ノック・ノック・腹割亭
一
腹割亭が開いて、ひと月が経った。
朝粥は、もう習慣になっていた。
夜明け前に火を起こす。残り飯と干し魚を鍋に放り込む。水を足して、弱火にかける。湯気が立ち始めると、潮の匂いと粥の匂いが混ざる。それが路地を伝って、港の方まで漂っていく。
最初は三人だった。次の朝は五人。一週間後には十人を超えた。
石段に座る者、裏口の路地にしゃがむ者、立ったまま椀を受け取る者。みんな黙って粥を啜る。名前は訊かない。訊く必要がない。ただ椀を渡して、食べ終わったら下げる。
サエルがかまどの前に立っていると、横からガルドが椀を差し出してくる。
「……足りん」
「自分のか?」
首を横に振る。外を指差す。
石段の端に、一人、座っていない男がいた。
五十がらみ。日に焼けた肌。手の甲に古い網の傷痕が何本も走っている。漁師の手だ。石段から三歩離れた場所に立って、腕を組んで、粥の列をじっと見ていた。
サエルが椀を持って近づいた。
「おはよう。食べるか?」
男が顔を上げた。鼻の頭が赤い。寒さか、酒か。
「——施しはいらん」
低い声だった。背筋が伸びている。目は逸らさない。
サエルは椀を石段の端に置いた。
「施しやない。朝粥や。食べてくれたら嬉しいけど、食べんでもええ。ここに置いとくわ」
男は何も言わなかった。サエルは背を向けて、かまどに戻った。
振り返らなかった。振り返ったら、あの人は手を伸ばせない。
——前世で学んだことや。支援は待つもんや。こっちの都合で押しつけたら、あかん。
片付けのとき、石段の端を見た。
椀は空になっていた。
翌朝も、男はいた。石段から三歩離れた、同じ場所。
ミーシャが椀を持って歩いていった。サエルが止めようとしたが、もう遅い。
「おっちゃん、食べて。おいしいで」
猫の耳がぴくぴく動いている。尻尾が左右に揺れている。警戒ではなく、好奇心の揺れ方だ。
男がミーシャを見下ろした。獣人の娘。十四、五歳。身体の小さな子どもが、両手で椀を差し出している。
「……施しは——」
「施しやない。おいしいから食べてほしいだけや」
男の口元が、かすかに歪んだ。笑ったのか。怒ったのか。わからない。
ミーシャは椀を地面に置いて、振り返って走っていった。尻尾が弾んでいた。
翌週、男が来た。
石段に、座っていた。
三歩の距離がなくなっていた。
サエルが椀を渡した。
「バーネーム、決めてくれるか。ここの決まりや」
「……バーネーム?」
「本名の代わりの名前や。ここではみんなバーネームで呼び合う。身分も過去も関係ない」
男がしばらく黙った。粥を一口啜った。
「——ゴウ」
「ゴウやな。よろしゅう」
「……嬢ちゃんに礼を言うとけ。粥、うまかった」
サエルは厨房を振り返った。ミーシャがカウンターの向こうから、耳をぴんと立ててこちらを見ている。聞こえていたのだろう。尻尾が大きく揺れた。
✱ ✱ ✱
朝粥の顔ぶれが定まってきた。名前は知らない。バーネームすらない人もいる。でも、顔はわかる。右目の下に傷がある男。左足を引きずる女。いつも帽子を被っている少年。
顔を覚えるということは、「来なかった日」がわかるということだ。
二
その夜、扉が開いた。
華やかな、という言葉がそのまま歩いているような人影が入ってきた。
長い銀髪が腰まで流れている。エルフの尖った耳。華美な刺繍の入った深紅の衣装。歩き方に重心の遊びがある。決まった型ではなく、空間に合わせて身体が自然に揺れる——舞台に立つ人間の歩き方だ。
背が高い。肩幅がある。喉の線がはっきりしている。
カウンターに座った。指先が長い。爪に、細かい模様が描かれていた。
「——ここが、腹割亭ね」
声は低い。でも語尾に柔らかさがある。
