常夜出でて旅の空 5
階段を上りきると、階段の手すりの横にロッキングチェアがあり、一人の老婆が座って編み物をしていた。老婆は緩慢な動作で首をあげると、来訪者に向けて煩わしそうに息をついた。
「騒がしいねぇ。あんたたちは土地神の使いかい?」
黒く落ちくぼんだ目をギョロりと向ける。
「いんや、違う。して、そちがこの洋館の主かや?」
水蜜桃は老婆の質問に、浅くため息をつきながら答えた。
「いんや、ワシは客じゃよ。お主たちとの違いはきちんと招かれているかどうか、という点じゃがのう」
骨に皮がついているようなやせこけた老婆だったが、覗く口元にはきちんと歯が揃ってあり生気に満ちていた。
「きちんとノックをして訪問したらお茶でも出してくれたんかの?」
水蜜桃は嫌みたらしく言うと、人差し指を一本たてて、老婆を睨み付けた。
「いやはや口の減らない小娘だねぇ。ノスフェラトゥには恩義があるからねぇ、招かれざる客の相手ぐらいはしてやらなあかんねぇ」
老婆はやおら立ち上がると、かぎ棒を椅子の上に置いた。小さなしわくちゃな手には、いつの間にか茶色い分厚い本があった。かさりと乾いた音がして、老婆はページを開き、消え入りそうな声で、
「水流」
と呟いた。
大量の水が開かれたページから溢れでる。
あり得ない光景だった。水気など無かったのに、滝のように水が流れ落ちてくる。
デモ隊を放水で制圧する機動隊が思い浮かんだ。このままでは勢いに押されて階段から転落してしまう。
「ちぇすとぉっ!」
水蜜桃が叫ぶと同時にすべての水が凍りつき、老婆の本から新しく水が流れ出ることは無くなった。
「西洋の仙術は奇っ怪なことやね。早々に館の主を呼んできんしゃい」
「はぁ、いやだね。こりゃあ」
凍っていた氷が一瞬で溶け、床にびしゃりと流れる。
「火炎」
老婆は水蜜桃を無視して、また呟いた。今度は火の玉だ。こぶし台の炎が水蜜桃に向かって流れ星のように飛んでくる。
水蜜桃はピッチャーフライをグローブに収めるように火の玉を握り消し、老婆を見つめた。
「いい加減にしんしゃい。館の主がノスフェラトゥと言うなれば、早うここに連れて来るがよし」
「疾風!」
老婆が唱えた呪文に、水蜜桃は眉を潜め、
「おりゃあ」
と、間抜けな声をあげた。目の前に土壁が現れる。階段を突き破って現れた壁は放たれた魔法を全て防いでくれた。
「まだやるんか?」
生意気そうな目を老婆に向ける。絶対友達にはなれないタイプの瞳だ。
「……こりゃあ、敵わんねぇ」
「ようやっと理解をしたか。したらばノスフェラトゥとやらを」
「敵わんからと、諦めるとでも? あんたらを会わせるとどうせろくなことにならんね」
「むっ」
「大暴走!」
「なっ、馬鹿!」
バリバリと布を裂かれる音がする。腰曲がった老婆の小さな体が一回り二回りと大きくなり、黒い棒状の物体が音をたてて、老婆の背中から角のように生え始めた。
それはさながら昆虫の足のようにも見えた。
「話し合いに来ただけやというに……」
水蜜桃はどこか悲しそうに呟いた。
「愚かなり。そこまでして守るべき相手なのかや」
「お、おい、大丈夫なのか?」
「あの老婆はもう無理やろうなぁ。変態魔法は元に戻る術式は記されておらんからね」
水蜜桃は哀れみを込めた瞳で蜘蛛に成り果てた老婆を見つめた。
「一思いにやるのが、優しさというやつかものう」
手のひらをまっすぐ向ける。
「でやぁー!」
やっぱり呪文はないらしい。水蜜桃の手のひらから淡い光が放たれて、クモの体にぶつかった瞬間、閃光がおこった。子供がかんしゃく玉を地面に叩きつけたような音だった。
「むっ」
水蜜桃の表情が曇った。蜘蛛は爆散四散することなく、ギョロリと八つの目を向けると、「キィ」と声をあげ、左前脚を素早く動かした。
「きゃあ」
水蜜桃が悲鳴をあげて吹き飛ばされる。咄嗟に受け止め転倒を防ぐ。
「大丈夫か?」
「むっ、すまなんだ。しかし、あの老婆厄介なことをしてくれたものよ。私の攻撃ではびくともせぬ。弱ったのう」
蜘蛛はじっと俺たちの方を向いたまま動かない。行く手を阻むことに全力みたいだ。
「傷を負うまで攻めてみるか……」
水蜜桃が一人ごちた。
