ネコの嘘
盆地の夏というのは、どうしてこう、身体に泥を塗りたくられらような暑さなのか。まだ京都みたいに風情ある景観で暑いなら許す余地もある。でも風情なしにこの暑さは許容できる範囲を超えている。
階段の一段ごとに増していく蒸し暑さに閉口しながら俺は図書室を目指す。
ここの図書室は、借りた本は一週間で返却しなければならないという決まりがある。その本をあまつさえ一ヶ月も借りてしまった。さすがにこれはまずい。
一呼吸おいてから図書室の扉を開けて、平然とした態度を繕いながら俺はカウンターに座る図書委員に本を差し出す。どうやら俺が図書室のドアを開けるまでカウンターで寝ていたらしく、まだ眠そうな目でその図書委員の女子生徒は俺がカウンターに置いた本にバーコードリーダーを押し当てる。それとほぼ同時にカウンターへ突っ伏してしまったのでたぶん返却が遅れたことは気づかれてない。
数秒して、さっき返却した本の続編をカウンターに持ってくると、その図書委員は眠ったまま起きる気配がない。きっとテスト当日提出の課題が終わらずほぼ寝ずに課題をやっていたんだろう。とても同情できる。
というわけで、やむなく自分でバーコードリーダーを使い本を借りた。
そんな図書室を後にして、自動販売機前。入学当初はまさか自分が、毎週金曜日ドクぺを買わされる羽目になるなんて思ってもみなかった。
もはやルーチンワークとなっている購入作業を済ませ、吐き出されたドクぺの冷たさにささやかに感動しながら、俺は自動販売機に背を向けて部室へと向う。昨日のテストも思い出となった今、何となく学校全体の雰囲気が浮かれている。そう思うと夏の猛暑も夏休みの演出家として一役買っているように思えた。
階段を上って三階の部室へ。毎週の習慣のように、部室へ入ってきた俺に加賀先輩が詰め寄って来るだろうと、予想していたのでドアを開けて肩透かしをくらった。
加賀先輩が部室にいない。
……まあ、深刻に考えることでもないか。というかむしろ喜ばしい。もしいつものように、ほとんど抱き付くように距離を詰めてこられたら、ただでさえ暑いのに体感温度がさらに高くなる。とくに精神的な意味で。
その瞬間、ぴとっと後ろからひんやりとした物を頬に当てられる。
「どう? びっくりした」
聞き覚えのある先輩の声にわざと億劫な表情を作って振り向くと、そこには加賀先輩が暑さに怯みもしない眩しい笑顔で立っていた。その純粋な笑顔に一瞬だけ子どものような印象を受けるも、それでいながら首筋とかは夏服の薄く白いポロシャツも相まって艶めかしく見えるのだからふとしたときの反応に困る。
「どうしたんですか、部室にいないなんて」
「これだよ。葵くんがなかなか来なかったから自分で買ってきた」
俺の頬からはなしたドクぺを前髪を救い上げるようにして自身の額にあて逆の手でそれを指さす先輩。
加賀先輩が自分でドクぺを買いに行くとは珍しい。成長しましたね先輩。でも、今度は俺がドクぺを買う前に言ってください。
「とにかく入ろうよ。こんなところで立ち話をしていたら真面目に活動してないと思われちゃうからね」
ん? その発言は真面目に写真部として活動をしているように聞こえるぞ。
部室に入るなり、加賀先輩はテレビの前に置かれたゲーム機の電源を入れるのだからどう見ても真面目な写真部とは言えない。
まあ、名ばかりの写真部なのはいつものことか。
俺は教室の後ろで山積みになったイスから一つ窓際に置き、カバンを下してそこに座った。
本を読むのに疲れてだんだんと斜め読みしているような感じになってきた。正直本の内容は頭にほとんど入ってこない。でも何かしていないとじっとりとした暑さに気づいてしまうので一応読んでいる。ここまでくると暑さを無視する手段としては気休めに近い。
そんな中、加賀先輩は自分で買ってきたドクぺを飲みきり、俺の買ってきたほうのプルタブを押し上げた。ごくごくと喉を鳴らしてそれを飲み、真紅の350ml缶を床に置いてまたゲームを再開する。
暇になってきたので、そろそろ帰ろうかと腰を浮かせると同時に加賀先輩も座っていたイスから立ち上がった。でもコントローラーはまだ両手で持ったままで操作もしている。
何だか面倒なことを言い出しそうな予感。というか悪寒。
「聞いて欲しい話があるんだよね」
「俺帰るんで」
「それは、暑いから気を利かせて冷たいことを言ってるのかな」
加賀先輩が冗談めかした口調で振り向いた。どうやらゲームはひと段落ついたらしい。
「いや、帰りたくて言っているんです」
「そんな葵くんに、問題」
やっぱり問答無用か。
「最近、音楽部の紙が箱ごとなくなったらしいんだよ」
加賀先輩はさっきまで座っていたイスの中心にドクぺの缶を置いた。それを絶妙なバランスでイスごとを持ち上げ俺と向かい合うようにして置いてからドクぺを手に取ってそのイスに座る。
そして加賀先輩は席に戻れと促すかのように、窓からの陽差しの中、首を傾げて毒々しいくらいの屈託のない笑顔で俺に笑った。
怖いので、とりあえず、イスに腰を下ろす。
「それがどうしたんですか、もしかして加賀先輩の方に個人的に相談があったんですか」
「そうじゃないよ、かと言って写真部の依頼人じゃないけどね。だから問題だよ。単なる遊びのね」
加賀先輩は手に持ったドクぺを一口飲んで窓の縁に置く。
音楽部の紙というのは担任が音楽の教師なこともあって聞いたことがある。音楽部は楽譜を大量に印刷、コピーするため生徒会室に設置されたコピー機の横に大量の紙が入っている箱を置いている、らしい。実際には生徒会室に入ったことすらないので見たことはない。
「これだけのヒントならまだ分からないよね」
「俺は問題の意図すら分かってないんですけど」
「ならもう一つ。私が入学してから数か月で廃部になった、演劇部。その部室には今ダイアル式の鍵が掛かっていて、放課後四時半時くらいにそこの部室に入っていく人がいる」
俺は肩をわざとらしく落としてため息をついた。問題なんて答える気毛頭ない、のアピール。