サエルはグラスを拭く手を止めた。
「ようこそ。バーネーム、決めてくれるか?」
琥珀色の瞳がサエルを見た。品定めするような、試すような視線。それから、口角が上がった。
「——リーラでいいわ」
「よっしゃ、リーラ。何飲む?」
「白ワイン。辛口で」
サエルがグラスにワインを注いだ。リーラが受け取り、一口含んだ。飲み方に迷いがない。酒の味を知っている人間の飲み方だ。
「……悪くないわね」
「そら良かった。うちのワイン、安もんやけどな」
「安いかどうかは関係ないのよ。出す人の手が丁寧かどうか」
リーラがグラスを回した。ワインが揺れて、ランタンの光を反射した。
店内を見回している。ガルドがカウンターの端で木片を削っている。ミーシャが客にグラスを運んでいる。ソルが入口近くに立って、胸の光をゆっくり明滅させている。
リーラの目が、一巡して、サエルに戻った。
「ここ、噂通りね」
「噂?」
「身分も種族も問わない店。ドワーフの子とゴーレムが働いとる店。——あと、マスターが変わり者やって」
「変わり者は余計や」
リーラが笑った。低い声の笑いが、店内に響いた。何人かの客が振り向いた。
その夜、リーラは店の隅のテーブルに座っていた。ワインを啜りながら、時折、唇が動いていた。
歌っている。
声を張っているわけではない。鼻歌よりも少し大きいくらい。でも旋律が澄んでいた。エルフの歌だ。言葉の意味はわからないが、音の並びに水の流れるような質感がある。
客たちの話し声が、少しずつ小さくなった。
誰も「静かにしろ」と言ったわけではない。ただ、歌が聞こえると、自然に耳がそちらを向く。カウンターの男が、グラスを口元で止めた。テーブル席の女が、連れとの会話を途中でやめた。
ガルドが木片を削る手を止めた。膝の上に手を置いて、じっと聴いていた。
歌が終わった。
静寂が数秒あった。それから、ぱらぱらと拍手が起きた。
リーラが顔を上げた。
目が少し見開かれていた。拍手を受ける顔ではなかった。拍手を予想していなかった顔だった。
ガルドが膝を叩いた。ぱん。一回だけ。でもそれがリズムの始まりだった。ぱん、ぱん。他の客が手を叩く。カウンターの男が足で床を踏み鳴らした。
リーラの目が揺れた。
口元が、わずかに震えた。
それから、もう一曲、歌い始めた。
今度は声が大きかった。エルフの古い歌。拍手がリズムになり、ガルドの膝打ちがそのリズムを刻んだ。ソルの胸の光が、拍のたびに明滅した。
歌い終わったとき、店内が沸いた。
「ええ声やなあ!」
「もう一曲!」
「次はなんか明るいやつ頼むわ!」
リーラがサエルを見た。
サエルが笑って言った。
「リーラ、また来てくれるか?」
リーラは一拍、間を置いた。それからグラスを持ち上げて、軽く傾けた。
「——考えとくわ」
帰りぎわ、扉の前でリーラが振り返った。
「マスター」
「ん?」
「あんた、あたしが何者か、訊かないのね」
「訊く必要あるか? お前はリーラや」
リーラが少しだけ目を細めた。何かを確かめるように。それから、扉を押して出ていった。
翌週、リーラは来た。
その翌週も、来た。
三回目には、衣装が変わっていた。前回より華やかな、深い紫の布に金糸の刺繍。髪を高く結い上げて、耳の飾りが揺れている。
「——今日は特別な日なん?」
サエルが訊くと、リーラは肩をすくめた。
「特別な日じゃないから着てきたのよ。特別な日にしか着飾れないなんて、つまらないでしょう?」
その夜から、リーラの歌が腹割亭の名物になった。
三
リーラが来るようになって、店の空気が変わった。
新しい客が入ってきて、緊張した顔で突っ立っていると、リーラが一番先に声をかけた。
