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きっと長い夜になるんだろう。私は思った。着ていくもの、並ぶ屋台、駐車場の窮屈さ、人混み。それらがあちこちに散らばって、一つの場所に集まりだすのは、いつの時代にも常にあるものなんだろうけれど、花火大会っていうのは、私の中で夏を象徴する一つの産物になっているかもしれない。
ただ大量の火薬が地面から上がって、パッと一瞬光るだけの、あの単純な動作は、一見意味のない虚しい物のようにも見える。でもたくさんの人が、一人二人と寄り添いながら、綺麗だね、って言っているのは、私たちの心の内側にある時計や空間が、最後まで壊れることなく、変わらず綺麗な状態を保っている、ーーーそういったものの集積の中に、1箇所に集まって、束になって、背すじを立たせているからなんじゃないのかな。
人が人を好きになり、あるいは、人と人が離れ離れになり、それでも、遠い昔から今に至るまで、小さな日常の中で笑っていられるのは、例えば、私が今日花火大会に行くという気持ちの上背にある、ちょっとした好奇心の中にあるものと、ほんの少しの期待と、特別に何か変わったものではないという気さえする。時間の集積と、その地層の中にある上澄みされた様々な道のりや、銀河鉄道の降下口は、決して人間が、私達が、一つの時間の中で必ずどこかで曲がってしまうという選択肢のなさから、窮屈に窮屈に移動しているというわけではないはずなんだ。
花火大会は楽しみだよ。それはそれは、とてもね。私が15年生きてきた歳月の中で、今日が一番新しい一日になるなら、駆け足でそこに向かうことを、惜しまない。私は私の人生を投げ出したりなんかしない。きちんと前を向いて、厳粛そうな視線を向けて、そのほんの一瞬の時間の中に、打ち上がる花火を見ることができたら、きっとおそらくは、私のもっとも新しい未来への道のりが、ゆっくりとその音を鳴らし始めるには違いない。
そうでなくても、花火は上がるんだ。世界の真ん中で、大きな音を飛ばして、夜の真っ暗な空間の中を、彷徨いながら光っていく。
そうして私たちの日常と夜は、暗く、長い。長引くだけ長引いて、進んだ先には、深い深淵が私たちを捉えようと睨んでいる。私たちはそれを打ち消すかのように空を見上げて、花火が飛んだ光の行く先々を真剣に見つめているんでしょうけど、一瞬で、私たちは花火の光と音の中に、ミクロサイズの宇宙塵になって、一緒に消える。それほどまでに、花火は空の低い、深いところまで上がっていき、私たちを夜から遠ざけようとしない。遅い。花火のあの音、パーン!と破裂するあの音楽。忙しそうに見えて、じつは、すごく遅いんだ。ゴムが引っ張られるだけ引っ張られて、空間の端から端へと伸びていく頃に、遅れて光がやって来るあの感覚。一番早く、光が信号として伝わるという科学的な事実よりも、ずっと硬く、重たい未来の時間の集積の内側から、光だけが取り残されて、落ちていくあの感覚。そういう時間に、「居る」、そういう感覚に陥る。
取り残された光が、未来からやってくるという、不穏なリズム。例えるなら、信号が青になるという感覚よりも、私たちが頭の中で「青になる」という記憶をすでに知っている、というような、時間の集積と地層の中にある微妙なずれが、巨大な円を描いて広がりながら、世界の内側へと戻っていくという、ほんの一瞬の未来と過去のすれ違いを、花火が上がった瞬間に、私たちは知ることができるんだ。
一つの「未来の確定」と、その「選択の派生の確率」の強いつながりが、形を変えながら過去へと進んでいって、曲がる。未来が決まっているという事実だけが、一人取り残されて、信号は青なのに、「青である」という事実を自発的に破ろうとする、<未来>の<選択>の確かさが、信号が青であるという事実に遡ろうとしない余波を残して、私たちの押し定まった時間を急激にブレーキしていくかのようだ。未来はまだ訪れていない、という一つの独立的な時間に対して、自由に広がるかのように。
思えば、花火が上がっている瞬間は、ほんのちょっとの短い感覚だけれど、地球が逆向きに回転しているように感じる時がある。時間と光が交差して、空に舞い上がるあの一定のリズムは、砂時計が落ちるよりも、目覚ましのアラームが私を呼んでいる時よりも、長く、早く、世界の内側へと加速的に残存していっているように感じる。目を閉じても、一瞬の間、花火のフラッシュライトが瞳の奥に残るように、暗闇と暗闇の間に潜む立体的な距離感の一致が、素早く私の頭の後ろへ回り込もうとする。
光ってから、そのあとに音が聞こえるんじゃない。花火っていうのは、そう単純な構造じゃない。パッと光を当てて、そこに映ったものが人か街か幽霊かの紙一重の輪郭の訪れの外に、音はズレて飛んでいき、それに応じて光は、人一人の思考や記憶の中に呑み込まれて消えていく。
花が咲く瞬間と、花火が光を開く瞬間はよく似ている。充分に栄養が行き渡って、鮮やかな色調を満たしていく一瞬のあのタイミングと形は、花火が上がって、夜の風景を一瞬映し出す多方向への波の振動と、同じ時間軸の中に存在し、かつそれが形を変えて変化していくのを、私たちは同時に知ることができるんだ。だから、ただ時間が落ちる、というのは、花火が光ったあとに見える光の残存の中に垣間見えるものではなく、じつは花火が上がる瞬間には、未来が訪れているといったような、素早く鋭い空間のひずみが、一瞬の間、時間を飛び越えてやって来るんだ。
私は毎年花火を見るたびに、そういったキュッと胸の内側が引き締まるような世界の賑やかさを感じて、時間の蠢きを感じて、明日、またがんばろうという気持ちにさえなる。朝、起きて、冷たい水で顔を洗った時の、急激な気持ちの滑空翼が、バンジージャンプしながら、未来へと落ちていく音を聞く。私はそれをついばむカラスになる。