すると加賀先輩は腰を浮かせて顔を俺に近づけてくる。座っているので後ろに下がることもできず、俺を中心に教室の壁と光を透過させた窓が潤む先輩の瞳から思わず目をそらした。そしてその瞳は俺を映したまま優しくまばたきをする。
「分からないみたいだね。じゃあ、最後にスペシャルヒント。その人は今週の月曜日の朝に捨て猫を見つけて衝動的に拾ってきちゃった。そしてその猫を演劇部の部室で育てている」
「それは―――」
「答えじゃないよ」
俺が口にしようとした言葉を読んだかのように、先輩は俺の質問をさえぎる。
「だからね、問題は、それが誰なのかってこと」最後に笑顔を付け加えて加賀先輩の表情は遠ざかる。「これを知っているのは今のところ私だけだよ」
一歩下がってイスに戻った加賀先輩は、ほんの一瞬俺の表情を確かめるように眺めてから、ドクぺを手に取って缶がほぼ逆さになるくらいの角度で流し込んだ。
「もう、空になっちゃった」
そう言いながら缶の口の部分をのぞきこんだ加賀先輩は結露で汗をかいた缶を床に置いた。缶の背にできた濃い影が床に張り付く。
何か言うつもりで口を開けようとしたのに、その口は半開きのままで、そこからはため息しか出てこない。
もう逃げれない、そう諦めて考えるしかない。加賀先輩の問題を。そうじゃないと、今日は家に帰らせないとか横暴なことを言い出しかねない。これは加賀先輩の子どもっぽい性格のひとつだ。
俺はイスに深く座り直して考える。
音楽部の使う生徒会室のコピー用紙。
演劇部の部室の鍵の解除番号を知っている人物。
漂ったままのヒントを妄想と組み合わせて、可能性の片鱗を探してみる。
黒板の右上に掛かった時計が暑さに怯えたようにぎこちなく動き、冷静に針先を止める。
「加賀先輩」
「おっ、誰なのか分かっちゃったのかな?」
陽差しを透過させた加賀先輩の髪が薄いブラウンに染まる。
「この条件で動ける人は、一人しかいません」
「いやー、まさかそう答えるとは思ってなかったよ」
部室の予備6室を出て、加賀先輩と話しながら階段を下りる。校庭から聞こえる活気あふれる運動部の声が放課後の雰囲気を作り、それに気圧されて内心閉口している自分がいる。
「そうだと思ったんですよ、あの時は」
結局答えを外してしまった。だからと言って別に悔しいわけでもない。もともと問題に興味があったわけではないので、正解不正解はどうでもいい。……いや、負け惜しみじゃないよ。
「どうして、私だと思ったの?」
「ヒントから考えて一番該当する人物だからです」
「でも私は音楽部じゃないし、生徒会委員でも、もと演劇部でもない。可能性としては低いと思うんだけど」
手すりをコツコツと指先で叩きながら先輩は階段をゆっくり下りる。
「音楽部の部員が盗んだというのは最初からないと思っていましたよ。音楽部は吹奏楽部に並んで部活がハードらしいので、四時半に部活を抜け出せるわけがない。なら、生徒会委員の中で活動の少ない文化部に所属してる人だと思ったんですけど、なんで猫に会いに演劇部の部室へ行くのが放課後の四時半なのか不明なんです。
だったら生徒会室でも演劇部の部室でも自由に入れる人を考えた時に、写真部ってそれが可能だと思ったんですよ。撮影のため、って理由付けさえすればどこの部屋でも入れる」
先輩は小首を傾げて階段を数段下りてから反駁する。
「それって結局、なんで四時半なのか答えられてないよね。それに、写真部だからってどこでも開けてくれるってわけじゃないよ。プラス私には前科があるから、一部の先生には目をつけられてるしね」
「そうかもしれませんね」
その前科を気にしているのは、教師陣じゃなくて先輩自信じゃないですか、と口から出そうになった言葉を飲み込む。あれは結局のところ誤解なのだ。いつかは風化して跡形もなくなるまで待つしかない。
加賀先輩は小さく跳ねて立ち止まる。俺は先輩より一段低いところで立ち止まって振り向いた。
「それじゃあ、正解ね。正解は誰なのかっていうと――――音楽部の光空ちゃんでした」
「……誰ですか、それ」
「言うと思ったよ。でも葵くんなら、絶対に一度は会ったことがあるはずだよ。ほら図書委員の」
そう言われてもピンとこない。なにせクラスの人の名前すら全員覚えていないので図書委員会というのと名前だけで個人を特定しろなんて無理な話だ。
「そうだな……葵くん、今週図書室行かなかった?」
「ついさっき行ってきました」
「昨日とかは行ってない?」
「行ってませんよ」
先輩は薄い笑顔で諦めたように肩をすくめたがその表情は一瞬で姿を消し、何やら納得したような表情に移ろってから首を縦に振って階段を一段下りる。
「だから部活に来るのが遅かったんだね。脅かさないでよ、写真部のことが嫌いになったかと思ったよ」
加賀先輩の言葉で違和感が脳裏をかすめる。俺が部室に行ったとき、普段ならゲームに没頭しているはずの加賀先輩の姿はなかった。
この校舎には東西に階段がある。そしてドクぺを買って写真部の部室に行くのに最短なルートは今下りている西階段を行くルートだ。もし単に加賀先輩がドクぺを買いに行っただけなら写真部の部室から自動販売機までの往路か帰路のうちで出会わないのはおかしい。
「加賀先輩、俺が部室に行く前、どこにいたんですか」
「もちろん部室だよ。演劇部のね」
俺を一瞥して知らない二年生の生徒が通り過ぎる。そしてそのまま歩調を緩めることもなく階段を上って行った。
「今日は光空ちゃん部活があるから、猫にこのミルクあげるように頼まれちゃってね。知ってる葵くん? 猫には冷たい牛乳を与えちゃいけないんだよ」
加賀先輩はカバンの中から小さなサイズのペットボトルを取り出す。中には牛乳らしき白い液体がわずかに残っている。
「私も人生初の授乳だったよ、本当にもう可愛くて」
加賀先輩はその猫を思い出して可愛さに浸っているのか、にこにこしながら身をよじる。
そういえば、音楽部で図書委員の光空という人が誰なのか分かってないままだ。まあ、知らないままでも問題ないか。どうせ関わりがある人じゃない。