「あら、初めて? こっち座りなさいよ。あたしリーラ。あんた、バーネームは?」
大柄な男が縮こまっていると、リーラが隣に座って「あんた肩幅ええわね、荷運び?」と話しかける。相手が頷くと「あたしも力仕事は好きよ。あ、でも腕相撲は勘弁してね」と笑う。男の肩の力が抜ける。
リーラは人の緊張を、笑いに変えることができた。
でもサエルは、もう一つのことにも気づいていた。
リーラが店を出た後、路地の暗がりに、影が動くことがあった。
一度や二度ではない。三回目の夜、サエルは裏口からそっと路地を覗いた。リーラが坂道を下りていく。その五十歩ほど後ろを、二人の人影がつけていた。
翌日、リーラが来たとき、サエルは閉店間際に声をかけた。
「リーラ。帰り、気ぃつけてな」
リーラの手が、グラスの上で止まった。
「……何のこと?」
「尾けてくるやつがおる。ここ何回か、確認しとる」
リーラの顔から表情が消えた。華やかな装いの下で、身体が一瞬だけ強張った。肩甲骨のあたりが、わずかに上がった。
「——気づいてたの」
「ああ。何かあったら、すぐ裏口から入ってこい。ガルとソルがおる」
リーラは何も言わなかった。グラスのワインを飲み干した。
席を立ちかけて、止まった。
「——マスター」
「ん」
「あんた、なんでそこまでするの。あたしは客よ。それ以上でも以下でもない」
サエルはカウンターを拭く手を止めなかった。
「お前は腹割亭の客や。腹割亭の客が危ないんやったら、黙って見とくわけにはいかん。それだけや」
リーラがサエルを見ていた。琥珀色の瞳の奥で、何かが揺れていた。
何も言わずに、扉を押して出ていった。
その翌日から、リーラはほぼ毎晩来るようになった。
四
朝粥の列に、見慣れない顔が混じるようになった。
痩せた男。年齢がわからない。二十代にも四十代にも見える。肌が乾いていて、目の下に深い隈がある。手が震えている——寒さではない。気温が高い日でも震えていた。
サエルが椀を渡した。
男の手が椀を受け取る。指先が白い。血の巡りが悪い。
粥を啜る速さが、他の人と違った。一口目はゆっくり。二口目から急に速くなる。まるで、食べること自体を忘れていたように。
三日目の朝、サエルは男の懐に気づいた。
上着の内側に、小さな瓶が見えた。透明な液体が入っている。瓶の形は知っている——闇市の隅で売られている精力水の瓶だ。
——精力水。覚醒剤みたいなもんや。飲んだら疲れが消える。でも切れたら、前より深い疲れが来る。
男はサエルの視線に気づかなかった。粥を飲み干して、椀を返して、港の方へ歩いていった。足取りは不安定だが、倒れるほどではない。まだ。
サエルは何も言わなかった。
翌朝も男は来た。同じ場所に座って、同じように粥を啜った。懐の瓶は、前日より少し減っていた。
サエルは椀を渡した。
「——おかわり、いるか」
男が顔を上げた。目が合った。目の奥に、何かを隠している色があった。恐怖ではない。恥ではない。「見つかっている」と知っていて、それでもここにいる、という色だ。
「……いらん」
「そうか。ほな、また明日な」
男が立ち上がった。歩き出す前に、一瞬だけ振り返った。何か言おうとして、やめた。
——言わんでええ。
サエルは心の中で思った。
——俺はお前に「やめろ」とは言わん。お前がここに来て、粥を食べて、明日もまた来る。それだけで、今はええ。
前世の知識が教えてくれている。依存症の人に「やめろ」と言うことが、いかに無意味か。やめたくてもやめられないから依存症なのだ。必要なのは「やめろ」ではなく、「やめなくても、ここにおっていい」という場所だ。
男のバーネームは、まだない。訊いていない。訊く必要が来るまで、待つ。
ある朝、男が来なかった。
