺影は満面の笑みだった。選ばれた写真の横には棒立ちでレンズを睨み付けている俺がいたはずなのに、花に埋もれた額縁は少女の笑顔だけを鮮やかに切り取っていた。

 棺の夕凪は本当に眠っているように整っていた。幼い好奇心が、千切れていた身体はどうなったのだろうと鎌首をもたげたが、布団が被せられ、よくわからなかった。

 斉場から出たところで、夕凪の母親が見知らぬ女性を怒鳴り付けているのを見た。

 突き飛ばされ、尻餅をつきながらも、必死に頭を下げるその女性は、……いま思えばさぎりの母親だった。きっと、勾留中の旦那に代わって夫の罪を謝罪しに来たのだろう。当時は気が付かなかったが、謝るべきは俺だった。


 誰も、誰も俺を責めてくれなかった。

 本当はお前のせいだと糾弾してほしかったのに。

 そうしたら、そうしたら、この歳までのうのうと生きることはなかったのに。


 遺体を乗せた霊柩車が火葬場を目指して走り出す。出棺を告げるクラクションが、虚ろな嘘を切り裂くように青空に響いた。


 目的地につき、バスを降りる。

 ステップから地面に降り立つと、夕焼けが町を赤く染め上げていた。

 お盆もとうに過ぎている。季節外れのこの時期に墓参りする酔狂なやつなんて俺一人で、地面は落ち葉でいっぱいになっていた。

 記憶を頼りに、線香の香りが立ち込める霊園を進み、夕凪のお墓を見つけた。ぼやけた木漏れ日が墓石に落ちている。

 手を合わせて、目を閉じる。寺の鐘の音が遠くから聞こえた。

 最期まで、正面から、お礼を言うことが出来なかった。

 学校に行けるようになったのも、さぎりとのわだかまりがなくなったのも、全部彼女のおかげだ。

 あの黄金色の草原で彼女は俺に『自分のために生きて』と言ったが、つまるところ都合のいい妄想をしていただけのような気がする。

 それでもいいか。

 彼女が俺に対して、怒っていようが、哀れんでいようが、恨んでいようが、分かるのは自分の感情だけなので、いまはただ素直に自分の気持ちを伝えよう。

 ともかく俺は感謝しているのだ。

 だから、手を合わせてお礼を言おう。


「ありがとう、夕凪」


 秋風にさらわれて俺のお礼は消えていった。

 赤トンボがたくさん飛んでいる。夜虫が鳴き始め、日が暮れていく。

 夏が終わった。季節は巡り、秋が来る。

 ただ、それだけのこと。


「……」


 少しだけ、センチメンタルな気持ちになって、合わせていた手を離し、閉じていた瞼を開ける。


「どういたしまして」


「は?」


 卒塔婆の横から夕凪がひょっこりと顔を覗かせる。


「ゆーあーうぇるかむだよ、そんでもって、おめでとうキヌゴシ」


 昔のままの姿で彼女は微笑んだ。


「十分な経験値を手にいれたんで、レベルアップだよ。ジョブチェンジの機会だよ!」


 相も変わらずゲーム脳なので、俺は思わず吹き出してしまった。



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