「いや、下手に動かない方がいいぞ」
「なして?」
「蜘蛛の目ってツルッとしてるだろ。あれってトンボみたいな複眼じゃなくて、人間と同じ単眼ってことなんだ。八つもあるとピントが合わないから、ボヤけて見えているはずなんだよ。だから下手に動くよりじっとしてる方が気配を察知されなくていいと思うぞ」
「だとしても、どうやって先に進めばえてんか」
「ここでじっとアイツが去るのを待つ方がいい」
蜘蛛は相変わらずじっとしたまま動かない。
「キヌゴシ、キヌゴシ」
ちょいちょいと夕凪が俺の袖を引っ張った。
「なんだよ?」
「近づけないなら、遠くから魔法を当てればいいと思うよ。ベルちゃんがやってたでしょ」
「魔法なんか使えねぇよ。俺は普通の人間だぞ」
「魔力にもスキルポイント振られてるから使おうと思えば行けるはずだよ。この世界、マナもすごいし」
「どうやって出すんだよ」
「ぐぁー、ってやって、ゴッ、だよ」
「……」
まあ、物は試しだ。やってみよう。ぐぁー、って、やって、
「ゴッ!」
手のひらを前に突き出す。
当然なにも出なかった。
「こんな時になにしとるん……」
水蜜桃に呆れられた。
「いや、魔法で倒そうと思って」
「西洋の魔術が使えるんか?」
「行けるかと思ったけど無理だった」
「……少し考えるから静かにしててもらえるかのう」
めっちゃ呆れてるのが雰囲気でわかった。
夕凪に無言で訴える。
「魔力にもポイント振られてるから初級程度なら使えるはずなんだけどなぁ」
根拠のない励ましを受けた。
「だからどうやってやるんだよ」
「グッとやって、ガッ、だってばよ」
「お前が使えるんならどうにかしろよ」
「ユウナは魔法使いじゃなくて天使だもん。使えないよ」
「使えないなら出し方だってわかんないだろ」
「それはぁ、そうだけどさぁ……」
せめて否定して欲しかった。
「大切なのはイメージだよ。HBの鉛筆を指でベキって折れて当然と思うように魔法を出せて当然って思うんだよ」
いまいちパクリっぽいアドバイスだが、思い込みの力は時にすごいと言うし、ちょっとやってみるか。
うぉー、手のひらから炎が出てぇー、
「当然っ!」
ガッ。
出た。
「おおっ!」
冗談のつもりだったのに、ガチで火の玉が手のひらから飛び出た。
小さなろうそくの炎のような塊が空中をふよふよ進み、ばちん、と蜘蛛の体に当たった。
ダメージは無さそうだった。
「きぃ!!」
でも怒りはかったらしい。
かしゃかしゃと八本の脚を器用に動かしてこっちに向かって猛烈な勢いで走り寄ってくる。
「な、なに余計なことをしておるん!」
「ううっ、すまねぇ」
「だあ、もう、ここは逃げの一手ぞ!」
階段を慌てて駆け降りる。
こんなデカい蜘蛛に勝てるビジョンはまったく見えなかった。
「きぃ!」
俺の頬を鋭い爪が掠めた。危ない。
「つぅ」
足が縺れて転びそうになった。靴を見ると、白い糸が階段に敷き詰められていた。これは、蜘蛛の糸か。
「あっ」
どでん、と音がした。振り向くと夕凪が転けていた。
「めっちゃ痛……」
ぽつりと少女が呟いた。すぐ近くに蜘蛛が迫っている。気付けば体が動いていた。
「夕凪!!!」
間に合わない。夕凪の小さな体はいま、巨大な蜘蛛の下敷きになろうとしている。
俺の伸ばした両手は夕凪には届かない。鮮烈な死のイメージ。
俺の手はほぼほぼ反射的に覆い被さろうとしていた巨大蜘蛛の体を突き飛ばした。
パァン、弾けた。
「え」
血飛沫が上がる。赤い、というより黒い体液が間欠泉のように吹き出ている。
トロルの時と同じだ。
意識したわけではないのに、俺の攻撃は敵を蹴散らしたのだ。
攻撃力にステータスを振り分けた結果だ。なんだこれは。
「キヌゴシ」
血みどろになった夕凪が目元をぬぐった。
「シャワー浴びたい」
蜘蛛を潰しただけなら、まだいい。
それが信じられないぐらい巨大でもだ。
問題は蜘蛛になる前は老婆だったということ。
つまり俺は人間を殺したのだ。
「……」
なにも言えずに罪悪感に囚われていると、
「先に行こうぞ」
と、肩を上下させながら呼吸を整える水蜜桃に声をかけられた。
気を紛らすにはちょうどいい。