ガルドが石段に座って、空になった椀を数えていた。
「……来てない」
サエルの手が止まった。
「誰が」
ガルドが石段の端を指差した。いつも男が座っていた場所。空いている。
「……瓶の人」
ガルドは顔の特徴も名前も知らない。でも「いつもそこに座っていた人」がいないことに気づいた。
サエルは鍋の火を弱めた。
「ミー、ちょっと店頼むわ。ガル、来い」
二人で港の方へ下りた。荷揚げ場を抜けて、波止場の裏へ。魚市場の脇、干物小屋の陰——。
男は波止場の端に座っていた。足を海に垂らして、ぼんやりと水面を見ていた。手は震えていなかった。精力水が効いている時間帯だ。
サエルは隣に座った。何も言わずに。
波の音だけが聞こえた。
「……なんで来た」
男が呟いた。
「お前が来んかったからや」
男がサエルを見た。
「……なんで、わかる。俺のこと、知らんやろ」
「顔は知っとる。朝粥にいつも来とったからな。来んかったら、わかる」
男は黙った。しばらくして、両手で顔を覆った。
サエルは何も言わなかった。ガルドもその場にいた。三歩離れた場所に立って、海を見ていた。
「……ナジや」
男が、手の隙間から声を出した。
「俺の名前。ナジ」
「ナジか。ええ名前やな」
サエルが立ち上がった。
「ナジ。粥、まだ残っとる。戻って食うか」
ナジは顔から手を外した。目が赤かった。
「……食う」
三人で坂道を上った。ガルドが先頭を歩いた。ナジが真ん中。サエルが後ろ。
腹割亭の前に着いたとき、ミーシャが石段に座って待っていた。
「おかえり。粥、温め直しといたで」
ナジが椀を受け取った。今日は、ゆっくり啜った。
——「いつもいる人がいない」ことに気づくこと。
前世の訪問介護で、独居の高齢者の安否確認をしていた。月曜と木曜に訪問して、「前回と変わったこと」を探す。「来なかった日がわかる」——それが、支援の一番最初の形だった。
朝粥は、同じことをしている。
五
その客が腹割亭に来たのは、霧の深い夜だった。
扉が開いたが、入ってこなかった。
扉の隙間から、小柄な影が覗いていた。フードを目深に被っている。身体が扉の枠に半分隠れている。入るか入るまいか、迷っている。
サエルはカウンターから声をかけた。
「入りや。風、冷たいやろ」
影が動いた。一歩、入った。二歩目で止まった。
店内を見回している。目だけが動いている。カウンターの客。テーブル席の笑い声。ガルドが皿を運んでいる。ソルが入口の横に立っている。
ソルの胸の光が、ゆっくりと明滅した。ソルなりの「いらっしゃい」なのかもしれない。
影が、もう一歩進んだ。
カウンターの端の、一番奥の席。壁際で、隣に人が座りにくい場所。そこに座った。フードは外さない。
サエルが水を出した。
「バーネーム、決めてくれるか? ここの決まりや」
フードの奥から、声がした。
「……ルツィア」
硬い声だった。ルミエールの言葉ではない。語尾に柔らかさがない。音が短い。どこか別の土地の訛りが混じっている。
「よっしゃ、ルツィア。何か飲むか? 食べ物もあるで」
「……水、ください」
サエルが水を注いだ。ルツィアがフードの端を少しだけ持ち上げて、水を飲んだ。
その一瞬、見えた。
エルフの尖った耳。でも耳の付け根が太い。骨格がしっかりしている。顎の線がドワーフのそれだ。
——混血。
ルツィアがサエルの視線に気づいた。フードを深く引き下ろした。水の入ったグラスを握る手が、白くなっていた。
サエルは視線を外した。カウンターを拭く動作に戻った。
「水、おかわりいるか」
「……いいです」
「そうか。ゆっくりしていき」
それだけだった。混血のことには触れなかった。訊かなかった。