夏の陽差しは去り際が悪く、そろそろ部活の終わる時間だというのにまだ沈み切らずに残っている。
廊下を照らす窓からの陽差しで校舎に籠る暑苦しさを感じていると、加賀先輩が階段を一段飛ばしで下っていく足音が校舎内の森閑とした空気にひびを入れていった。
この高校敷地内には各部活の使う部室棟が三つある。
校舎から校庭を挟んで建っている部室棟と体育館横に横たわるような形で配置された部室棟はまず訪れることがないのでよく知らないが、もう一つの、校舎をから見て校庭とは逆の方面にある瑠璃館と呼ばれる多目的ホールのような建物を挟んだ向こう側に建っている部室棟は何となくわかる。毎日帰るときに駐輪場へ向かう際この部室棟の前を通るからだ。
演劇部の部室はその部活棟の二階の一番隅、ESS部の部室の横に位置していた。ドアにかかったまま砂と埃をかぶった[演劇部]と書かれたプラスチック板が長く使用されてないことを語っている。
「ほら、ここだよ」
加賀先輩は指で演劇部の文字をなぞりながら砂を落とす。
写真部にはこのような部室がないため、部室棟の個室には初めて入る。だからといって入るのが楽しみなわけでもないので早く帰りたい。もう校舎が閉まる二十五分前だ。
「さっそく入ろうよ、誰かにここを出入りしているところを見つかったらまずいからね」
そう言っている間に加賀先輩は部室の鍵を解除し、重そうな青い鉄扉を開けた。
部室内は意外に広く奥の壁には窓がはまっていた。そしてコンクリートで固められた矩形の部屋に、ぽつんと白紙のはみ出た段ボール箱が置いてある。きっとあれが音楽部の紙が入った段ボールなのだろう。
即席で作られたその段ボール箱の家から小さく顔を出す三毛猫はこちらを凝視して身動き一つしなかった。
「心配してたよ、ところでそのミルクおいしい?」
ほぼ跳ねるようにして加賀先輩はその段ボールに入れられた猫に近づく。先輩は人でも猫でも詰め寄るのは変わらないらしい。そして猫の反応も例に漏れず、後ずさったように見えた。
「まだ光空ちゃんが来るまで時間があるから正解発表でもしようか」
「別にしなくていいですよ、ただの問題なんですから」
加賀先輩が猫の首をくすぐると気持ちよさそうに猫が喉から声を出す。
「そんなこと言わないでよ、答えは大事だよ。課題やるときとか」
「加賀先輩答え見ながら課題やってるんですか」
「ん? 私は課題をやるときに大事って言っただけで答えを写すときなんて言ってないよ。まさか、葵くんは答えを写してるのかな? だから数学ができなかったんだよ」
俺が昨日のテストで数Ⅰがあまりできなかったのをなぜ知っている?
「なんで葵くんが数学苦手って知ってるかというと、葵くんのお姉ちゃんに情報提供してもらったんだよ」
姉よ、もう少し弟を労わってくれ。
「それじゃあ、本題に戻そうか」
加賀先輩は猫を撫でるのをやめて壁に寄り掛かる。そして猫を見つめたまま得意げな笑みで話し始めた。
「葵くんも考えたと思うけど、音楽部の紙を盗れるんだから犯人は音楽部か生徒会だよね。そう、実際に犯人は音楽部の娘。もしかしたら葵くんはそこから、四時半っていうヒントに惑わされたのかな」
俺の表情を窺うように加賀先輩は猫に向けていた視線を俺の方に移す。俺が肩をすくめてみせると、先輩は軽く鼻を鳴らした。
「葵くんも知っての通り、テスト週間のあいだには部活動が一切休止になる。だからみんな放課後は校内に残らないで下校しちゃう。葵くんもきっとそう考えたんだよね」
俺は無表情を繕ったままポケットに両手を入れて背にした鉄扉に寄り掛かる。夏の熱をたっぷり含んでいるせいか扉は制服越しにほんのり熱い。
「でも、帰れない人もいる。葵くんは誰だと思う?」
「図書委員ですか」
俺はさっき加賀先輩が言っていた光空という人のことを思い出しながら答える。
俺が答えたのに満足しているのか加賀先輩は満面の笑みで嬉しそうに何回か首を縦に振った。
「そう、図書委員だよ。図書委員は毎週一人が放課後に図書室のカウンターで貸し出す本と返される本のバーコードにピッてやらなきゃならない。図書委員はその作業を四時半までするんだよ。だから光空ちゃんは四時半ごろにこの部室に来ていた。
それに光空ちゃんはもと演劇部なんだよね。それも部長さんだったんだからすごい人なんだよ。今からここに来るから光空ちゃんに失礼のないようにね。押柄な態度は厳禁だよ」
「今からですか?」
思わず聞き返してしまう。てっきり猫を愛でてそのまま帰ると思っていた。
「もちろん今からだよ。だいじょぶ、運動部は夜まで練習してる部もあるから校舎が閉まってもあと数時間は校門が閉まることはないよ」
面倒になりそうな気はしていたけど、まさかそんな時間まで帰れないなんて想像もしてなかった。
愛くるしく顔を出す猫を見ていると無意識にため息がこぼれた。
数十分後、鉄扉を開ける軋む金属音とともに少し開いた扉のすき間から前髪にネコの髪留めをした女の子が顔をのぞかせた。そしてそのすき間から入ろうとして、背負った小さな白のリュックが引っかかり、最終的には普通に扉を開けて演劇部部室に入ってきた。校章の色からして三年生だ。
そして俺に訝しげな視線を向けてから、両手に持っていた紙パックのぶどうジュースをスカートの両ポケットに隠すように素早く押し込んだ。
加賀先輩はその娘に近づいて卑称交じりで俺のことを説明すると、光空は納得したようで俺に丁寧なお辞儀をしてくる。
「相談に乗ってくれてありがとうございます!」
いや、相談自体知らないんだけど。
「光空ちゃん顔を上げて、猫を飼いたいって人は絶対に見つかるよ」
「そうだといいんですけど……」
光空は不安そうな声音で言葉を淀ませると俯いてから猫のいる段ボール箱に視線を移した。
「ということで、葵くんもいるから光空ちゃん、改めてもう一回相談内容を訊いていいかな?」
「はい、分かりました。……相談というのは、もちろんあの猫のことなんですけど」
