常夜出でて旅の空 1
蛙の鳴き声がする。
閉じた瞼の暗闇は心地のいい睡眠を俺に与えてくれていた。
「キヌゴシ起きて、起きてぇ」
甲高い少女の声が鼓膜に飛び込んでくる。
喉がカラカラだ。「ん……」と上擦った声が出た。
「あっ、起きた!」
「夕凪……?」
全身が縛られ、天井の梁からミノムシのようにぶら下げられているのに気がついた。
「なんだ、これ」
日本家屋に俺はいた。
「えっとね、トラックがバァンってなったらね、ピカァーってなって、気づいたらここについて、女の子が来たと思ったら縛られて天井にぶら下げられたんだよ」
状況説明が限りなく下手すぎる。
「よくわからないんだけど……そうだ、さぎりは、さぎりは無事なのか?」
「さぎりちゃんなら大丈夫。キヌゴシが身代わりになることで受死日免れたから」
「それなら、いいけど、……俺は死んだのか? 今度こそ……」
「んー、それがねぇ、よくわからないだよね」
「わからない? ここはどこなんだ?」
「それもよくわかんないけど、……別世界なのは間違いないみたい。ほら、あれ」
夕凪が指差した先に、光る金魚がプカプカと浮いていた。
すいっー、と俺の視界を横切る金魚。最近の魚類は空を飛ぶらしい。
食い込む麻縄が痛いが、幻覚を見るほど、イカれてはいないはずだ。たっぷり睡眠はとれているはずだし。
木の壁はところどころ穴が開いていて、すきま風が吹き込んでいた。金魚は口をパクパクさせながら、ヒレを揺らして、穴から外へ出ていった。
金魚の光は無くなったが、室内は十分に明るい。
四方の壁には蝋燭が設置されている。
ずいぶんと古風な空間だ。壁には日本刀や薙刀なんかが立て掛けられていて、昔習っていた剣道の道場を想起させた。
「やれ目覚めたと思えば、やかましいお人やなぁ」
不意に第三者から声がかけられた。澄んだ涼しい声だった。
そちらを向いて返事をしたかったが、あいにく天井からぶら下がっている状態なので視界確保の自由はない。
「あなたは……?」
顔が見えない謎の声の主に訊ねる。
「名前を訊ねるときは自分から名乗るのが礼儀やぞ。そちの名はなんと申す」
「……秘密です」
なんとなく嫌な予感がしたので黙秘権を行使することにした。
「ほう」
「ふぐぁ」
脇腹を棒状のナニかでつつかれた。あんまりな仕打ちだ。脇腹は間違いなく弱点なのだが、笑いよりも先に痛みが走った。
「ちょ、ちょ、なんでつついたッ!?」
「火ばさみ」
「は、ひばさ、ふぐぁ」
再びつつかれる。暴れたら縄が捩れて勢いで回転した。視界のはしに少女の小さな手のひらがよぎる。
「トングじゃねぇか!」
大声をあげたところ、びしりとトングの両端が俺の右目と左目にビタリと突きつけられた。
「気ぃつけて返事をしぃ。質問はすでに拷問に変わっとるで」
蝋燭の灯りに照らされた着物姿の少女が、俺のことを人形のような無表情で見つめていた。
白い髪のオカッパの女の子だった。少なくとも俺よりは年下だろう。
喧嘩なら負ける気しないが、文字通りの手も足も出せないのだ。プライドは捨てて下手に出るのが吉。
「すみません。調子乗ってました。なんでも聞いてください。正直に答えます」
「ほほう。素直なのはよいことやのう。したらば名前を申せ」
「越井絹です。十六歳、高校一年生です」
「こしいきぬ。ふむ、なんとも贅沢な名じゃ。こし……キヌゴシ。お前の名前はキヌゴシ。わかったら返事をおし、キヌゴシ!」
「いやだよ!」
湯婆婆だってもっと良心的な略しかたしてくれるよ!
「ふぐぁ」
また脇腹をつつかれた。
「屈せぬぞ! 俺の名前は越井絹だ!」
トングの猛攻に必死に耐える。
真摯に訴えたら、少女は浅くため息をついて、ついにはトングを下ろしてくれた。
「まあ、よいわ。キヌ」
見れば拷問なんかとは程遠い深窓の令嬢といった風な佇まいだ。
「そちには聞きたいことがぎょうさんある。下らぬことに時間をかける暇はないでの」
聞きたいことなら俺にだってあるが、訊ねて答えが貰えるような雰囲気ではなかった。
「嘘ついても構わぬが、本当のこと言ってないと判断した時点で、輪切りにして額縁にいれて飾るでの。心して答えんしゃい」
イタリアンギャングみたいな女だな。
「それでは単刀直入に訊くぞ。お主は朝泥棒かや?」
「あさどろぼう……?」
時間泥棒なら児童書で存じているが、生憎朝泥棒とやらに聞き覚えは無かった。朝方働く不埒な輩のことだろうか。
「なんですか、それ?」
「とぼけるんか? 輪切りがお好かや。ちょっいとお待ちよ、肉断ち包丁買ってくるでの」
「いやまじでわかんねぇんだって! 知らないことは答えようがないだろ!」
「椋鳥のように喧しいやつじゃのう。それじゃあ、そちは何者かや?」
「……人間です……」
トングで鼻をつままれて、
「あいたたたー!」
引っ張られる。
「ただの人間が隠世に来れるわけがなかろうて」
「わかった、わかった、正直に話す、話すからつまむのやめてくれぇ!」
全体重が鼻に引っ張られるような感覚だ。このままではキノピオのように伸びてしまう。俺の悲痛な叫びが通じたのか、少女はトングを下ろしてくれた。
「それで?」
「……異世界からやってきました……。っ! トングをしまえ! ほんとのことだから!」
黒い瞳に蝋燭の赤い光が宿り綺麗だった。それゆえ暴力的な動作が不気味である。
「俺もよくわかんないけど、日本で平和に暮らしてたらニトントラックに友達がひかれかけて、その身代わりに」
「にとんとらっく?」
「えーと、それに殺されると異世界転生するらしいです。俺は転移だったけど」
「あい、わかった。輪切りがお好みのようやの」
「ほんとのことなんだって!」
「異世界がなんなのかはわからぬが、そちが頭弱いということは理解したわ。まあ何にせよ、嘘つきなれば、もっと『らしい』嘘をつくじゃろう」
まあ、知能には10ポイントしか振らなかったからな。
「そちが朝泥棒じゃないことは本当のようやし、ひとまず解放はしてあげよう」
「どうも」
彼女はそう言って、すたすたと壁際にある扉に向かって歩き始めた。
「ちょ、ちょいちょい、待てよ! 縄をほどいてけって!」
「……己でできるやろ? 縄をほどくことくらい」
「……で、できねーよ! ほぐぁ!」
否定した瞬間、縄が切れた。何事か、と思ったら日本刀を両手に持った夕凪が目を血走らせて立っていた。壁に飾られていた武器を取ってきたらしい。
「き、キヌゴシはユウナが守るよぉお!」
「……ありがとう。とりあえず刀をしまえ」
怖いから。