ルツィアは三十分ほどいて、水を二杯飲んで、黙って帰った。
翌日も来た。
同じ席。同じフード。同じ水。
三日目。水を飲みながら、店内を観察していた。フードの奥から、目だけが動いている。リーラが歌っている。ガルドが膝を叩いている。客が笑っている。
四日目。水の代わりに、温かいものを頼んだ。
「……温かい、何か。ありますか」
「白湯でええか? 生姜を少し入れられるで」
小さく頷いた。
サエルが生姜湯を出した。ルツィアが両手で包むように持った。湯気がフードの中に入っていくのが見えた。
「……温かい」
独り言のような声だった。誰に言ったわけでもない。ただ、温かいものを持ったから、温かいと言った。それだけのことだった。
でもサエルの耳には、それが重く聞こえた。
——温かいもんを「温かい」と言えることが、当たり前やない人がおる。
五日目は、来なかった。
六日目も、来なかった。
七日目の夜、扉が開いた。フードの影。
同じ席に座った。サエルが何も言わずに生姜湯を出した。
ルツィアがそれを見て、少しだけ身体の力を抜いた。
「……覚えて、いたのですね」
「うちの常連の好みは覚えとくで」
常連、という言葉に、ルツィアが固まった。
「……あたしは、常連ですか」
「七回も来たら常連や。うちの基準ではな」
ルツィアの手が生姜湯のグラスの上で止まっていた。何かを飲み込むような沈黙。
「……ここは、何も訊かないのですね」
「訊く必要がないからな。お前はルツィアや。それでええ」
ルツィアが生姜湯を啜った。湯気がフードの中に消えた。
——この子、どこから来たんやろ。
サエルは思ったが、口には出さなかった。
訊いたら、この子は来なくなる。
六
ルツィアがフードを外したのは、月の明るい夜だった。
閉店間際。客はほとんど帰っていた。カウンターに残っているのはリーラと、隅の席のルツィアだけだった。ガルドが皿を片付けている。ミーシャがテーブルを拭いている。ソルが椅子を元の位置に戻している。
窓から月明かりが差し込んでいた。
リーラが歌っていた。静かな歌。さっきまでの華やかな曲ではなく、子守唄のような旋律。エルフの古い言葉。リーラ自身も、歌いながら目を閉じていた。
ルツィアが、生姜湯のグラスを置いた。
両手がフードの端に触れた。
ゆっくりと、上げた。
月明かりが、ルツィアの顔を照らした。
エルフの長い耳。でも耳朶が厚い。ドワーフの血だ。顎の骨格がしっかりしていて、でも頬の線はエルフの細さがある。目は琥珀と灰色が混ざった色。肩にかかる髪は、銀ではなく、銀と褐色が縞のように混じっている。
混血の証が、全身に出ていた。
ルツィアは前を向いたまま動かなかった。フードを外した姿を見られることに、耐えている顔だった。
ミーシャが、テーブルを拭く手を止めた。
「——月みたい」
小さな声だった。独り言に近い。
ルツィアが振り向いた。
ミーシャがルツィアを見ていた。猫の目が、月明かりの中で丸くなっている。
「月みたい。髪が、月と同じ色してる」
ルツィアの口が開いた。閉じた。また開いた。言葉が出てこない。
「——ツキ」
ミーシャが言った。
「バーネーム、ツキにしたら? 月の、ツキ」
ルツィアの目が見開かれた。
リーラが歌うのをやめて、こちらを見ていた。口元に笑みが浮かんでいる。
ガルドが皿を持ったまま立ち止まっていた。ルツィアを見て、それからミーシャを見て、またルツィアを見た。皿をそっとカウンターに置いて、膝を一つ叩いた。ぱん。いつもの、肯定のリズム。
ソルの胸の光が、ゆっくりと、温かく明滅した。
ルツィアの目から、涙がこぼれた。
拭わなかった。フードで隠すこともしなかった。月明かりの中で、涙が頬を伝って、顎の線を滑り落ちた。