光空は小さく猫の方を指さす。猫が段ボールに入れられた紙の上で動いてガサガサと音がした。
「拾って来た者としてとても身勝手なんですが、私は家でこの猫を飼えないんです。だから仕方なくここで……飼ってます。相談というのは猫の新しい飼い主を見つけて欲しいんです。……大丈夫でしょうか」
俯いた顔を上げ光空は加賀先輩を見つめた。そんな彼女を心配させないように加賀先輩は笑顔を返す。光空の唇が何度か微かに動いて言葉を続けた。
「それと、猫の差出人は匿名でお願いしたいんです」
たしかに匿名にした方が無難だ。もし飼い主を探している間、猫を学校で飼っていたことが教職員にばれたら、匿名にしていないと光空は教師から叱責をくらうことになる。
そして光空は思い出したように両ポケットから紙パック取り出し加賀先輩と俺に差し出した。
「あの、今から手伝ってもらうことになるので、これ」
後輩に対しての物腰の低さに少し気後れして、差し出されたジュースを手に取るか悩んでいると加賀先輩が優し笑顔で光空に顔を近づける。
「光空ちゃん、報酬は後だよ。私たちはまだ解決すらしてないからね」
たしかに後払いのほうが堅実だ。後払いなら例え依頼を完遂できなかった時も手を引きやすい。
それにきっとこのジュースは俺に買ってきたわけじゃないだろう。俺を見て慌ててポケットにジュースを詰め込んだ反応からして加賀先輩が俺を連れてくることを知らなかったみたいだ。
「それじゃあ、光空ちゃん、飼い主探しは月曜日からね。写真部に任せて、絶対に猫を優しく飼ってくれる人を見つけるから。ね、葵くん」
加賀先輩に向けられた視線はいつも通りの無邪気な視線で、依頼を承諾する目だった。
吐いたため息が薄暗くなり始める部室に溶ける。俺を慰めるかのように後ろで猫が弱々しく啼いた。
♞
結局昨日はあの部室で「明日、写真部に顔を出すようにね」と命令され、休みだというのに俺は登校を余儀なくされた。
ところで、こういう日はドクぺを買ってきたほうがいいのだろうか。今まで平日に部室に行くことはあっても休日というのはない展開なので分からない。まあ、もう二階だし、今更下まで買いに行ってから三階に行くのは面倒だ。
上る階段がいつもより高く見えるのはたぶん気分的な問題で、深夜遅くまでゲームをしていたせいだ。欠伸をしながら三階まで上り予備6室の部室に到着。
ドアを開けると、ゲームをしていた加賀先輩が目を輝かせて飛び跳ねながら俺に詰め寄ってくる。昨日はこの展開がなかったせいで何となく懐かしく感じてしまう。
すると目の前の加賀先輩は、何かに気づいたように目を見開いてから口を半開きにしたまま顔を白くしてわなわなと一歩二歩俺から後退する。胸の前でだしたままの指先も小刻みに震えだす。
「どうしたんですか、加賀先輩」
「葵くん……もしかして」
「なんですか」
「もしかしてだよ……ドクぺ……ない?」
希望をすべて零してしまったような表情の加賀先輩。やっぱりドクぺを買ってきたほうが良かったのかもしれない。加賀先輩が今にも泣きだしてしまいそうなので、俺は一旦ドアを閉めてドクぺを買いに行った。
部室に戻ってくると先輩はゲームのポーズ画面を見つめたままイスに座っていた。完全にレイプ目な加賀先輩の頬にドクぺを触れさせると、目の輝きが水に色を一滴落としたように広がっていく。
「買ってきましたよ」
すると突然、加賀先輩は弾けたように跳躍し空中で方向転換をして俺を正面に着地する。
「葵くん」
「な、なんですか」
「いつもありがとう」
言うが早いか、加賀先輩は華奢な両腕を俺の背中にまわす。そしてそのまま密着するように顔を俺に沈めた。髪が無邪気に俺の頬をくすぐる。加賀先輩も俺も夏服のポロシャツなので、まわされた腕の肌の質感と膨らんだ胸の熱をより近くに感じ心臓が跳ね上がった。
「か、加賀先輩……」
「どうしたの、葵くん?」
ゆっくりと俺を見上げてから言ったその言葉は、暗く沈んでいくような気配を持った低い声だった。
「……もしかして先輩、怒ってます?」
「もちろんだよ、このまま背中にひっかき傷をつけたいくらい」
誤解されそうな傷をつけたいらしい加賀先輩の声音は明るく、もういつも通りだ。でもそれが逆に怖い。
「ドクぺを買ってこなかったのはすみませんでした」
思わず謝罪の言葉が口から出たけど謝る必要がないといえばない。一方的に加賀先輩が買ってくるように指図してくるだけなわけだし。
不意に腕を解きバックステップで俺を少し突き放すように距離をとる加賀先輩。そして人差し指を俺に向けもう片方の手を腰にあてて高らかに刑を執行する。
「これは無期懲役級の罪だよ、だから今から一緒にゲームに付き合ってもらうからね」
数時間後、加賀先輩とのゲームから解放されたのは『挑戦者が現れました』と画面に映った時だった。そこからは加賀先輩がCPの犬と対戦し始め俺はお役御免となった。久しぶりのスマブラで楽しくはあったが加賀先輩がやたらと強い。結局俺が勝てたのは片手で表せるほどの数だった。
朝からのゲームでどっと疲れた俺はやっといつもの窓際ポジションに座ることができた。体が疲弊しているせいか木製の背もたれがいつもより固い。
猫のことでこの休日に呼んだんじゃないのかと考えながら、中庭の駐車スペースを覆う影を作る二号館をぼんやりと眺める。休日なので二号館には人がいないらしく古い校舎の廊下がいつにも増して寒々しく荒涼としている。
「まだ夢の中なのかな?」
ゲームにキリがついたらしく加賀先輩はWiiリモコンを俺に向にむけてBボタンをカチカチ押してくる。
俺が生返事を返すと加賀先輩は不機嫌そうに眉根をよせた。
「今から猫の飼い主探しをするんだから寝ぼけてちゃダメだよ」
今度はAボタンをカチカチ。
「眠いんですよ。昨日遅かったんで」
「明日は部活って言ったのに。ゲームでもしてたのかな?」
「まあ、そんなところです」
「やってたのはエッチなゲーム?」
「そんなことより、猫のことはいいんですか」
