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夏空  作者: 片岡徒之
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 「ただいまー!」


 愉快に張り詰めた喉の奥の笛を、ピーッと鳴らしながら、景気よく突撃するのは、玄関の前の一人の活発な女の子。大阪彩音。私のことだ。


 一直線に家に帰ってきて、素早く家の中に駆け込みながら、靴を投げる。出迎えてくれる人は無し。親は仕事。家は空っぽ。


 どうしたものか。私はさっと制服を脱いで、カバンを下ろして、脱衣所に行く。汗ばんだ身体の奥で、緩みきった心の窓を全開にして、頭の上からつま先まで通り抜けていきそうな解放感を、猛スピードで組み立てていく。きれいに整った、そのスムーズな指通りのスライドショーは、家の中の空気を回転させて、全ての時間を換気する。新しい空間が、外から入る。


 脱衣所に着くと、その部屋の中で無造作にたたまれたカラフルなタオルや蛍光灯の額縁が、さっと意識の奥へと入り込んでいって、空気中を泳いでいく。全速力でバタフライしながら、私の懐にやって来るのは明るいトーンや色調で、肺の中に浸透する空気の軽やかさが、すがすがしい。


 私はくつ下を脱いで、シャツを洗濯機の中へ投げ入れた。肌に擦れていく滑らかな手触りが、全身の筋肉を折りたたんで、加速する。膝の下へと流れていく下着の軽さは、クイッと足のつま先まで優雅に転んで、一日の長さとその距離の奥行きを惜しみなくほどいていく。素早いタッチの源で、私の心臓が動いているのがわかって、それがいたたまれなく愛おしい気持ちになって、はにかんでしまうのを、技術的に抑えることはできない。


 大きい音、小さい音、反響する様々な息遣いの骨格が、部屋一帯の生々しい匂いや形を寡黙に仕上げて、少し肌寒い気持ちの裏側で、手のひらを胸の上へ押し当ててみた。冷たい手の内側からは、むき出しになった胸の形を確かめることはできても、その柔らかい皮膚の表面の感触から、アバラ骨の一本一本に至るまで、道のりは険しいことを知る。ジャングルのように、入り組んでいることを。私の心臓までの、距離。その近いようで遠い一本の道のりが。


 ゴツゴツしたアバラ骨のたくましいカルシウムと、同じくたくましい手の骨の、細かく細かく研ぎ澄まされたぶ厚さが、コツ、コツ、と衝突する音を聞く。入れない。私の内側に入れない。密閉されている。入り組みすぎて、入り口も出口もない迷路のようだ。心臓に手が届かない。


 どうあがいても入れないなら、いっそ背中から叩いて、その反動で前に出たたくさんの骨の形を、アミのようにまとめて掬うことができたらいいのに。アミで一度捕まえてしまえば、あとはその中に手を突っ込んで、もぞもぞと動くその形や感触を、時間をかけて調べれば良いわけだし。誰かアミを持ってこい。アミを。この私の手の先の器用さで、豪快に振りかぶって、バケツを被せるように上からまるごと覆い被せてあげるから。無邪気な子供みたいにね。


 ほら、みんな小学生の時に、虫かごを持って帽子を被って、鋭い目つきで森の方へと走っていき、カブトムシやクワガタや、その他よくわからない生物たちを捕まえに行ったことがあるでしょ?私には弟が一人いるけど、彼はいつも虫かごを手に持って、ニンマリつり上がった唇を引っさげながら、「ねーちゃん!見て見て!」みたいな。手元には虫かごに詰められた虫たちが蠢いている。気色が悪い。


 まったく、カブトムシって、ただ黒光りしているだけで、他になにか目新しいものがあるわけじゃないし。あいつら手に乗っけると、変にもぞもぞして皮膚の上を引っかき回すから、好きじゃない。もぞもぞ動かれるたびに、こそばゆい感覚が辺りをさらって、貧しい心の内側を覗いているような気分になる。カブトムシのツノを持って、そっと手から引き剥がそうとするけど、足が食いついて思うように離れない。いたいいたい!って言うほど足をバタつかせるから、困ったもんだ。もう少しおしとやかにできないもんかね。いざという時は羽を広げて、どこにでも飛んでいけるんだから、必死になってしがみつかなくても落ちたりはしないよ。おとなしく離れなさい。ほら、ここ持っててあげるから、って毎回優しく虫かごの中に戻してあげる。中に戻ると、ちょっとしょぼくれたような様子で、土の上をバタバタとクロールし、うつ向けに這いつくばってしゃがむ。元気があるんだかないんだか、わからない。


 大きいアミを持って、弟が、「ねーちゃんトンボ捕まえたー!」だって。そんなの知らない。今忙しいという素振りをしながら横目で見ると、トンボが行き場をなくして羽を折り曲げ、しわくちゃのアミの中をもぞもぞと彷徨っている様子が伺える。あのむごたらしさ。


 だけど、そういったものの中にある、ちょっとした好奇心。何かをひっ捕まえてみたいという感情を、細かく畳んで視線の先に配置しながら、虫かごの中の虫のように、私は私の体の中の入り組んだ胸の構造を捕まえたいと思った。背中を叩いて、勢いよく前にせり出した体のどこか確かな輪郭が、ボコっと山なりに動き始めたら、それこそアミのようなキメの細かい密集体で、手当り次第包んであげようという気持ちになるんだ。裸になった胸の内側で、私はそっと胸の表面を撫で下ろして、心臓がある辺りをさすった。心臓の音は、暖かく、きっとどこかで限りなく近くに動いているという微妙な感覚を知った。この鼓動がこの手の中でまだ離れていないことを知った。私の肌の上は思いのほか冷たかった。


 脱衣所で服を脱いでからふと思ったけど、今日はなにを着ていこう。せっちゃんは着物を着てくるって言うけど、なんでそんな畏まった格好をしなきゃいけないんだろう。わかるよ、着物を着たいという気持ちは。でも今日はそんな気分じゃないのが正直なところだから、できるだけ軽い格好をしていこうとも思っている。頭と心を身軽にして、目一杯身体を動かせる格好になったら、その足で花火が上がるところに向かおうとも思う。一年に一回のイベント。夜空に咲く大音量の光のガーデン。楽しみか楽しみじゃないかと聞かれれば、楽しみに違いはない。大きな光と音が空高く重なり合う時間を、まっすぐ見据えて、夏の夜を満喫するのは決して悪いことなんかじゃないはずだから。

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