「……初めてです。そんなふうに、言われたの」
ミーシャが小首を傾げた。耳がぴょこんと立った。
「きれいって言うてへんで。月みたいって言うたんや」
リーラが、ふっと笑った。
「同じことよ、ミーちゃん」
サエルはカウンターの中で、グラスを拭いていた。拭き終わったグラスを棚に戻した。次のグラスを取った。手を止めなかった。
——この場面は、俺が出る場面やない。ミーが作った場面や。
「ツキ。明日も来るか?」
サエルはそれだけ言った。
ルツィアが——ツキが、小さく頷いた。
「……来ます」
七
ひと月半が経った頃には、腹割亭の夜は賑やかになっていた。
バーネームが飛び交う。
「ガル、こっちの客に水持ってったって!」
「……うん」
「ミー、三番テーブルの空いたグラス下げてくれるか」
「はーい」
「リーラ、今日はなに歌うん?」
「あんたのリクエスト次第よ」
「ゴウ、もう一杯いくか」
「……もう年やから、二杯で勘弁してくれ」
ゴウは朝粥の常連から、夜の客にもなっていた。元漁師のがっしりした手で、安い麦酒のジョッキを握っている。隣にいる若い人間の男と、漁の話をしていた。
「——あの頃は網を一人で引き上げとってん。腕がもっと太かったわ」
「嘘やろ、おっちゃん。今でも十分太いやん」
「アホ言え。これでも細なったんや」
ゴウが腕を曲げる。笑い声が上がる。
カウンターの端では、ツキが生姜湯を飲んでいた。フードは被っていない。二十回目くらいから、フードなしで来るようになった。最初はカウンターの端だけ。今も端だが、身体の向きが少し変わった。店内の方を向いている。
リーラが歌い始めた。
今夜はテンポの速い曲。手拍子を煽る。客たちが叩く。ガルドが膝を叩く。ぱん、ぱん、ぱん。ソルの胸の光が拍に合わせて明滅する。
ツキの指先が、グラスの縁を叩いていた。小さな、小さなリズム。本人は気づいていないかもしれない。でも、指が動いていた。
「——ツキ、あんたも歌いなさいよ」
リーラが曲の合間に声をかけた。
ツキが首を横に振った。でも、指はまだグラスを叩いていた。
ミーシャがツキの隣を通りかかって、小さく笑った。
「ツキ、指、動いてるで」
ツキが自分の手を見た。指が止まった。耳の先が赤くなった。
リーラが次の曲を始めた。ツキの指が、また動き出した。
✱ ✱ ✱
深夜。客が帰って、店内が静かになった。
ガルドが最後のテーブルを拭いていた。ミーシャが調理場で明日の仕込みをしている。ソルは入口の横に立って、いつものように胸の光をゆっくり明滅させていた。
サエルがカウンターでグラスを磨いていた。
扉が開いた。
誰も入ってこなかった。風が吹き込んだだけだ。サエルが扉を閉めに行った。
路地に出た瞬間、風に混じって声が聞こえた。
遠い。港の方から。酔っ払いの喧嘩か。波止場の番人の怒鳴り声か。
サエルは扉を閉めた。
——潮風区は変わってへん。腹割亭の中だけが、少し変わった。でもそれでええ。小さい場所から、変えていく。
「ガルド、ミーシャ、上がりや。今日もお疲れさん」
ガルドが布巾を畳んだ。
「……サエル。ええ日」
「せやな。ええ日やった」
ガルドが二階への階段を上がっていった。ミーシャが「おやすみー」と手を振って、後を追った。ソルが最後に動いて、階段を上がった。ガルドが改修した広い階段を、ソルの大きな身体がゆっくりと上がっていく。
サエルが一人になった。
グラスを磨き終えて、棚に戻した。
カウンターに両手をついた。
今日の客の顔を思い出す。ゴウが笑っていた。ナジが今朝も来ていた。椀を返すとき、少しだけ頭を下げた。ツキの指がリズムを刻んでいた。リーラの歌が響いていた。
——田中さん。
