【51】呪蠱
サラの言葉に、ビクトルはハッとして立ち止まった。
気づかぬ内に、サラに引き寄せられるようにして近づこうとしていたらしい。
ピチャリピチャリと血溜まりを跳ね上げて、いつの間にか数匹の黒いオタマジャクシが、ビクトルの足元まで近寄ってきていた。
それに気づいて、ビクリとして後退る。
サラはバトルナイフを逆手に持つと、頭上高くにそっと振り上げた。
「うがあああああっ!!!」
獣のような声を上げ、気味の悪い甲虫に向かって振り下ろす!
ザグッ!!
ピクリとも動かないその甲虫に、サラは何度も何度もバトルナイフを突き立てた。
「ひいっ! はひぃ! ひあっ! はああっ!!」
ザグッ! ザグッ! ザシュッ! ザググッ!!
不気味な甲虫は抵抗も無く、足がもがれ、大顎が割れ、顔が飛び、触手を切り落とされていく。
……何をそこまでして切り刻むことがあるのか。
相手は、ピクリとも動いていないというのに……。
それでもサラは、最後に大きくバトルナイフを振りかぶり、甲虫の身体めがけて振り下ろした。
ザグッ……。
「ひぃ……はああっ!!」
サラは顔を歪めたままバトルナイフを引き抜くと、肩を激しく上下させ、荒い息を吐き出した。
そして剣先で、プチリプチリと、鋭い牙の生えたオタマジャクシを潰していく。
その光景を、ビクトルはただただ、小刻みに震えながら見守っていた。
やがて、オタマジャクシをすべて潰し終えたサラが、ヘナヘナとその場に崩れ落ちる。
サラの右手からバトルナイフが滑り落ち、石床の上でカラカラと音を立てた。
「……サラ!!」
頭から床に倒れそうに鳴るところを、咄嗟にビクトルが駆け寄って、素早くその身体を抱きとめた。
丸くて温かな膨らみが、柔らかく腕に当たる。
サラはビクトルの肩に、顔をうずめるようにして、力なくしなだれかかってきた。
肩を大きく揺らして、熱い吐息を吐き出している。
全身、汗でビッショリだった。
「……風呂へ……」
「え?」
「風呂へ……入れてくれ……」
サラの状態に、ビクトルは戸惑いを隠せない。
「血を……流したいんだ……このままじゃ……気持ち悪い……」
「……し、しかし、そんなに血を流してるのに……! かえって、おかしくならないか?」
「大丈夫だ……わたしは、大丈夫、なのだ……」
サラはいつもそう言う……そんな言葉を飲み込んで、ビクトルは、サラの身体を抱きしめた。
力の入らない様子のその身体をそっと抱えると、湯船にジャブリと入り込み、サラの身体を湯船に沈めてやった。
サラが湯船の縁にもたれかるようにして、天井を見上げる。
辛い仕事を、ひとつ終えたような、放心した表情だ。
「行かないでくれ」
ザブリと音を立てて湯船から上がったビクトルに、サラが言う。
ビクトルは黙って、サラの左横、湯船の縁に腰を下ろした。
するとサラが、右手を伸ばしてきた。
その手を、ビクトルは優しく握ってやった。
白くてしなやかな、女の子らしい手だ。
「……すまない……しばらく、こうしていてくれると嬉しい」
「ああ、いいさ」
ビクトルの言葉に、サラがゆっくりと目を閉じる。
そしてひとつ、大きく吐息を漏らした。
水面に揺れる、サラの白い裸体。
こうしてみると、なかなか女らしい身体つきをしている。
サラが少年っぽく見えるのは、短く刈り上げた髪型のせいだろう。
髪を伸ばして綺麗に整えればきっと、サラも美しい少女になるに違いない。
原種アッグルは己に厳しい反面、他者や異文化には寛容と言われる。
だから社交的なリムテアとの交流を中心に、混血が進み、純血はほとんど残っていないらしい。
数少ないながら、時折、世に現れる原種アッグル女の妖艶な美しさに、歴戦の英雄たちが心惹かれたというのもまた、事実なのかもしれない。
裸体のサラに見とれながら、そんなことを思う。
それでも、さっきまであれほどまでに突き上げてきた欲情は、不思議と息を潜めていた。
「……何の用だった?」
しばらくして、サラが口を開いた。
「ああ、いや……今、オイラーフィッシュのソテーを作ってる最中なんだが、サラはどこへ行ったかな、って」
「そうか。是非ともいただこう。ずいぶん、疲弊してしまったからな」
そう言って、サラは「ふふっ」と笑った。
「皆はどうしてる? 迷宮攻略は、終わったのか?」
「マグマの部屋まで終わって、あとひと部屋を残すだけだ。そこは、ロンとアスタにまかせてある。ハインツやプルデンシアたちは、スキルバレットチャージ休憩のついでに、何か使えるものはないかと、迷宮を隅から隅まで探索して回ってるところだ……」
「そうか、良かった……。わたしも、大事な時には間に合いそうだ」
「ゆっくり休んでろ。チャージ休憩が終わるまで、まだあと7時間ほどかかるからな」
「ああ。では、そうさせてもらおう。とても助かる……」
そう言って、サラはとてもホッとしたように大きく息を吐き出した。
どうやら、いつもの調子が戻ってきたようだ。
声に、張りが出てきている。
「聞かないのか?」
「何を?」
「あれは、なんだ、と」
「ああ……」
ビクトルは俯いてポツリといった。
「サラが話したいなら、聞くよ」
一瞬、二人の間に、沈黙が走る。
サラは握る手に、ギュッと力を入れると、そっと口を開いた。
「あれは────呪蠱だ。わたしの中に寄生し、わたしに闇力を与える源……」
『呪蠱』……。それは呪術師たちの使い魔の総称だ。
ロンフォードの毒蜘蛛がそれに当たる。
それが常に、サラの身体の中に巣食っているというのか……?
だがそれならば……ビクトルはすべての合点がいった。
なぜサラが、あれほどまでの戦闘力を発揮できたのか。
そして、傷がすぐに癒え、毒も効かなかったのかを。
「あれは、女の日に合わせて、ああして生まれ落ちてくる……本当は、もっと先の日だと、思っていたが……」
「……狂化ドラゴンの、極限竜咆哮をモロに食らったせいかもしれないな。さっきの虫みたいなの、すでに死んでたぜ」
「なるほど……たしかにそう考えると、納得がいく。あんな状態が長く続くのはおかしい、と思ったのだ。さすが、ビクトルだ……」
今、褒められて嬉しい訳がない。
そっと眉を潜めるビクトルをよそに、サラは、ポツリポツリと身の上話を始めた。
サラの強さの秘密はよくわかりましたが……。いったい、どんな過去が?