第2話 お姫様抱っこと最適解
始業式が終わり、僕は図書委員の仕事のために静まり返った図書室へと足を運んでいた。
貸出カウンターの裏で返却された本の整理をしていると、書架の奥から微かな足音が聞こえた。
視線を向けると、先ほどの編入生――真乃極凛先輩が、フラフラとした足取りで高い本棚を見上げている。
やはり、強烈な時差ボケによる体調不良を抱えているな。
彼女の歩行速度と重心のブレから、僕は瞬時に彼女の健康状態を再確認した。人間のサーカディアンリズムが正常な状態に戻るには、少なくとも数日の時間を要する。大人しく家で寝ていればいいものを、彼女は無謀にもキャスター付きの脚立を引き寄せ、その上に登り始めた。
高い場所にある分厚い専門書に手を伸ばした瞬間、彼女の重心が完全に支持基底面から外れたのが見えた。
「あっ……!」
短い悲鳴とともに、脚立から彼女の足が滑る。
僕はすでに動き出していた。落下する物体の質量を約四十八キログラム、重力加速度を九・八メートル毎秒と仮定。床に激突するまでのコンマ数秒で落下軌道を計算し、最短距離で彼女の真下へと滑り込む。
ドスッ、という鈍い衝撃。
僕は両腕で彼女の身体を受け止め、同時に膝の関節を深く曲げてクッションにし、運動エネルギーを完全に殺した。
「……っ」
目を固く閉じていた彼女が、恐る恐るまぶたを開ける。
僕の顔と彼女の顔は、わずか数十センチの距離にあった。彼女は大きく瞳を揺らし、僕の顔を至近距離で食い入るように見つめている。
「人間のサーカディアンリズムの乱れによる眩暈ですね」
僕は極めて冷静に事実だけを告げた。
「落下物の質量と重力加速度から衝撃を計算し今回は事なきを得ましたが、高所作業時は安全確認を怠らないでください」
彼女は何も言わず、ただ顔を真っ赤にして僕の腕の中で硬直している。脳震盪の疑いもある。
僕は彼女を下ろすことなく、物理的に最も負担の少ない姿勢――世間一般では『お姫様抱っこ』と呼ばれる形――のまま、最短ルートで保健室へと歩き出した。
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何、いまの……。なに、あのひと……っ!
保健室のベッドに降ろされ、カーテンを引かれた途端、私はシーツを頭から被って身悶えした。
心臓が、ドクン、ドクンと耳の奥でうるさいくらいに鳴っている。顔が火のように熱い。
落ちる、と思った瞬間に感じた、力強い腕。
目を開けた時に至近距離にあった、少し冷たくて、でも整った男の子の顔。
そして、私の不安を一瞬で吹き飛ばすような、低くて落ち着いた声。
『落下物の質量と重力加速度から衝撃を計算し――』
言っている内容は正直よく分からなかったけれど、そんなことはどうでもよかった。
異国から帰ってきて、周りは後輩ばかりで、不安で押しつぶされそうだった私の身体を、彼は迷いなく、完璧に受け止めてくれたのだ。
「私……好きになっちゃったかも……」
誰にも聞こえないような小さな声で呟く。
彼の名前は、確か亀岡頼斗くん。私と同じ、二年A組のクラスメイト。
彼が保健室を出ていく時の、ブレない真っ直ぐな背中を思い出すだけで、私の体温はさらに急上昇していった。
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教室に戻ると、悪友の佐藤健太がニヤニヤと薄笑いを浮かべながら近づいてきた。
こいつは田舎の学校ならではの情報通で、校内の些細な出来事もすぐに嗅ぎつける厄介な男だ。
「おいおい頼斗、初日から派手にやったな。美人の先輩を抱きかかえて保健室まで一直線とか、何の少女マンガだよ」
「情報伝達が早すぎる。だが訂正しておこう、健太。あれは単なる物理的な救助活動であり、最もエネルギー効率の良い運搬方法を選択した結果に過ぎない」
「出たよ、お前の理屈っぽいの。でもなぁ、あの真乃極先輩、完全に真っ赤になってたぜ?」
「急激な血圧の変動だろう。まだ帰国して間もないらしいからな」
「はいはい、そっすね。……お、噂の先輩のお戻りだぜ」
健太が顎でドアの方を示す。
保健室から戻ってきた真乃極先輩が教室に入ってくると、クラスメイトたちがパァッと道を開けた。
「真乃極先輩、もう体調は大丈夫なんですか?」
「あ、あの、先輩……無理しないでくださいね!」
周りの生徒たちは、一つ年上である彼女に対して敬意を持ち、完全に『先輩』として扱っている。
しかし、彼女の表情はなぜか困惑しているように見えた。何か、隠し事をしているような、一物を抱えているような何か。
彼女はクラスメイトたちの言葉に曖昧に頷くと、その輪を抜けて、真っ直ぐに僕の席へと歩み寄ってきた。
「亀岡くん。さっきは図書室で、その……助けてくれてありがとう」
少し頬を赤らめながら、彼女は控えめに頭を下げた。
「お気になさらず。僕はただ、落下物の質量と重力加速度から衝撃を計算し、物理的な最適解を実行しただけですから。それに、時差ボケによる自律神経の乱れは誰にでも起こり得ることです」
「ふふっ。亀岡くんって、なんだか説明書みたいで面白いね」
僕の論理的な返答を聞いて、彼女はなぜか嬉しそうにくすっと笑った。
「説明書とは不本意ですね。僕は事実を述べているだけです。真乃極先輩も、高所での作業には気をつけてください」
「うん、気をつける。……でも、亀岡、頼斗くんがいてくれて、本当によかった」
彼女の口調が少しだけ弾み、僕との間にあった見えない緊張感がふっと和らいだのを感じた。
その後、少しの沈黙に耐えられず聞いてしまった。
「まだ何かご用ですか? 真乃極先輩」
彼女は僕の問いに一瞬たじろぐも、不意に僕の机に両手をついた。
そのまま、顔が触れそうな距離までぐっと身を乗り出してくる。
先ほどまで自然に弾んでいた会話のテンションが、急に熱を帯びたものに変わる。
上目遣いで、彼女の大きな瞳が僕を射抜くようにじっと見つめていた。
「ねぇ。私は今、何を考えているでしょう?」




