常夜出でて旅の空 7
十字路まで戻り、当初俺が選ぼうとした道を進むと、突き当たりに大きな赤い扉があった。押し開けると、どうやら食堂室のようだった。広がる長テーブルには空のお皿が並べられ、枯れた花が花瓶に刺さったままになっていた。
天井にはエントランスとお同じシャンデリアがぶら下がっていたが、灯りは消えていて、広い室内は薄暗かった。
「バーバ・ヤーガさんを殺したね」
影がぼんやりと滲む。
一人の少年が奥の席に座っていた。
テーブルに置かれた蝋燭に照らされいる。影が大きく伸びていた。手元のワイングラスに口をつけると、氷のような視線を入り口で立ちすくむ俺たちに寄越した。
茶髪の青白い肌した男の子だった。十二歳前後といった風貌で、聡明そうな顔立ちをしている。
「そ、そちがノスフェラトゥか」
水蜜桃が声を張り上げた。どうやら緊張しているらしい。常に自信に満ち溢れている彼女らしくない強張った声だった。
「だとしたらどうする。殺すのか。彼女を殺したように」
「……階段で会った老婆ならたしかに私が殺した。仕方なかったのだ。暴走した状態では言葉に訴えることが出来ぬ」
少年はまたワイングラスに口をつけた。赤黒い液体が注がれている。
「仕方がないと言えば赦されると思っているのか」
彼の背後は一面窓になっていたが、すべてが暗幕に覆われて外の景色は見えなかった。
「そうは言わぬ、だがあのまま捨て置く訳にもいかなかった」
水蜜桃の返事を受けて、ノスフェラトゥはうつ向いた。
「やつを絶対に怒らせるでないぞ。私ではかなわぬ……」
ぼそりと水蜜桃が教えてくれた。
正直そこまで強大な相手には見えなかったが、水蜜桃が固く拳を握りしめ、震えを必死に抑えていた。
「……僕と彼女は古い友人だった……」
グラスを白いテーブルクロスの上に置き、寂しげに呟く。一人きりではあまりに広すぎる食卓だ。
「……また一人、先に逝ってしまった。ここに来れば長生き出来ると聞いたのに……」
「やはり先程の老婆は人間か。隠世に迷いこんだ人間は長生きなど出来ぬ 。肉体が空気に合わぬのだ」
「だから殺したのか?」
懺悔する水蜜桃はなにも言えずに下唇をギュッと噛んだ。
老婆を殺したのは彼女ではない。水蜜桃は俺の身代わりになろうとしている。
真実を叫ぶことが俺には出来なかった。
沈黙が落ちる。
「ならば、ここで僕に殺されたとて文句はないな」
ガタンと音をたてて、少年は立ち上がった。涙で濡れた瞳は怒りに滲んでいる。
「身構えよ、仙女」
閉めきられた室内のはずなのに、風がふわりと巻き起こる。空気が彼を中心に渦巻いているのがわかった。
背筋が凍った。冷や汗が止まらない。
殺気というやつだろうか、感じたことのない死への恐怖が身近なものとして俺たちを覆った。
整った少年の顔が肉食獣のように歪む。口元に白いものが見えた。鋭く尖った犬歯だ。
「まっ、待ってくれ……」
自分の行動が信じられなかったが、俺は恐怖に震えながらノスフェラトゥに訴えかけた。
「老婆を殺したのは、俺だ。彼女は関係ない」
「なに……?」
より濃くなった殺気を向けられる。途端に息苦しくなった。
「彼女は俺をかばっている」
こんなところで正直者になるメリットはない。ないけど、俺の身代わりになろうとしている女の子を見捨てることは出来なかった。それに、俺なら持ち前のラッキーパワーでワンチャンなんとかなるかもしれない。
「なにをばかな……」
水蜜桃が呟いた。まったくもってその通りだと思うが、やってしまったことは仕方がない。
「なぜ、かばい合っているんだ。僕には理解できない」
「待たぬか」
眉間にシワ寄せるノスフェラトゥに、水蜜桃は宥めるように言った。
「そちと矛を交えるつもりはない。老婆のことなら謝る。謝って許されることだとは思わぬが、私たちとて最善を尽くした結果だ。彼女は人の心を無くしていた」
「……貴様らがイヤなやつだったならどれだけ楽か。復讐すらさせてくれないのか」
少年は怒りの表情を緩くし、自嘲ぎみに鼻を鳴らした。
「なんのためにここに来た」