サエルは窓の外を見た。
潮風が吹いている。月が出ている。
——あの夜、あの人の手を握った。握り返してくれた。でも俺が先に逝ってしもた。あの人の手を、もう握れへん。
——でもここでは、手が届いてる。ゴウに、ナジに、ツキに。毎日、椀を渡して、バーネームを呼んで、「また明日な」って言うて。それだけのことや。
——それだけのことが、できる場所を作れた。
窓の外、路地の暗がりに、視線を感じた。
サエルは目を凝らした。
——気のせいか。
暗がりには何も見えなかった。
でも、見えない場所に、確かに何かがあった。
八
翌朝、リーラが珍しく朝粥の時間に来た。
「あら、マスター。あたしも一杯もらっていいかしら」
「リーラ、朝は初めてやな。どうしたん」
「たまには早起きもいいものよ」
リーラが石段に座って、粥を啜った。銀髪が朝日に光っている。華やかな衣装ではなく、簡素な布の服。化粧もしていない。それでも目を引く存在感がある。
ゴウが隣にいた。
「……あんた、夜の歌の人やろ」
「あら、わかる? 化粧なしでも」
「声でわかるわ。ええ声しとる」
リーラの口元が少し緩んだ。
サエルは二人のやり取りを聞きながら、別のことを考えていた。
——リーラ、朝に来たんは、夜に帰るのが怖かったからやないか。
尾行の話をしてから、リーラは遅い時間に帰ることを避けるようになっていた。閉店まで残って、ガルドかソルが途中まで送る形が何度かあった。でも、毎晩そうはできない。
「リーラ。うち、二階に空き部屋あるで」
サエルが言った。軽い口調で。
リーラの粥を啜る手が止まった。
「……何のこと?」
「泊まれる部屋がある、ってだけや。使うか使わんかは、お前次第や」
リーラは何も答えなかった。粥を飲み干して、椀を返して、坂道を下りていった。
——今は、まだ早い。でも、選択肢があることは伝えた。
選ぶかどうかは、リーラが決める。
✱ ✱ ✱
夕方、仕入れから戻ったサエルは、潮風区の大通りで一人の男とすれ違った。
五十代前半。がっしりとした体格。顔に古い傷跡。直立した姿勢。元軍人だ。
すれ違いざま、男がサエルをちらりと見た。目が冷たかった。品定めをしている目。値段をつけている目。
サエルは足を止めなかった。通り過ぎた。
背中に、視線を感じた。
振り返ると、男はもう歩き出していた。大通りの向こう、港に近い大きな建物の方へ歩いていった。建物の看板が見えた。
——「温もり処」。
サエルはその名前を覚えた。
腹割亭に戻ると、ガルドが一階の壁を磨いていた。
「ガルド、大通りの向こうの大きな建物、知っとるか? 温もり処って看板のやつ」
ガルドの手が止まった。
「……知らん。でも、匂いがする」
「匂い?」
ガルドが鼻を指差した。
「……嫌な匂い」
ガルドの鼻が効くのは、サエルも知っている。木の種類を匂いで当てる。雨が来るのを匂いで察知する。人の気分が変わったことすら、たぶん匂いでわかっている。
「嫌な匂い」と言ったとき、ガルドの眉の間に皺が寄っていた。
サエルは窓の外を見た。港の方角。温もり処がある方角。
——あの男の目。あの冷たさ。あの建物。
まだ何もわからない。でも、何かがある。それだけは、わかった。
✱ ✱ ✱
その夜の閉店後。
サエルが一人でカウンターにいると、リーラが二階から下りてきた。
「——マスター」
「リーラ? 泊まっとったんか」
「ミーちゃんが引き留めたのよ。『リーラ、今日は泊まっていきや』って。断れないでしょう、あの目」
サエルは笑った。ミーシャの作戦勝ちだ。
リーラがカウンターに座った。
「——ねえ、マスター」
「ん」
「この店、いつまで続けるの」
「続けられる限り、ずっとや」