忘れていたことを思い出したかのように「おっ!」と声を上げて加賀先輩はWiiリモコンをテレビの横の棚に置いて小走りで戻ってくる。
「そうだったね、今日は猫のことで葵くんに来てもらったんだった」
出勤命令を出してきた張本人が要件を忘れているという事態に、今後の依頼完遂までの道のりを心配せざるを得ない。
「なら、さっそく話し合おうか。葵くんも手伝って、机のセッティング」
加賀先輩は俺が部室に来た時と打って変わってやる気満々な様子で、後ろに積んである机を一つ持って来て俺の目の前に置く。
「机なんて必要なんですか、いらないと思いますけど」
「固いこと言わないでよ、雰囲気だよ、雰囲気」
「一つあれば十分です」
「そう? 話し合いと言えば、こう生徒会室みたいな感じにした方がいいと思わない?」
「思いません」
俺が即答すると、加賀先輩は拗ねるような表情で持ってきた机を軽く叩いた。そしてゲームの時に使っていたイスを持ってきて机を挟んで目の前に座る。
加賀先輩はわざとらしい咳払いをしたあとに話し始めた。
「議題は大体分かるよね」
「昨日の猫の引き取り手を探すんですか」
「そう、その通り。問題はどうやって探すかだよね」
「べたに、『飼い主探してるにゃん』とか書いた猫の写真付きの紙を校内に貼っておくのはどうですか」
俺が提案すると加賀先輩は突然お腹を抱えながら笑いだした。なにか変だっただろうか。
数秒笑ったあと、先輩は目じりの涙を指でこすりながらイスに座り直した。
「ごめんごめん、葵くんのにゃんが面白くってさ」
「『にゃん』を書き入れるか入れないかはどうでもいいですけどこの案が一番いいんじゃないですか」
「その案はたしかにいいね」
そう言いながら先輩の口元はまだ笑ったままだ。
「なら、作らないと……」
「でも」
俺の言葉を遮った加賀先輩の表情はさっきとは違う笑顔だった。落ち着いているのにどこか生気に満ちていて艶めかしい。
「―――捨てた人を特定できてたらどうする?」
「できるんですか」
「さあ、どうかな」
加賀先輩はいたずらっ子のような笑顔に表情を戻して、俺の双眸を見つめる。
加賀先輩がこうなってしまったらもう打つ手はない。先輩は依頼の完遂を目的としてではなく、俺に完遂させることを目的としている。今までと変わらない加賀先輩。依頼人と俺の双方に関わり結局は傍観者という立ち位置にいようとする。
「これ以上、私に案はないよ。どちらにせよ飼い主募集のポスターは作らないといけないよね。ポスター作り手伝うよ。もちろんポスターに『にゃん』は必須ね」
加賀先輩は指先で短くリズミカルに机をたたくと立ち上がり、イスをさっきまであったテレビの前に戻すと「久しぶりにこれやろう」とソフトをPS3にセットした。
どうやらもう議論することはないらしい。机まで持ってきてやる気満々だったわりに冷めるのは早い。
もし前回と同じなら加賀先輩は何かヒントを出すはずだ。もしくはもう出したか。
後輩が考えているというのに先輩はすでにゲームを嗜んでおり、コントローラーのスティックを動かすカチカチ音が部室に響いている。
俺は短く息を吐き出してから考え出した。
捨てた人を特定できたとしたらどうする、という加賀先輩の言葉。逆算して考えてみるのはどうだろう。
カチカチカチカチカチカチカチ。
逆算してもダメか。特定できたら、という過程からでは推測に確実性がなさすぎる。
カチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチ。
なんか「スティッキー! 当たっちゃったか、強いよねクロスボウって」……気が散って考えられない。
「加賀先輩」
「どうしたの? 何か思いついたのかな」
「今から作りますよ、コンピュータ室で」
この部室だと考えがまとまる気がしないので、猫の元飼い主の話は保留にして、まずポスター作りの方から先にやってしまおう。手短に終わらして早く帰りたい。
「葵くん、それってもしかして……婚前交渉の誘い?」
「違います、断じて」
今の会話の流れからどうしてそうなるのか分からない。エロゲ脳なのか加賀先輩。
「いや、コンピュータ室って今誰もいないと思うし、そうなのかなぁ、と思って」
「ポスター作りです」
心臓に悪い冗談には付き合ってられないので、未だFPSを堪能している先輩を背に俺はコンピュータ室へ向かうため部室のドアを開けた。
テスト後の休日だというのに昨日学校に行ったせいで疲弊感が身体から抜き切れていない。
今回の依頼は、ポスターを作って飼い主を募集するのだから元の飼い主がどうであれ結局は大して関係ない。それに一旦捨てた猫をまた元の飼い主が飼い始めるというのも考えにくい。
今回はきっとポスターで地道に飼い主を募集して、猫を引き取ってもらって依頼は終了、という形が労力的にも最善策だろう。
そうは思いながら、いつもながらの加賀先輩の意味深な言葉が頭の中に蟠りとして堆積している。
ベットに身を投げ出し白い天井にため息をつく。
実のところ、最善策を裏切るように、すでに妄想をより状況に見合う形になるよう組み立てている自分がいる。欠損を状況からの予想で埋め、方向性に妄想と虚構を何度もはめ込み試してみる。
自分の部屋で考えると意外にも結論は早く出た。やっぱりあのカチカチ音は集中を削ぐ根源だった。
ふと壁に掛かった時計で時間を確認するともう深夜一時過ぎ。せっかくの日曜日は何となく時間を過ごしていたらすでに月曜日を迎えていた。
♞
五日間、写真部作成の〈飼い主募集〉ポスターを一号館の各階に一枚ずつ張ったところ、一年生の方は収穫がなかったものの、加賀先輩の方の二年生にはちょうど一人いたようで、今のところ猫の引き取り手の候補はその人に決定している。
「だから訊いてきてほしいんだよ、猫を手放すことに未練はないのか、ね」
「それって加賀先輩の興味本位ですか、それとも依頼人のためを思ってですか」
