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「そんな疲れ切ったあなたに、私のスマイルを授けてあげよう」
はいはい。スマイルね、スマイル。このご時世、どこにでもありふれたプロットで、忍び寄る人体のメカニズムと明るさを、ぎっしり口の中に詰め込むだけ詰め込む屈託のなさが、全国のあちこちで無料で配布されるように提供されているらしい。なにかあれば、すぐにスマイル、スマイル。あちらの人も、こちらの人も、混然一体となってスマイルを応酬する。
巷では、生活と生活の間に差し込む、私たちのしわがれた口と鼻と目の一体が、華やかなリズムを伴いつつ、笑顔という絶妙のバランスで、爽やかなスローガンを街の至るところに打ち出しているそうじゃないか。右を見れば、誰かが笑っている広告の大画面が目に付いたり、左を見ればおはようございますと言って気持ちよく誰かが挨拶して来る。そんな日本列島を横断する横風が、人と人とを繋いでいって、綺麗な山脈を築いていく。近所の人も、三軒先の三田さんも、回覧版を手に持ち旦那の愚痴を1から10までゲラゲラ棚上げしながら腹を抱えている。
その見事なチームワークは、おおいに結構。日本国民が美しく成長するためには欠かせない民事運動だ。誰かが笑えば、私の心も落ち着くだろう。だからあなたも私も、街の中で笑顔でいる。でもせっちゃん。お前はだめだ。お前のスマイルには、私を容赦なく粉々に破壊する威力はない。私と私の心の隙間を、無遠慮に通過するだけのハリもコシもない。ボンベを持って、ガス圧を上げて、ほっぺにみなぎるたくさんの筋肉の束が、ぐいぐい重力に逆らっていくなら、考えなくもないけど。
「全然ダメ。テイク2」
私はおしげもなくせっちゃんのスマイルを断って、さらに上のレベルのスマイルを要求する。どうせなら、私の頭の中を青一色で染め上げるくらい、せっちゃんの息遣いや瑞々しい呼応の全部が、教室の中の蒸し暑い気温を涼やかに吹き飛ばし、心の奥の奥の狭いプールで、バシャバシャと水の泡を立ててくれたら。
「仕方がない。じゃあ、目をつむって」
せっちゃんはアーチ状にまたがった私との視線を横目に、顔の半分を縦にまっすぐスクロールしながら頭を下げ、几帳面に足のつま先を整える。頭を下げたその先で机の中をごそごそ探り出しているから、きっとスタミナ切れ寸前の私に、なにか授けようという優しさが、心のどこかで働いたのでございましょう。チョコかビスケットか午後の紅茶か、私の身体の芯に飛び込んでくる多彩なツワモノたちは、一体なんでしょうか?
鍵盤を強く叩きつけるように、私はウキウキする心臓を上半身から下へ押さえつけ、せっちゃんの目の中をのぞき込む。私と教室とその五限目で、意外なボーナスステージがやって来ることを密かに期待しつつ、せっちゃんの言葉に、その視線の先に、一枚の虫メガネを貼りつける。
私はお腹をすかせたゾンビのようにうなだれて、目を閉じることにした。
じっと、動かなくなる。
…エアコンとそのファンが空気中に舞うゴミを食べて苦しそうだが、教室の中の酸素や窒素は、私の鼻を通過する一陣のつたない風となって、虚弱な肺の中へと絡み合う。その様子を一つも聞き漏らさないのが私の耳なら、きっとせっちゃんは、そんな重労働な私の生活習慣に見かねて、労働基準法に乗っ取り、全力で、清く正しく(※赤ペン)、ありがたい粗品を投げつけてくれるに違いない!
"心の準備は整いましたので、節子よ、早く早くなにかください
私はもう腹ぺこ寸前の乞食でございます"
と声が重低音に響くくらいに、うつ向けにうつ向けに、ぺちゃんこに心がひしがれる。人間だもの。こんなに大きい口が付いているし。頑張れば、身体の内側にある筋肉を全部乗っけて、「食べる」という行動の動きに合わせながら、歌を歌うことだってできます。甘いものは怠らない。スナックも飴もスポンジケーキも、みんな膝をついて深い眠りに落ちればいい。静かに眠っているその先で、私の口が半開きになり、ギリギリと歯ぎしりをする音が聞こえる。