リーラが指先でカウンターの木目をなぞった。
「……あたしね。150年、生きてきたの」
サエルは手を止めなかった。グラスを磨く手を。
「エルフの寿命は長い。でも、長いだけよ。どこにも居場所がなければ、長い時間はただ長いだけ」
リーラの声に、いつものお姉口調の余裕がなかった。夜の、静かな声だった。
「——あたし、ここが好きよ」
「そらよかった。うちの安ワインが効いたか」
「ワインじゃないわよ」
リーラが立ち上がった。
「おやすみ、マスター。明日も歌ってあげるわ」
「頼むわ。お前がおらんと、盛り上がらんからな」
リーラが階段を上がっていった。
サエルはグラスを棚に戻した。
カウンターの木目に、リーラの指の跡が残っていた。
窓の外、月が出ていた。
ツキがフードを外した夜と同じ月だ。
腹割亭に、少しずつ人が集まっている。ゴウ。ナバ。リーラ。ナジ。ツキ。名前のある人。まだ名前のない人。朝粥だけの人。夜だけの人。
みんな、何かを失って、ここに来た。
サエルが作れるのは、場所だけだ。失ったものは返せない。壊れたものは直せない。
でも、椀を渡すことはできる。バーネームを呼ぶことはできる。「また明日な」と言うことはできる。
——それが、俺にできる全部や。
灯りを消した。
潮風が、窓の隙間から吹き込んでくる。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます!
まっとんです。
第三章、いかがでしたか?
この章で、リーラ、ツキ(ルツィア)、ゴウ、ナジが腹割亭にやってきました。四人を一気に登場させるのはかなり悩みましたが、「扉をノックする側」と「迎える側」、それぞれの温度差を大切にしたくてこの構成にしました。
ツキの命名シーンは特に思い入れがあります。フードを外すまで何日もかかったこと、外した瞬間にミーシャが「月みたい」と言ったこと。あのシーンは、現場でずっと大切にしてきた「こちらのタイミングではなく、本人のタイミングを待つ」ことそのものです。待った先にしか見えない景色がある。それを書けたのが嬉しかったです。
リーラの歌が店に響く場面も好きです。腹割亭に初めて「華」が生まれた夜。ガルドの膝打ちとソルの光が拍子を刻む——言葉を持たない二人がリズムで参加しているところに、この店の本質がある気がしています。
この作品について
今回、ナジという人物が朝粥の列に加わっています。懐に小さな瓶を持った男。サエルはそれに気づいていますが、何も言いません。
福祉の現場では「ハームリダクション」という考え方があります。依存症の方に「やめなさい」と言うのではなく、その人が安全でいられる環境をまず整える。「やめろ」ではなく「やめなくても、ここにおっていい」——腹割亭が最初にそれを体現した場面として書きました。
もう一つ。ガルドが「……来てない」と気づく場面。前章のあとがきでも触れましたが、「いつもいる人がいない」ことに気づけるのは、その人の存在をちゃんと知っているからです。朝粥は、支援の言葉で言えば「アウトリーチ」であり「安否確認」であり、もっと単純に言えば「あんた来てへんかったから気になったんや」ということ。炊き出しの本当の意味は、食事を届けることではなく、存在を確認し合うことだと思っています。
専門知識がなくても大丈夫です。「なんかこの店、ええなあ」と思いながら読んでもらえたら、それが一番です。
更新予定
週1回程度を目標に更新しています。次章では、腹割亭の外に目を向けることになります。
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それでは、次回もお楽しみに!