「そちが盗んだ夜の帳を返してもらいに伺ったのだ」
水蜜桃は声を張り上げて言った。
少年の表情に影が落ちる。
「とばりか……」
力無げに彼は続けた。
「こんなものはもういらない。二人で夜を生きるために使ったものだからだ。一人なら時間を無為にしているだけ」
少年は水蜜桃を正面から睨み付け、叫んだ。
「とばりの彼方へ行かせてもらう」
ばさりと、彼の背後にかけられていた暗幕が落下する。
布が重力に従い、ふわりと落ちる。時間がゆったりと流れるようで美しい光景だった。剥がれ落ちた塗装の下に別の景色が広がるように、彼の背後に現れた窓の向こうでは、白ずんだ山々が見え、時間的に朝を迎えていたことに気がついた。
朝靄に包まれる木々の隙間から、柔らかな朝日が差し込んでいる。室内が一気に明るくなった。
日の光が少年の体に射し込む。光線に当てられた彼の体は暖炉のすみに溜まる灰のように真っ白になった。
それは、自殺だった。
ノスフェラトゥはルーマニア語で吸血鬼という意味だったはずだ。
吸血鬼、つまりヴァンパイアが伝承通りなら、日の光は彼の弱点となり得るのだ。
「な、なぜ」
水蜜桃は信じられないとのでも見るかのように唇を震わせた。
灰が床に落ちていく。
「なぜだろうな。やる気が起きないんだ」
彼は独り言を呟くようにうつむいた。
「数百年を孤独に過ごしてきたのに」
「それほど生きて、なぜ……」
「彼女と過ごした数十年で僕は脆くなった。彼女のいない数年を想像したくないと思った」
完全に灰の人形と化した少年は苦しさに声を震わせるでもなく、最後に「ただそれだけのこと」と呟いて、崩れた。
床に灰の山が出来る。
「なんだか、すごく、かなしいね」
なにも言わずにジッとしていた夕凪が小さく呟いた。
朝日に照らされた食堂の床に窓枠が細い影を作って伸びる。
さながら十字架のようだった。
朝の清澄な空気が満ちた神社もどきは静謐さに包まれ、俺たちの帰宅を祝っているようだった。小鳥の囀りが聞こえる。朝靄に光が透過し、木々の隙間を縫って、スポットライトのようになっていた。
正直役に立ったとは言いがたいし、むしろ現状を悪化させたような気がしてならないが、水蜜桃は頬を綻ばせ、
「そちに助けられたのも事実やし、帰してやろうかの」
と言ってくれた。
彼女の手にはなぜか扇子が握られていた。それで何をするのかと訪ねたところ「要返しやよ」と教えてくれた。説明を聞いてもいまいちよく分からなかったが、日本へ送り届ける儀式らしい。
「お、ほんとか。助かる」
「ソチが望むならいつでもここに戻ってくればよい」
ごめん被りたい。
やはり、ここは生と死の狭間で間違いないらしい。
できれば再びここを訪れるのは六十年後とかにしてもらいたいものだ。
「せば、はじめっかね」
俺の背中には爆睡する夕凪がいた。
幼女にオールは無理だったらしい。正直おんぶしている俺も瞼がかなり重い。
でもここで寝ると今度こそ自分の魂をどこかに手放してしまいそうで怖かった。
水蜜桃は持っていた扇子を広げた。墨字で文字が書いてある。「永劫回帰」。ニーチェだかの思想だった気がするが意味は忘れた。
「むにゃむにゃ、もう食べられないよぉ……」
耳元で夕凪が寝言を言った。
「メロンの皮は、食べられないよぉ……」
しょうもない寝言だ。
呆れて落としてやろうかと思ったが、あまりにも幸せそうに寝息をたてているので、許してあげることにした。
夕凪をおんぶしているので、少し前屈みになっているが、水蜜桃には変な立ち姿で見えているのだろうが、一切気にした風もなく、
「目を閉じて」
と彼女は言った。
夕凪の足を脇でぎゅっと強く挟んでから、瞼を閉じる。離ればなれになることはないだろう。
朝の光に包まれた神社の景色が、黒に変わる。暗闇が訪れる。
「ゆくぞ」
緊張が走り。静かに息を飲んだ。
「でやぁあ!」
聞こえてきたのは雄叫びだった。
やっぱり呪文みたいなものはないんだな。
呆れて突っ込みを入れようかと思った瞬間、空気ががらりと変わったのが肌でわかった。
「息災で……」
水蜜桃の声は途切れて聞きづらかった。




