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夏空  作者: 片岡徒之
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 私は授業の終わりのサイレンの音とともに、一直線に家に帰ることにした。学校にいても仕方がないし、第一に今日は夜に花火があるしね。うだうだ時間を浪費しても、ここには何もない。さっさと家に帰って、お茶でも飲んで、深呼吸しよう。うん、今すぐに、そうしたい気分。


 帰りになにか甘いものでも買って、心を清めるのもアリ。結局せつこはなにもくれなかったしね。期待した私が馬鹿だった。次回からは、あらかじめあいつの机の中に手紙でも入れておいて、私が好きなものを3つ4つ、大きく写真付きで貼り出しておこうかな。何事もアピールすれば、実がつく日がくるって、誰かが言ってた気がするし、「念ずれば花開く」って言葉にもあるように、何事も気持ちと姿勢と真剣味と、それに続くフレッシュな掛け声が大事なわけで。


 私は学校の門を抜けて、足早に家に続く方角を目指しながら、少しだけ速く歩くことにした。すこしだけ、といっても、それはほんの気持ち程度。スッと伸びていく足の形が、一日の終わりを伝える波となって、前進していくリズムになる。


 私と家の距離は、歩いて帰れる距離だけど、普段は自転車を使う。でも今日は徒歩。歩き。なんだかすごく、歩いてみたい気分だったから。短いようで遠い、この学校と家に続く架け橋を。足の裏側の筋肉が、退屈な授業のせいでなまりきっていたみたいだし。歩いて歩いて、午後の太陽の日差しを直接浴びて、その光のシャワーの切れ目を塗って、一日の終わりを楽しみたい。そう思うような気もした。


 移り行く建物の影。散在するアスファルトの亀裂。見慣れたポスターカラーの文字や形。ぐんぐん前に進んでいって、コンビニが見えたら、きっとそこに立ち寄ろう。きっときっと、チョコでも買って、甘いひと時を味わおう。シュークリーム、パン、三角コーナーのミネラルウォーター、それら全部のコントラストが、一人の女子高生の頭を貪る。土足で、チャイムもなく玄関をこじ開ける。


 学校の終わりのこの時間が、じつは一番賑やかだったりもする。頭の中が一つ、また一つと激しく回転していって、もう、「類人猿」については思い出せない。耳の中に引き残る放課後のサイレンも、杉の木の被写体も、みんなどこかへ消えてしまって、色もなく目立たない日常の背景のハリボテになる。


 階段、階段、階段。6限目の授業の終わり。そのハッピーエンディング。


 私は両足を揃えて、この放課後終わりの背景で、どこにでも行ける気がした。華麗なステップイン、アウト。その猛烈なインバウンドが、淀みもなく通り過ぎ、私の背筋へと流れ込む血液になり、速やかに新しく形成されていく、ツヤツヤの新しい細胞になる。学校が終わるということ。その午後の時計の針の下で、頭いっぱいに飛び跳ねる高揚感や、気分上々の晴れやかさが、ずいぶんと近くにまでやって来て、ごきげんよう!という礼儀正しい挨拶の登場が、日常の袖からこそっと足取りを持ち始める。私はそれを見つけることが、何よりも得意だ。サイレンが鳴って、家に帰る途中、その軽い足取りの弾みから、大きく足の裏を踏みしめて飛んでいく影の上側には、巨大な女子高生の人影が、山のように高くそびえて、道路の端から端まで、またたく間に引き伸ばされた鮮明な輪郭になりつつ、世界と街の交差点を股にかける。


 影は、地平線の彼方まで届きそうな勢いで、全てを呑み込みだし、日常の深い深い溝の中へ、ドボンと!、勢いよく足をつけた音を、静かに強調し始めている。そこには、学校が終わるということへの、単純な喜びだけが、多彩な色を交えながら、色とりどりのパレットを築き上げているんじゃない。それはなんというか、青。川の流れ。麦の畑。広大な大地。鳥のせせらぎ。そういったどこか、日常の中にありふれている自然奥地の清らかな静寂が、一段と大きく前に現れた時の、ささやかな、ほんのささやかな、空気とその新鮮さのムーブメント。その潤いが、私の全身から皮膚にかけて浸透していって、心臓の奥へ奥へ、スピードに乗ってたどり着こうとしているんだ。


 私という一人の女子高生の人影が、今にもアスファルトを飲み込みそうに、世界の裏側へとのけ反っているのは、私という人間の、その心が、充実しているからに他ならない。学校が、授業が、退屈だからって、私の体力はちっとも、ピークには陥らない。それどころかますます調子を上げていって、豊かなバランスを保ちながら、午後一番のウグイスの下、お腹を空かせている空っぽの胃袋になる。地面をジャンプする力が、肩から膝にかけて抜け落ちていく。そういうだらしなさが、一日の中の何処かで、例え顔を覗かせてきても、私の身体の一部分の筋肉は、それを拒絶するだけの力があり、強靭さがある。拒絶した挙句、そのあとにせっせとぶ厚い壁を作り、何も侵入してこないような頑丈な何本もの鉄の柵を拵えて、24時間パトロールする態勢の下に、二段構えで警戒する。


