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短編

変速

作者: 留龍隆


 今日もまた、追いつくことができなかった。

 白く荒い息を吐き、啓太は足を止める。いちおう、差は少しずつ縮まってきている。けれど縮まるほどに、相手と自分との間にある壁がくっきりと見えはじめていた。それは相当な努力を重ねなければ、越えられない壁なのだろう。

 しかし啓太は、努力するつもりはなかった。


 啓太のアルバイト先である喫茶店、アーガイルは常連である年配の人々によって支持され、また維持されている店だった。形だけの分煙のおかげで喫煙者が幅を利かせることができ、煙草を吸うついでに何種類かある新聞、週刊誌を読める。そうした目的の客以外は、ほとんど見ることがない。

 ネクタイを緩め、垢で汚れた襟をさらしながら、ヤニで黄ばんだ歯の隙間より煙を吐く。そうした客との応対では、最初のうちこそ奇妙なものを見るような目を向けられたが、次第に慣れてしまったのだろう。二カ月が経ったいまでは特に会話もない。

 はじめのころは高校生でこのようなバイト先を選んだ理由を問われたり、パチンコや麻雀といった自分たちの趣味に興味がないかと話を振られたものだが、誰も彼も皆、ひとしきりからかうのに飽きると自分たちの世界に戻っていった。

「啓太君、うすめのコーヒーホットでひとつお願いしますよ。三番の机に」

「はい」

 骨ばった白い手で指を三本立ててきた、この五十がらみの店長も例外ではない。勤め始めの頃は趣味についてだとか、あれこれと話を振ってきたが、いまでは仕事のためにかわす最低限の会話しかない。

 別段、仲が悪いというわけでもないので、ここでは慣れが沈黙を生みやすいというだけなのだと理解していた。ひょっとすると、啓太が話し相手としてつまらないせいかもしれないが、それならば客同士で話せばいいわけで、それがないのなら、そういうことだ。

 コーヒーと一緒に入った注文、オムレツとサラダを作るべく、店長は袖をまくって黒い腕をさらし、厨房へ引っ込む。それを見届けてから啓太は客席のカウンターに近いテーブルへ出ると、古めかしいサイフォンに水を注ぎ、火を入れた。

 サイフォンのこぽこぽという音に耳を澄まし、時が過ぎるのを待つのが、啓太は好きだった。音楽もかけない店の中で、これだけが唯一、店側から客へと提供される音だった。

 アルバイトをはじめて一カ月の頃、ガラスの球が縦に二つ、だるまのように並んだこの機器を任されたときには、どうしたものかと困ったものだったが。ひと月経ったいまは扱いにも慣れて、アメリカン……店長のいうところの「うすい」も正確に淹れることができるようになっていた。

 やがて抽出されたコーヒーを運び、少ししてからオムレツとサラダを運びにまた客席の間を移動する。この時もなるべく足音を立てないように歩き、客の側でもさほど声を出すことはない。時折新聞をめくる音、コーヒーをすする音だけが聞こえた。

 ひたすら静かに時間は過ぎて、六時で閉店し、一時間で掃除を終えると帰宅する。土日は昼から、平日は夕方から、このように過ごす。

 帰り路、池下の駅からだいぶ奥まったところにある店から、啓太は広小路通りに出て、覚王山へと愛用のクロスバイクで登る。二月の気候は、帰りの道中を凍てつかせていた。

 そして千種警察署の前にある信号で腕時計を確認し、時刻が七時十五分きっかりになると、こぎだす。すると坂を登りきるかどうかというところで、後ろから、規則的にペダルを踏む音が聞こえてくるのだ。いつも遭遇するので、気がつけば目で追うように、次に足で追うようになっていた。

 音が近づいてきても、振り返りはしない。意識していることが伝わるのは、なんだか気恥ずかしかった。ただ自分のペースでこいで、相手に追い越されたところから、啓太は強く踏み込み始める。白いロードバイクにまたがり、ヘルメットやサポーター、スパッツなどの装備で身を固めたその男を、視界から逃さないように。登りが終われば、すぐ下りとなる。最初の頃は、ここで彼を見送るのが常だった。いまはちがう。

 前を走る男がぐんぐんとスピードを上げていく。ロードバイクとクロスバイクでは加速性能に差があるため、当然のことである。よって、啓太が追い付くためには、相手よりも多く、力強く踏み込むことが必要だった。

 男と、ちょうど自転車一台分ほどの間をあけ、置いて行かれないように漕いだ。信号を二つ過ぎると、下りがはじまった。まっすぐ、星ヶ丘まで二駅分続く道に向けて、助走をつけるための箇所だと啓太は捉えていた。横を走る車が、徐々に遅くなり、やがて自分が追いついて追い抜いていくのは快感だった。前を走る男もそうなのだろうか、と顔を上げて見やるが、調子も姿勢も崩れることなく走る男に、喜びがあるのかはわからない。

 下り終えて、最初の信号を駆け抜けるあたりで、自分のスピードメーターを見ると五十キロ近くまで速度が上がっていた。息があがっていたが、あと少しだけと思い、余計に強く踏みしめる。うつむいて、上体が下がるが、背後へ駆け抜けていく地面だけを見てひたすらこいだ。メーターはじきに、五十キロを上回った。

 少しずつ速度は落ちて、本山の交差点で赤信号にひっかかり、男も、啓太も止まる。だがさほど休む間もなく信号は青に変わり、またがしゃがしゃとこぎだす。

 一度止まってしまうと、わずかな向かい風にすら立ち向かうことかなわなくなり、東山通に入ってからは距離を離される一方である。

 今日も、結局置いていかれることとなってしまった。


「きみさ、自転車、やってるのかい」

 常連ではない客の一人に尋ねられたのは、ある日曜の夕方のことだった。店長が休憩に抜けている間のことだったが、店にいる間に人と話すことがめっきり少なくなっていたので、自分に向けられた言葉だと気がつくにも少しかかった。