「それは光空ちゃんにそのことを訊いてみないと分からないかな。杞憂に終わればそれでいいし、もしかしたら手におえないことかもしれない」
加賀先輩はドクぺを傾けて一口飲む。その笑顔に一瞬翳りが過ったように見えた。その理由が、光空関係のことだというのは何となく分かった。
加賀先輩は解決できることに尽力して完遂する。でも、もし解決できない依頼だったら……。
もっとも今回の依頼は猫の飼い主探しなので、飼い主が見つかった時点で解決ではある。それでも加賀先輩は元の飼い主が猫を手放した理由まで考えているのだろう。
「そろそろ音楽部は部活が終わるかな」
時計の針は六時四十五分を指そうとしている。青春を部活動にかける皆様お疲れ様です。
「私はもう帰るから、あとは光空ちゃんのことよろしくね」
「加賀先輩がやればいいじゃないですか」
「それはダメだよ、私は帰ってやりたいゲームがあるからね」
超個人的な理由で俺に仕事を押し付け、加賀先輩は身を翻して部室を出て行った。
もう、ため息もでない。
加賀先輩の階段を下りていく音が遠くなっていくのを聞きながら俺も部室を出る。音楽室は写真部部室とは反対側、一号館四階の東端にある。ここから結構遠い。
夕暮れの廊下はすっかり影を落とし、色すらも失ったように奥へと延びていた。
音楽部が音楽室から出てくるまで想像以上に時間が掛かった。光空を待っている間、白塗りのコンクリートの壁にずっと寄り掛かっていたので少し背骨が痛い。
三人で談笑しながら部室から出てきた光空は俺を見るなり、話していた二人に先に行くよう促し不安そうな様子で俺の方へ近寄ってきた。
「もしかして、飼い主が見つかりませんでしたか」
か細い光空の声音が少しの怪訝さとともに喉から押し出される。
「いや、見つかりました。二年生にひとり」
「そうですか……飼い主が見つかったのならすぐにでも猫を渡してしまって構いませんから」
光空は言葉を選び悩んでいるのか唇を微かに動かしてから、独り言を呟くような声で言葉を紡いだ。そして頭を軽く揺らして彼女は表情から悲しみを振り払う。
「それと光空先輩」
「なんでしょうか?」
貼り付けられた平然とした表情に俺は話を続ける。
「先輩は、猫を手放して後悔しませんか」
俺はできるだけ抑揚のないよう言葉を吐き出した。光空の答える結果がまだ杞憂と危惧のどちらに転ぶか分からないからだ。
思案するように光空は俺から視線を外して、ガラスの奥の夕陽に押し寄せられ染め上げられた校庭を見つめる。
「それは、加賀さんからですか?」
「鋭いですね」
光空は校庭を見つめたまま目を細めまたさっきと同じ表情に戻りそうになる。でもそれは一瞬で、光空は悲しみを紛らわすように小さなリュックを肩にかけ直した。
「加賀さんって、享楽的な方ですよね」
「まあ、自由奔放には見えますね」
「私もああだったら……こんなにうじうじしてないのかもしれません」
その言葉は放課後の校舎の沈黙に溶けていってしまうくらい弱々しくて、窓越しに見える校庭の喧騒にですらかき消されてしまいそうだった。
俺たちの脇を一年生の女子が小走りで通り抜けて行く。それで我に返ったように光空は俺の方を向き直す。背負ったリュックが重いのかほんの少し軸足がふらついた。
「あの、昇降口で待っててくれませんか、すぐに行きますから」
光空は俺の返事を待たぬまま、早い足取りで階段を下りていってしまった。
階段をたたく足音を辿るように俺もその階段を下りる。俺の足音も静かな校舎の余韻に溶けていくのを感じながら、依頼人の個人的なことに干渉しようとしている自分にため息がでた。
この高校は、度重なる増設のせいか厳密にいうと昇降口はない。なので西の一階渡り廊下に一年生から三年生までの金属製の下駄箱が壁に張り付くような形で配置されていて、それが昇降口となっている。
俺が昇降口に来た時にはすでに光空は入口に立っていた。俺は靴を履き替え、無言で光空の隣に並ぶ。後ろから近づく俺に気づいていなかったのか光空は隣に並んだ俺に身じろぎした。
「驚かさないでくださいよ」
さっきとは違い光空の声に憂いは滲んでいない。表情も若干楽しそうでさっきまでの雰囲気は気配も見せなかった。でも逆にそれが俺の不安を助長させる。
「すみません。で、先輩ってなにで通学してるんですか? 俺自転車なんですけど」
「そうなんですか、私は徒歩なんですが大丈夫でしょうか?」
「べつに、構いませんよ」
「すみません、迷惑かけて」
光空は申し訳なさそうな表情で校門まで駆けていく。夕陽に照らされた光空の背中はべっとりとした朱色に濡れていた。
俺が駐輪場まで行って自転車を取りに行っている間、光空は校門の柱に寄り掛かり靴の裏でゆっくりとしたリズムを鳴らしながら待っていた。今度は近づく俺に気づいたらしく柱から背を浮かせて振り向く。
まるで彼女といっしょに帰る時みたいなシュチュエーションだ、と一瞬頭を過る。べつに浮かれるわけではないけど、それはそれなりに嬉しいものがある。……相手が依頼人でなければ。
「それでは行きますか」
リュックを背負い直して歩き出す光空。俺は自転車を引きながら、沈む気分を顔に出さないよう努めて後を追った。
数分帰路を歩いて空が段々紺碧に染まってきたころ、光空は静かに吐息を零し口を開いた。
「私が猫を手放す理由なんて大したことではないんですよ、ただ私が割り切れないだけです」
光空の少し遅くなった歩調に合わせて俺は無言のまま隣を歩いた。夕陽の残り香を街灯がひとつずつ潰していく。
先週の月曜日の登校時にこの猫を拾って来たと光空は言っていた。先週はテスト週間で朝練はどの部活もない。だから光空は始業時間に間に合うよう校門をくぐればいい。そしてその時間の校門には何人か教師が立っている。