 どんな人でも、一日のどこかで、背後を取られ、隙を見せてしまうことがあるだろう。私もその例外じゃないはずなんだ。でも、私を取り巻く環境の全てや、心境の一部分の背景に描き出された、日常の奥行き、ーーー生活の一部始終は、呑気に立ち止まっていられるほど、遅くは進んでいない。それを心のどこかで、背筋をピンと張り詰めて、感じることができるから、私は学校が終わったあと、その進行する空と雲の峰々の間で、さっそうと通り過ぎる時間と時間との間に、隙間もなく挟み込まれて定着する。後ろを振り返ると私の等身大の影がある。足を動かせば、それにつられてその影も動く。ピッタリ合った二者択一の滑らかな全身の挙動は、道の真ん中を進んで、自動車の機体を蹴り、ぐんぐんと肥大する図々しさでもって、今日の自分の日常に到着する。一日の終わりの、午後のサイレンにたどり着いて共鳴するスピーディーな音楽になる。


 私は身体が動く限り、この音楽を聞き逃すことはない。この音楽が私の耳に届く限りは、どこまでも優雅に、リズムよく、つま先を立てて歩いて行ける気がする。人生のステップ1、そのギラギラに磨かれた波動の波と、揺らめきから、風を突き立てて髪をなびかせてくれるのは、私の生活の中の、その切れ味の鋭い研ぎ澄まされた神経の一本だ。この一本を、アンテナのように張り巡らせ、一段と高く飛び上がろうとする、貪欲な遺伝子の跳躍力となって、滞空時間、その空中浮遊する無重力状態となる。今の私の心は、大体そんな感じだ。高校生活の日常で、それがどことなく流れているBGMとなって、時間をどこまでも真っ直ぐに捉えようとする。本日の予想最高気温は、35度です。そのニュース速報の声に導かれながら、今日も私は、時間の進む方向を、朝から晩まで眺めて、しっかりと呼吸を整えようとしている。


 今日も明日も、それはきっと続くのだろう。私の頭を、その頭上の先を飛び越える勢いそのままに、雲は流れる。青い空の彼方へと消えていく。帰り道の道中、私はそんな儚い空の移り変わりを眺めながら、整列した雲と雲の間を突き刺す視線となって、その内側を覗き込もうとした。深い海の中に、煌めく宝石が眠っていることを、誰もが皆、夢見ている。私はなにかをとらえたかった。あの空の峰から、回転する地球軸に乗りたかった。その欲望の膨大な情報量から、取り留めもなく流れ出た細胞の一つ一つのうごめきは、次々に私の身体から剥がれ落ち、道路の脇へとこぼれ落ちて、最後にはアスファルトに染みつく。大きなシミとなって、消えにくい汚れとなり、日常の奥地へと、その深い地層の中へと、積み重なっていく歴史的な建造物の一部となる。日常。それが、私の横にある。ピッタリとくっついている。だから私は、その日常に裏切られないように、元気よく飛び出す音楽に乗って、青い青い空の上を、そのすぐ下を、まっすぐ横切っていく雲になるんだ。そう思いながら、足元を見て、靴ひもをしばった。家に帰るまで、決して靴は脱げないはずだ!


 だけど、どんなに強くヒモを縛っても、とたんに靴が脱げてしまって、足がもつれる時がある。おっとっとって思いながら、足元を見る。ヒモがちぎれてしまっている。そんなにちぎれるほどきつくしばった覚えはないのに、なぜかハサミで切り取られたように、真っ二つになって、固く閉ざされたはずの結び目が、靴から剥がれ落ちてしまっている。そういう時が、時々ある。


 今日も、また、靴ひもがちぎれてしまう音が聞こえた。ささいな音に違いはないのだけど、たしかに、なにかがちぎれて、消えてなくなっていくという感覚が、頭の中へ入り込んできた。何事かと思いながら、周りを見るけど、とくに変わった様子はなくて、自動車はマフラーから排気ガスを噴き出しながら、街の中心へと走り去っていく。一体何だ、今のは。


 どこか、錆び付いている頭のネジが、なにかが、足を踏み出すたびにギシギシ音を立てている気もしないでもなく、私は振り返り振り返り、離れていく学校を見るようにした。その隅には、私と同じように家に向かって突き進んでいる生徒がいて、どこかもの寂しい雰囲気を持ちながら、私に追いつくでもなく、風景画の背景の中に溶け込むように、華奢な身体を画面端に寄りかけている。


 チカチカするのは、私の視界ではなく、緩みきった私の頭の中?そう思えるような不快なノイズが、午後のステージに舞い上がる一羽のカラスとなって、一瞬だけ、意識がくらむ。


 呑気に鼻歌交じりに、ステップしながら、家に帰る。そんな簡単なことも、今日の一日で忘れるくらい疲れたか。


 いいや、そんなことはない。一日の疲れとか、そういうんじゃない。授業のせいじゃないし、先生のせいでもない。黒板のせいでもなければ、白いチョークの埃っぽい粉、…のせいでもない。


 じゃあ一体なんなんだろう。なにがこんなに胸を締め付けるんだろう。なにがこんなに、私の心の外を取り巻くささいな違和感になるんだろう。喉の奥がざらつく。響くサイレンの音に、この午後の時間の素早く遠い、フェードアウトに、心が奪われてしまって、身動きが取れず、その場にしゃがみそうになる。

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