「え、ああ、いえ。ここに通うのに使っているだけです。自転車こぐのは、好きですが」

「やっぱり好きかい。表に停めてあるの見て、見慣れない奴だと思ってさ。なら競輪とか、興味ない? いや、いまは歳があれだから無理でも、将来的に、さ」

 また、賭けごとの話か。ひさびさに店でかわした会話だったがその実、この客も以前の客と同じようなことを話しているにすぎなかった。あいにくと啓太は賭けごとに興味がなく、その手の話題は相槌しか打てない。お金を浪費するつもりは、さらさらない。

 けれどその客は、たるんだまぶたの隙間にのぞく目をしばたかせ、一人で盛り上がっていた。

「面白いもんだよ、競輪。コースの直線の距離、傾斜、天気。いろんな要素があるからわからない分、推理が当たった時の感動もひとしおさ」

「ははあ」

「中村区にあるからね、名古屋競輪場。もしくは一宮、岐阜あたりが近くていいかなぁ。競馬とか競艇もあれはあれで面白いけど、俺は断然競輪をおすすめするよ。状況の読みだけじゃなく、選手としての能力による戦略性が高くてね。先行、追い込み、まくり、って戦法を、どのように選んでくか。頭も良くないとやれないもんだよ、ありゃ」

 早口でまくしたてて、どうだと言わんばかりに、言葉を切って反応を見る。啓太はいい加減にうなずいてみせただけだが、気を良くしたのか、まだ話は続いた。

「それに暗黙のルールがたくさんあるんだ。ただ早くゴールすればいいってもんじゃないんだな、これが。盛り上がりを作ることも前提にしてるし、なんていうか人のあたたかみがあると思うね」

「そこが他の賭博とのちがいですか」

「そんなとこかな。それにだ、やっぱり人間がね。あれだけの速度を、人力で出せちゃうんだ、ってのが醍醐味だね。六十キロ、下手したら七十キロも出るんだ。下り坂じゃない、ただの平地でだ」

 ふと脳裏に、あの帰り路の男が浮かんだ。下りでなくとも、彼だけは磁力で引っ張られているように、さあっと加速していく。先日下りの道で啓太は五十キロを達成して喜んでいたが、あの男はどれほどの速度を出しているのだろうかと気になった。


 四カ月分のアルバイト代は六月の中ごろ、やっとロードバイクに化けた。

 クロモリという素材でできたフレームを使っているとのことで、なんとなくその単語だけが啓太の頭に残っていた。またがってみると、まだ慣れていないせいか、どことなく尻の座りが悪いような違和感を覚えた。けれど、こいでみると実によく加速する。細いタイヤの回転に、啓太の力が吸い込まれるように伝わっていると感じられた。

 その勢いのまま、啓太はアーガイルに向かった。そして三時間ほどのアルバイトの後に、再びクロモリにまたがった。アルバイトをしている間のことは、あまり覚えていない。

 日の入りがだいぶ遅くなったので、千種警察署の前で待つ間、背後から差してくる夕日の熱を、薄く長く伸びる自分の影に感じていた。長い時間待ったような気がして、背後からしゃかしゃかとリズムを刻む音がすると、今日に限って啓太は待たなかった。

 先行して、逃げきろうとこぎはじめる。後ろから届く音はペースを変えなかったが、そのことが逆に「いつでも追い抜ける」と言われているようで、心臓が高鳴った。坂を登り切り、信号を二つ過ぎると、啓太は自分の妄想が現実のものとなったのを知った。背後から迫る音に、負けじ魂をもってペダルを踏んだ。

 風が吹きすさび、速度を増すほどに行く手を阻んだ。なおも懸命に啓太はこぎ、路上駐車をかわして車線をはみ出し、後ろから迫る男のコースを塞いだ。坂の下の交差点も、青信号が点滅をはじめる寸前で渡り始め、さらに加速した。風を受けないように身を屈めてうつむき加減になり、減速しないように路上の、なるべく舗装がきれいなところを走る。

 うつむいてはいたが、速度は確認しない。啓太はこの車体には、スピードメーターをつけなかった。

 やがて本山の交差点に辿り着いたが、その頃にはもう足が震えて、この先は全力でこげないだろうと予想はついていた。あとは流すつもりで行こうと、信号が青になっても、こぎださずに止まっていた。

 男が後ろから追い抜く時、グローブをした右手で車線の車に向かって方向指示を出しているのが見えた。


 競輪好きの客は常連になり、今日は競馬新聞を読みながら静かにコーヒーをすすっていた。あれ以来、特に啓太に話しかけてくることもなく、店はいつも通り、サイフォンの音だけが沈殿している。注文が入り、それに啓太が受け答えし、たまに手が回らなくなると店長と共に客席の間を行ったり来たりする。その静かな足音くらいしか、響かない。

 競輪好きの客からの注文、プレーンオムレツを店長にお願いしにいくと、店長は啓太を見て、んん、とうなった。

「啓太君、オムレツ作ってみようか。練習です」

「練習ですか」

「一に練習、二に努力です」

 言いながら、骨ばった白い手で、一、二、と指を立てた。

 店長も、特に変わりなく豆をひき、軽食を作って日々をこの店で過ごしている。啓太は店長と同じように、手首から先だけが白くなった自分の手をちらりと見てから、練習、努力、と反芻した。

 それから、腕まくりした。


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