猫を本当に拾ってきたのなら、何らかの箱にその猫が入っていたはずだから校門で教師陣がそれに気づかないはずがない。でもカバンに猫を入れればその問題は回避できるはずだ。それには事前にカバンを持ってくるか、背負ったリュックに詰めるしかない。前者の場合、通学路に猫が捨てられていることを知っているという前提が必要になるのでありえない。そして後者の場合も同様、光空の白のリュックは小さく中身もそれなりに入っているだろうから前もってリュックの中にスペースを空けておかないでそこに猫が入るとは考えにくい。
「もしかして加賀さんは私のことを全部知っているんでしょうか」
軽い口調で光空は進む方向に目を向けたまま訊いてくる。
「全部は知らなかったと思います」
俺は率直に質問の問いを返す。加賀先輩が今回の件のすべてを知っているわけではないと断言できる。だって知っていたら俺に光空へ生き物を捨てるという罪悪感の傷口を広げるような言葉をかけさせる必要はない。
「そうですよね、私の考えすぎですよね」
なぜか光空はため息を地面に落とす。まるで知られてた方が良かったと言うように。
そのまま数秒、光空は無言のまま俺の隣を歩いてから、か細い声をため息と混ぜるようにして吐き出した。
「私、彼氏と別れたんです」
さっきまでの話の内容と繋がりが見えないので、俺はなにか反応するわけでもなく自転車を引く。
「あの猫は、その彼氏……いや、元彼氏にもらったんです」
光空が暫く黙り込み訪れる沈黙。自転車の回る車輪の音がやけに騒がしく聞こえる。
数歩進んだ後、口ごもったような声を出した光空はその声をすぐに引っ込めて、改めて言葉にする。
「こういう言い方は失礼なんですけど、愚痴をこぼす相手が知らない人というのは気楽なものですね」
たしかに俺と光空は実質的にほぼ知らない人だ。だからこそ親しくもない俺に愚痴をこぼすのは、本意ではないんじゃないだろうか。知らない相手と話す方が気詰まりになって話せない気がする。
「誤解しないでくださいね。べつに葵さんのことが嫌いってわけじゃないです。ただ……楽なんです、知らない人の方が。そっちの方が変に相手のことを考えながら愚痴る必要がないんです。親しい人にこの話をしたら、私はきっと考えてしまいます。……こんな話を聞かされて困ってるんじゃないだろうかと」
それこそ考えすぎだ、と思ったが口には出さなかった。俺はまだその別れ話の内容を知ってるわけじゃない。だから安易には言えないのだ。前向きな言葉も、慰めの常套句も。
「聞き上手と言われたことはないですけど、それでよければ」
可笑しそうに鼻を鳴して笑った光空は歩くペースを落さずに軽く会釈をした。
「それでは、聞き役、お願いします」
それから始まった別れ話は壮絶でも凄絶でもない別れ話だった。人の別れ話をつまらないみたいに言うのは気が引けるので、違う言い方をすれば、平穏な別れ方でほっとしている。
「それってひどいと思いませんか? だって私と太一くんは昔からの幼なじみで恋人同士にもなったのに!」
すっかり饒舌になっていらっしゃる光空はまるで酒精にどっぷり浸っているかのように喜怒哀楽が次々と変わる。元カレとの思い出話で頬が緩み始めたと思えば、失恋の瞬間を回想して泣いたり怒ったり。とにかく面倒極まりない。
そんな失恋内容を端的に書き表せばきっと三行ぐらいで終わる。
光空と幼なじみの彼は中学校の時から付き合っていて、高校になり進学先が分かれてしまう。
別々の高校でも恋愛関係は続いていたが、彼の恋心は新しい環境で心移りしていき(おそらく光空の妄想も含まれている)、光空との関係は稀薄になっていく。
そして最終的に二人は七月の初めに別れて、それをまだ光空は引きずっており、その感情を少しでも断ち切るために元カレからもらった猫を手放したがっている。
ほら、三行だ。
そんなことを考えながら後ろからのヘッドライトで伸び縮みする二つの影を眺めていた。
半ば適当に相槌を打って、話を聞き流していると光空が猫の渡し主の名を伏せるべつの理由が頭に浮かぶ。
もちろん光空は、猫を学校へ持ち込んだということが教師陣へ露見するのを恐れたためでもあるだろうけど、なにより彼女は、もうあの猫を飼っているという自覚を学校に持ってきた時点で拭い去りたかったらしい。まあ、これは単なる憶測だけど。
光空は話疲れたようで若干息を切らしながら交差点の歩行者信号に立ち止まった。
「大丈夫ですか」
俺の言葉に反応して数回頷いてから呼吸を整えてその口から言葉を紡ぐ。
「はい、大丈夫です。……今日はありがとうございました。愚痴なんて聞いてくれて」
実際にはそんなに聞いてなかったんですけどね。
「私、家がこっちなのでここで」
俺の足先とは違う方向を胸の前でゆび指した光空は「ありがとうございました」と頭を下げて、歩行者信号が青になったのを確認してから歩き出した。でも横断歩道を渡りきったところで光空の背中は再び立ち止まる。
「そういえば、私って、加賀さんにまんまと嵌められたんでしょうか? ほら、あの質問」
言われてみれば、と俺もその質問を思い出す。「後悔しませんか」というあの質問。加賀先輩はあの質問で、光空が学校へ持ってきた猫が本当に捨て猫なのか、それとも光空が飼っていたのか確かめたかったんじゃないだろうか。
「私がなんで学校に猫を持ってきたのか確かめたかったんでしょうね」
予想とは違う光空の言葉に頭の中で何かが引っかかる。そしてその思考に纏わりつく錆の根源がどこから来るものなのかはすぐに分かった。
「光空先輩……最近、音楽部の紙が入った段ボール無くなりませんでしたか」
「音楽部の紙? あ、あの生徒会室の。……いえ、無くなっていませんよ」
好奇心というよりは、ほぼ反射的に出た俺の質問に、光空は訝しがるように小首を傾げたまま振り向く。
「いや、気にしないでください。何でもないです」
「そうですか。なにかあれば私にも相談してくださいね。愚痴なら私も聞きますよ」
去り際にかけてくれた彼女の優しい言葉に、今すぐ加賀先輩の愚痴を言おうかとも思ったが、三年生に愚痴を聞いてもらうのは忍びないのですぐにそれを喉の奥へ押しやった。
「それでは、今日は本当にありがとうございました」
