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夏空  作者: 片岡徒之
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 私は走った。気がつけば走っていた。ドスンドスンと響く足の裏から、血液がポンプのように指の先で弾ける。私は人生の中で、誰かを追い越したいと思うことはあまりなかった。そう今も、私の中にある確かな感情の一つは、この足が、誰かを追い越すためのものではないということを、小さく洩らしながら囁いている。ただ、私は抜け出したかった、…のだとも思う。それは一体どこから?って聞かれても、解答には困るのだけど。走らなければならないと思ったんだ。多分、きっとそう。待ちあわせの時間に、遅れないように。夜が訪れてしまわないように。できるだけ早く、足を動かそうとしている。


 けれども時間は一瞬間のうちにやって来るんだ。街中まちなかのある交差点に差し掛かった私は、まだ赤から青に変わらない横断歩道を渡り切ろうと足を前に動かしてた。思えばいつの日からだっただろうか?心の奥の淵で、焦り出した一つの心が、何の前触れもなく時間の中を通りすぎていったのは。急ぎ足で向かった先になにかあると信じて、ネオンに沈む街に出かける。だけど前にり出していくこの心の隅の隅で、いつも抱えてた悩みや、頭の中のぼんやりとした不安を誰かに打ち明けるには、この世界はあまりにも大きく身長を伸ばして、あっという間にすれ違い、地平線の彼方までもう雲を飛ばしている。夜空に輝く星々のペンダントライトが、街の中に点々と灯る瞬間、私の動かした足は急な坂道を下るように早く、明日に向かって急勾配に走り出す。たまに足の皮が剥けそうになる。イタイ。その時にはいつも気づく。足の先を見ると靴のヒモがほどけそうになっていることを。固く結んだはずの二本のヒモ、ーーその線の内側で、私の命がはげしい火花を散らしながら、街と人とコンクリートのすれ違う影の上澄みを叩き、音を鳴らしていることを。重なり合った街の景色の中の日常が、鮮やかに切り取られ、一瞬の間、空から落ちる流れ星と一緒になって、また暑い季節が、夏が、今年もやって来る。ポッと、ぶ厚い積乱雲に覆われた空から、昼と夜の狭間を縫うように少しずつお月様が顔を出すと、それがさざ波になって街の景色の向こうに伝わっていき、夏の虫が鳴き始める。その隣で誰かが話す笑い声が聞こえる。川の水が、山の斜面が、小さな水の流れる音を出しはじめて、後方から風が吹く。私はその片隅で、交差点の手前、信号が青になる瞬間を知っている。学校のサイレンが、今日の日暮れの月の下、まだその音の余韻を含ませながら、鳴り止まないことを知っている。


 今日この日、この夏の季節。誰かが私に笑って話しかけたかな?


 でももう私は、立ち止まることはできないんだ。


 また今日も、夜の世界が近づく。それに連れて流れるようにまた朝が来る。朝が来ると、セットしていた時刻にアラームが鳴る。その午前7時。


 朝起きて、挨拶をする。おはようございますって。


 おはようございます。


 おはようございます。


 首を持ち上げた朝が、部屋の窓の外で日差しを入れながら挨拶してくる。


 私は、この言葉が世界の中心にきらめいて、いつもあどけない笑顔を浮かべてくれることを信じている。部屋の外を見る。そうすると太陽は日の光をガラスにぶつけて、徐々に真上に傾こうとしているんだ。チカチカと、地球の自転軸に逆らうかのように。


 交差点の白線の上で一人の女子高生の影が、自動車のライトに当てられてぶつかる。右を見て、左を見て、道路の真ん中を駆け足で渡り切ろうとしていたその刹那、強烈なブレーキとクラクションの音に体中の筋肉が硬直しながら、私の全身が、激しい自動車の車輪の回転とその音の中に埋もれていく。焚かれた眩しいフラッシュライトが、街の交差点の上で何度も反射するように木霊こだまして、パパパーッと地面の低いところを通過していく自動車の影、ーーその日常のスピードが、一人の女子高生のシルエットをアスファルトの上に映し出す。ドンッ、という大きな衝撃音を静かな地面の上に落としていく。


 まるで階段を駆け降りるときのドタドタドタッという高らかな足音が、騒がしい朝の日常の中で、一日の始まりを告げているかのように静寂を破る。その勢いのまま、玄関の扉を開けて飛び出していく前髪がほつれて、ブラウスのボタンは今日も胸の上で揺れる。路地の裏で足音が聞こえる。その学校の始まり。


 その中心で、街のどこかで、これから訪れるであろう輝かしい日差しと風の通り道を密かに予感しながら、ぐうっと大きく息を吐いて、慌ただしい一日がやって来る。遠い未来を拾いに、誰かと私が道の真ん中ですれ違う。


 交差点。信号。白線。車。スポットライト!


 蝉の鳴き声が聞こえる。15才の夏。誰かが私に笑って話しかけたかな?いいやもう誰も、走り出す私の足を止めることはできない。


 ごきげんよう。また明日。この炎天下の日差しの下、街のどこかで、いつかあなたは私を見かける。

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