常夜出でて旅の空 8
風を感じた。
葉の擦れる音がした。
日の光の匂いを感じた。
目を開けると、俺は草原に立っていた。
「……?」
体が軽い。
背負っていたはずの夕凪が消えていた。
俺はいつの間にか裸足になって、草原の海に一人立っていた。陽射しは西に傾き、青々とした葉は全てオレンジに染められていた。空に浮かぶ黄金色の雲は細く風が吹いたら消えてしまいそうだった。
「キヌゴシ」
鈴を鳴らしたような声がした。振り向くと、端正な顔立ちをした女性が立っていた。澄んだ瞳を細めて、少女は恭しく頭を下げた。
混乱する脳が、映像を処理する。
彼女は、
顔を上げた少女の黒い瞳に凡庸な俺が写し出される。
彼女は朝比奈夕凪だ。
歳をとらないはずの少女が、俺と同い年くらいになっている。
白いワンピースを着て、髪も伸びていた。
「あれ、お前……」
目の前にいる彼女は、少なくとも高校生ぐらい見える。
夕凪に姉妹は居なかったはずだ。彼女は何者なのだろう。
「お前は……夕凪か?」
薄く微笑むだけで返事をしてくれなかった。まあ、なんだ、俺だって体が縮んだりしたのだ、夕凪が大きくなったくらいで、今さらびびったりはしない。
西日に照らされて、影が長く伸びている。
「ここ、どう考えても日本じゃないよな……。水蜜桃のやつ、間違えたのか……」
見渡す限りの大草原だ。風で揺れる度、キラキラと黄金色に輝いている。幻想的な風景だった。
困ったことになった。
別の場所に送られたら、どうやって帰ったらいいか、また振り出しだ。大使館とかあると楽なのだけど。
「ううん、違ってないよ。現世に帰る前に高天原に寄ってもらったんだ。一言お礼が言いたくて」
高天原は日本神話に登場する神々が住まうという天上界のことだ。さぎりに教えてもらったことがある。でもまさか、そこのことを指しているとは思えない。
「お礼? なんの?」
「ノスフェラトゥが居なくなったことで、たくさんの魂が救われた。だから、そのお礼」
風が止んだ。静寂が辺りを包み込む。
「なに言ってんだよ。ふざけんなよ、俺は人を殺して……」
蜘蛛になった老婆を殺したのは俺だ。老婆は人だった。
「キヌゴシがあそこで倒さなきゃ、水蜜桃ちゃんが殺されてたよ。それだけじゃない。もっともっとたくさんの人が」
「そんなわけないだろ……」
「んーん、だってそういう未来だったんだもん」
同い年ぐらいになった夕凪は子供みたいに唇を尖らせた。
「もし、キヌゴシが隠世に行かなかったら、水蜜桃ちゃんは一人で吸血鬼退治に行き、蜘蛛化したバーバ・ヤーガに負けてしまう。ノスフェラトゥはバーバ・ヤーガを元の人間に戻そうと黒魔術に傾倒し、ついには邪教の神として崇められるようになったんだ」
「なに言ってんだよ」
「異世界にまで手を伸ばしたノスフェラトゥはやがて魔王と呼ばれる存在になり、召喚された国の人々を魔物に変えてしまう。レイナやベルの世界でたくさんの人が死んじゃうんだ」
レイナ……?
彼女から告げられた言葉を上手く理解することが出来なかった。
世界は死んでしまったみたいに無音なので、自分自身の心臓の鼓動をやけにうるさく感じた。
草原の海原は夕凪に包まれている。
「全然なに言ってんのか理解できねぇ」
「キヌゴシは間違いなく英雄なんだ」
「未来を変えたって……仮にお前の言ってることが真実だとしたら、時間軸がおかしいだろ」
「細かいなぁ」
不貞腐れたように頬を膨らませて夕凪は続けた。いつもの彼女らしい動作に少しだけ安心してしまった。
「輪廻転生は連続してるわけじゃないんだよ。未来の生まれ代わりが前世だってこともある。魂の旅というのはより良い方向へ輪廻の輪を繰り返すことなんだよ」
「より良い方向へ繰り返す?」
「そう。だからキヌゴシのおかげたくさんの魂が洗練されたの。だから、ありがとう」
腑に落ちなかった。俺はなにもしていない。誰も助けていないし、感謝されるいわれもない。
夕凪は日向ぼっこする猫のように目を細めて、微笑んだ。
「だからね。もうこれから先はキヌゴシの自由なんだ」
日は沈み、夕闇が降りてきていた。空は紫色が広がり、細い三日月が欠けたナニかを探すように淡い光を放っていた。
「なにもしてもいい。誰かと友情を育もうが、誰かと恋に落ちようが、誰かを助けようが、誰かを傷つけようが、全部、キヌゴシのしたいようにすればいいんだよ」
倫理の授業で自由の上と下には責任があると先生が言っていた。
何をしたって、自分の正義を誤魔化すことはできないのだ。
「それを踏まえた上でキヌゴシに一つお願いがあります」
少しだけ大人びた口調で少女は続けた。
彼女からお願いされるのは、もう何度目になるかわからない。
「自分の為に生きてください」
彼女はそう言って小指を突き立てた。
白くて長い指先が俺に向けられている。
「誰かより自分を第一考えて。みんなそうやって生きてるんだよ」
夕凪の目尻に涙がたまり、薄い月明かりを反射して光っていた。
「ユウナが死んだのも自分のせいだし、キヌゴシが生きているのは自分のおかげなの。また会えて嬉しかったし、別れは辛いけど、これから先は前だけを見て。ねぇ、お願い」
顎の先から涙の滴がこぼれる。
「生きて」
散々、死んで来世に期待とか言っておいて、今さらこいつは何をいっているのだろう。
そう、頭で思っているのに、なぜだか、感情が理解に追い付かなかった。
なんで今さら彼女が年相応の容姿になっているのか。
なぜあの夏の日に現れた夕凪は死んだときと同じ背格好だったのか。
もしかしたら、同い年で成長した思考回路で、俺と向き合うのが怖かったから、彼女はわざと幼く振る舞ったのだろうか。
疑問を上げれば尽きることはないが、
そんなことはどうでもいい。
どうでもいいが、
「ゆびきりげんまん」
彼女はあの頃と同じ調子で指を絡ませて、微笑んだ。