五月にも見た光景を彷彿させるような頭を下げるしぐさに、俺は礼を返し軽い足取りの後ろ姿を見送った。
♞
「加賀先輩、あれ嘘だったんですか」
「あれってなんのこと?」
加賀先輩がゲームを中断して傍らに置いたドクぺを手にしたので、その背中に訊いてみる。俺は読みかけの部分に指を挟みこみ本を閉じて、窓のさんに肘を置いて頬杖をついた。
「先週の猫の話です。先輩に、拾ってきた猫、と嘘を吐かれました」
「どうしたのいきなり、私は葵くんに嘘なんて吐いてないよ」
「段ボールのことですよ」
肩越しにちらりと一瞥を向ける加賀先輩。「気づかれちゃったか」
「普通気づきます」
コントローラーを床に置いて、イスに逆向きで跨った先輩は悪びれる様子もなく小さく舌を出した。
「でも、決して嘘じゃないんだよ。だって言ったよね、単なる遊びの問題だって」
「単なる問題なら、個人で対処してください」
「光空ちゃんってあんまり人に話そうとしないんだよ。私も直接光空ちゃんに訊いたんだよ、なんか最近元気がなかったからね。だけど教えてくれたのは猫を持ってきたっていう話だけだったんだよ」
「それって嘘を吐いた理由になってるんですか」
缶のプルタブを咥えてイスに跨ったままガタガタと移動して少しずつ近づいてくる。そして俺の前まできてから大きく頷いてから咥えた缶を床に置いた。
「もちろんだよ。だって葵くんは私が光空ちゃんのことで個人的に相談しても乗ってくれないでしょ、だから写真部の活動として、依頼として相談したんだよ」
迂遠すぎる嘘の理由に俺は文句を言う気も失せ、呆れた視線で加賀先輩の表情を窺うと、幼さを思わせる笑みを含んだ口元が少しだけ歪む。
「私のお願いは聞いてくれないのに、依頼はちゃんとこなしているのは本当でしょ」
「いや、毎週ドクターペッパー買ってきてるじゃないですか」
「あれって事務的な奉仕じゃなくて自主的な行いだったの?」
自主的ではないと確実に言えるが、事務的だったとも言い難い。詰まる所、今となってはただのルーチンワークでしかない。
説明するのも面倒なので、指を挟んだ部分から本を開いて再度、活字を目で追う。
返答を催促するような加賀先輩の視線に耐えていると、ふっと表情を緩めた先輩は意味深な言葉の区切り方で俺に言葉を投げた。
「そうか……慈愛、だったね」
独善的な発想すぎる!
「まあ、こんな話はどうでもいいか、結局私は葵くんに看破されちゃったわけだからね。それで、光空ちゃんはだいじょぶだった?」
結局は、加賀先輩は光空のことを純粋に心配してただけなのだ。ただ俺を使ってまで、最近の光空に元気がない理由を知ろうと策謀したのは明らかに愚策だ。少なくとも俺にとっては。
加賀先輩は社交的で明るい性格なのに人間関係のそういう部分だと慎重になりすぎる。言い方を変えれば、人間関係に不器用。……友人と呼べる人がクラスにいない俺が言うのも何だけど。
「大丈夫でしたよ、俺に彼氏のことを愚痴ってそれで終わりました」
「それならよかったよ。これで私の不安は杞憂に終わったわけだね」
俺が本から顔を上げると加賀先輩は肩から力を抜いて若干安堵した表情で、夏の陽射しを眺めていた。あと数日で夏休みだ。
「先輩」
「ん? どうしたの?」
「いや、先輩は人脈広いんですから、なんで先輩の頼みを聞いてくれるような人に頼まないで、俺に光空先輩の愚痴を聞く役を押し付けたのか、と思いまして」
「それは光空ちゃん自身が仲のいい人にはあまり自分の相談をしないからっていうのと、そしてなにより、君を一番信頼してるから、かな」
たった三ヶ月弱。その期間内で加賀先輩の一番信頼を得る人に俺はなったのか。それこそ虚言だろう。加賀先輩との関係なんて、写真部の先輩、後輩で十分だ。
「それより葵くん、夏休みなんだし、今度合宿しようよ」
「合宿なんてしてどうするんですか、何もやることないですよ」
「そう固いこと言わないでよ。やっぱり、青春の夏と言えば部活の合宿だよ」
お菓子を前にした子どもみたいに目を輝かせる加賀先輩は相変わらずで、面倒な部活だとは思いながらも退部する理由は思いつきそうにない。
蒸し暑い夏の予備6室に、やや興奮気味の加賀先輩の声が響く。
「合宿と言えばやっぱりスイカ割りだよね」
「それって写真と関係ないですよね」
部活の終了時刻まで、そんな夏休みの予定を他愛もない雑談交じりに続けていた。
ご精読ありがとうございました。
麗らかな四月の初めだというのに、この小説の内容は夏の話です。なんだか申し訳ない……。
さて、後書きを少し長めに書こうと思います。理由は、あらすじがうまく書けないのでそれの腹いせです。
というわけで、まずはこの話にでてくるゲームのことを書きたいと思います。
まず最初にでてくるスマブラというのは『大乱闘スマッシュブラザーズ for Wii U』というゲームです。犬というのは『ダックハント』のことです。とても楽しいゲームでやり始めて気づいた時には深夜ということがよくあります。
次に出てくるFPSのゲームですが私自身は『Call of Duty Black Ops II』を書いたつもりです。もしかしたら似たようなゲームがあるかもしれないので、そのあたりはご想像にお任せします。
すでに書くことがなくなりそうなので、この小説で猫が出てくる理由を書きたいと思います。猫の理由は、私が猫派だからです。犬ももちろん好きなのですが猫の方が愛嬌があるように見えるのです。ねこカフェには行ったことがないので近いうちに行きたいと思っています。
思った以上にこの後書きで書くことがないのは、今これを書いている私がとても眠いからでしょうか(現在時刻 午前二時四十一分) いや、そんなことはないはずです。前書いた後書きの方が長く書いた気がします。
いや、無理をしてはいけませんね。(なんか自分の中で寝る派と寝ない派が言い争っている)
愚にもつかないことを書いていると、何だか虚しくなってくるのでこの辺で終わろうと思います。
それでは改めてありがとうございました。良い春を(=^・・^=)