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夏空  作者: 片岡徒之
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 私は靴を履いて、外に出た。花火大会に向かって、私の気分は悪くはない。上向き、って言うほどでもないけれど、玄関を飛び出した私の足は、いじらしく下を向くことなく、身体をしっかりと支える。


 太陽はまだ暖かい。なんだ、もう夜が近づいているのに、日差しはまっすぐ降って、午後を明るく染めているじゃないか。私は少し顔を上げた。青が、まだ世界に少し残っている。黒は少しも見当たらない。真っ暗な夜の訪れが、まもなく訪れようとしているなんて、空を見上げる限りでは、全然その気配すら感じない。玄関を出て、その先に見えるもの全部集めて、街に出たら、雲が流れていくあとを、全力で追いたい。走って、たくさんの時間や、空間や、自動車や、人の往来を、この目で見てみたい。そんな気分に駆られるのも、とくに珍しくもなく、私は自分の瞳の中の瞳孔が、開きっぱなしになっていないということを、密かに感じつつ動く。私の心は、少しだけ、上向き。上々ってほどではないけどね。きっと、ネジが少しだけきつく、しまったのだろう。心の内側の窓が、全開にならずとも、外と内の空気が巡回して、少し体の中が心と一緒にリフレッシュされたのだろう。街の空気の清らかさと、リフレインが、ガチャっと、玄関の開くドアの音ともに、スマートに響く。


 ああ、と、私は世界に挨拶したくなった。太陽が完全に落ちてしまう前に。それから、花火が打ち上がる前に、大声で「ごきげんようー!」って。とくに意味もなく。


 足取りは軽い。波の音が聞こえる。花火大会にまっすぐ向かう私の足と、太陽は、一段とそつがなく、重なっている。楽譜と音符が、多彩なリズムと韻を踏みながら、順調に順調に進んでいるかのように。


 私の目の前に、早足でぐんぐん前に走る電信柱の影を追って、太陽は沈む。沈殿する鉛のような排水口の汚れが、揺らめきながら視界に掠めて、それがハエのように素早く影分身していくから、どうにも、目が回る回る。ぐるぐると回転する一方通行の歩道を抜けて、ゆっくりと傾いた時計の針を、夕方のオレンジと空の間に寝かしつけるのは、この上なく美しい。夜の街灯が、まだ青い影の下を通り過ぎていくのは、早い気がするけど。


 空のてっぺんにはたくさんの星たちが集まりだして、その隣の宇宙の端には、つま先立ちしている一つの大きな大陸がある。それは決して砂漠のようにくたびれた砂の胞子を飛ばして、一つの巨大なでこぼこ道を積み上げているわけではないけど、きっと私がそこに足を伸ばして、着陸できれば、私の体重もジャンプも、沈んでいく太陽の傅く雫となることができるでしょうか?夜空に一番早く現れる星に、なることができるでしょうか?輝くのは、15の夜。15歳の夏。360度の地球と雲と人類の爪痕。そしてその巨大に明るい銀河の川。ーーー街。


 地球の自転軸に乗っかって、たくさんの波や光の粒が私たちの記憶や歴史の後方に飛んでいって、うず高く舞う。その一陣が風を切って、私は、上空へと誰よりも加速していくんだ。エンジンを弾く音。セミの羽が森の下へと消えていく音。アスファルトが雲の下に隠れる瞬間!


 そのフォトフレームの一枚一枚を、全部引っ張って破いてしまったら、世界には一体何が残るんだろう。私とその世界の隣に並ぶ巨大な円周率は、何を密かに願うのだろう。私の慌ただしい日常の片隅で、時間と空間にまどろむ一人の女子高生を、誰かがアミでまとめてすくい上げてくれるのかな。そういった大きなやさしさが、この地上に息切れしながら、たどり着こうとしているかな。それとも時限式の爆弾が、なにもかも全部散らかしてしまって、そのあとに残る残骸の余波が、遠くへ私の影を跳ね飛ばしてしまうのだろうか。人と、この日常の密かな繋がりを。


 ちょうど、握力の弱い3歳児の手から、宙に浮かぶ風船の糸がするりと抜け落ちてしまうかのように。


 ーーー(それか、もしくは類人猿の化石が、明日の午後に発掘される…?)


 ああ、だめだ。全然ダメ。私はふと、今日の午後の、あの5限目の授業のことを今一度思い出した。肩のコリ、全身の筋肉痛のような、軋んだ音。頭の片隅で大きくため息をつくモノトーンの被写体が、私の背後にひたひたと歩く。その影や足取りは、一段と早くなり、道ばたにはみ出て、自動車に轢かれる。どん臭い。私はそう思い思い、授業を思い出す。窓際に座っている私の、チカチカと太陽に照らされる、迷惑そうな表情を。


 鈍っている。色々と、鈍りきっている。とくにあの授業の他愛もないサル談義のせいで、鈍りきった精神の緩みを解きほぐすには、時間がかかる。よりにもよって午後の虫がなく頃に、黒板にずらっと敷き並べた類人猿の歴史的パノラマを、テンポよく前へ前へと押し進めなくても、この耳にはちゃんと、サルの足音の1つや2つ聞こえているのに。がつんと頭を打たれて、グラッと意識が霞んだ隙に、思考回路が一気に走って、チョークのホコリが飛んでくる。鼻に掠めた白い波長のデンプンは、ゆっくりと首を持ち上げて、寝る。深い眠りにつくのだ。教室の天井のチカチカと明るい蛍光灯のすぐ下で、ブーーーーーーンと優雅に飛び回り、長い時間をかけながら。


  私は決して、私の頭の中の歯車が、大きな夜の訪れを前にし、その月の光が落ちるのを拒んでいる窮屈な風の通り道となって、噛み合わないリズムと音を、ぎこちなく地球の上で回転していっているとは思わない。2000万年前の大地から、骨格のたくましい恐竜が一匹、私のことを睨んでいても、ヌッと姿を現した運命の歩く足音を、ぎゅっと力強くその手に治めて、遠い時代の白亜紀時代に、手を振ることも、こんにちは!と大きな声で、白旗を上げるつもりもさらさらない。


 けれどもずっと、この胸のうちで、朝から晩まで、耳の奥に貼り付いている午前7時のアラームが、ーーー頭の隅の隅、その遺伝子の中に残る遠い昔の卵の一つが、夢の中で、日常の夜と朝の激しい交差点の上で、孵化をする音を聞く。夢の卵の孵る音を。


 何が生まれたのか、私にはわからない。でも、確かにこの耳の中に聞こえる音が、そっと私の方を向いてやさしく語りかけてくるのを、ずっとずっと近くで、手を伸ばして見ているんだ!流れ星が、空の彼方まで飛んでいくあの瞬間の、まっすぐな軌道を目がけて!


 何も見えない暗闇から、誰かの足音が聞こえて。…それでも前へ前へ、指の先がちぎれるくらい前へ前へ、進み、小さなマメが潰れる。赤く擦れた足の裏の表面に、苦しそうに歪んだシワを寄せて、その踏み出した一瞬間の力の加減が、大きなハードルを超える瞬間。


 私はその宙に舞ったほんの少しの間の無重力が、その反動もなく、地球の円の外側に飛んでいってくれたらなと思った。誰もいない世界の上に、ぽつんとマグカップが1個置かれて、スッと目の中に消えるコーヒーか、紅茶の色の螺旋が、私の人生の、モノクロに染まる一部始終を、そっとフタにして閉じてくれたら。

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