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グッドモーニング、腹割亭

 一

 開業まで、あと二十日。

 腹割亭は、まだ店になっていなかった。

 元は船大工の作業場だった。石畳の坂道の途中、港から少し上った場所。窓から海が見える。かつての作業台が、そのままカウンターになる予定だ。ガルドが毎日磨いているから、木の表面はもうすっかり艶が出ている。

「ガルド。今日は壁の漆喰やで」

 声をかけると、ガルドはすでに壁に向かっていた。こてを手に、黙々と作業している。返事はない。ただ、こてを動かす速さが、昨日より少し速かった。

 木を削るとき。石を積むとき。釘を打つとき。

 作業ごとに、ガルドの呼吸が変わる。鼻から深く吸って、手が材料に触れた瞬間に止まる。それが終わるまで吐かない。サエルは最初、気づかなかった。三日目に気づいた。それからは、ガルドが釘を打つ前の一呼吸が、作業場のリズムになった。

「……屋根」

 ガルドが突然言った。

「屋根?」

 こてを持ったまま、上を指差す。

「もう少し、上にできる」

「上って……」

「三階」

 視線を上に向けると、屋根裏の空間が見える。二階の天井と屋根の間——確かに、潰すには惜しい広さがある。

「ガルド、待ってや。俺、そんな設計——」

 しかしガルドはもうこてを置いていた。木材をどこからか引っ張り出してきて、梯子を立てかけて、屋根裏へと上がっていく。

 サエルは口を開けたまま見ていた。

 その日から三日間、ガルドは屋根裏に篭った。どういう設計で、どんな工法で作っているのか、サエルには全く分からなかった。ただ、上から木を削る音と、釘を打つ音が聞こえてきた。それと時々、「……うん、ええやん」という声が。誰に言っているのかは、分からなかった。

 四日目の朝、ガルドが降りてきた。

「できた」

「……見てもええか」

 梯子を上って、三階に足を踏み入れた。

 天井は低い。床は木板。小さな窓が一つ。何もない部屋。

 サエルは窓に近づいて、外を見た。路地が見えない。角度がどこかずれている。外から覗いてみようと梯子を下りて、同じ場所から建物を見上げたが、窓の位置がつかめなかった。

「ガルド、ちょっと——この窓、なんでこっち向きにしたんや」

 梯子を下りてきたガルドに訊こうとした。

 ガルドは答えなかった。一度だけサエルを見て、それから窓の方向に視線を向けた。それだけだった。

 サエルはもう一度、三階を見上げた。

 ——なんで、そう思ったんやろ。

 その問いに言葉はなかった。梯子を下りると、背中に潮風が当たった。


 ✱ ✱ ✱


 二

 開業の十五日前。

 サエルは港へ資材を取りに行く途中、路地でその子を見つけた。

 猫の耳。細い身体。ぼろぼろの服。壁際にうずくまって、膝を抱えている。

 顔に、あざがある。

 首のあたりにも、古い傷の痕。袖口から見える手首には、できかけのかさぶた。表に出ている部分だけで、それだけあった。服で隠れた部分に何があるかは、スキルを使わなくても想像できた。

「——なあ」

 声をかけると、猫の耳がぴんと立った。顔を上げる。十四、五歳くらいの少女。目が合うと、反射的に壁の方へ肩を向ける。

 サエルはしゃがんだ。「でかい人間が立っている」という圧迫を減らすために。

「怖くないで。ちょっとだけ話できるか」

 少女は答えなかった。でも逃げなかった。

「腹、減っとるか」

 少女の猫耳が、ほんの少し、内側に折れた。

 サエルはその反応を見て、立ち上がった。

「——来るか。うちの店、まだ開いてへんけど、ご飯くらい出せるで」

 少女は動かなかった。一分ほど経って、ゆっくりと立ち上がった。壁から離れる前に、一度だけ路地の奥を確かめた。


 ✱ ✱ ✱


 腹割亭の厨房で、サエルは粥を作った。

 少女は椅子に座って、カウンターの向こうのサエルを見ていた。猫の瞳が、鍋からサエルへ、サエルから扉へ、と動いている。

「名前、教えてくれるか」

 少女は一瞬、テーブルの木目を見た。それから言った。

「……ミーシャ」

「ミーシャか。俺はサエル。この店、腹割亭っていうねん。今月開業やで」

 粥を出した。ミーシャはしばらく椀を見てから、スプーンを取った。一口目はゆっくりだった。それが二口、三口と進むうちに、ひじがテーブルについた。

 食べながら、ぽつぽつと話してくれた。

 家族がいる。父と母。父が飲んだときに——。兄弟はいない。母は止めようとするけど、父が大きい声を出すと黙る。自分も黙る。黙るしかない。

 サエルは最後まで聞いた。途中で意見を言わなかった。頷きながら、聞いた。

 ミーシャが椀を置いた。少しの間、テーブルを見ていた。

「……やめてって、言いたい」

「お父ちゃんに?」

「うん。でも怖い。怒鳴られるかもしれん。もっと——なるかもしれん」

 サエルは少し考えた。

「——俺が一緒に行こか」


 ✱ ✱ ✱


 ミーシャが「少し顔を洗ってきます」と厨房の奥に引っ込んだ。

 サエルはカウンターで一人、空になった椀を見た。

 ——本来やったら、こういう場合は通告や。専門機関が動く。俺が単独で家族と対峙するのは、むしろあかんやり方や。

 前世でそれは骨の髄まで分かっていた。虐待対応は個人でやるものじゃない。チームで、機関で、手順を踏んで動くものだ。それを無視して「自分がなんとかする」と思い込んだ支援者が、どれだけ状況をこじらせてきたか。

 でも、この世界に、そんな仕組みがそもそもない。通告先がない。子どもを一時的に保護する場所もない。動かせる機関が、存在しない。

 ——ミーシャを、今夜も家に帰すか。

 それだけが問いだった。

 サエルはしばらく突っ立っていた。それから、上着を取った。

 正しいやり方ではないかもしれない。でも「何もしない」が正しいとも思えなかった。


 ✱ ✱ ✱


 潮風区の外れ、古い長屋が並ぶ一角。ミーシャの家は、壁が剥がれ、窓は板で塞がれていた。

 扉を叩く。中から荒い足音。

 獣人の男が立っていた。猫の耳と尻尾。荒れた顔。酒の匂い。

「——なんや」

 サエルは深呼吸した。

「俺、サエル言います。ミーシャのことで来ました。——入ってもええですか」

 男の目が、サエルを睨む。でもサエルは一歩も引かなかった。

 男が、戸惑いながら中に入れた。

 家の中は荒れていた。割れた皿。空き瓶。奥の部屋から、女性がゆっくりと出てきた。ミーシャの母親だろう。顔が出てくるより先に、廊下の影で足が止まっていた。

 サエルは床に座った。ミーシャの父親と、正面から向き合う。

「ミーシャの身体に傷があります」

 男の顔が赤くなった。

「——何が言いたいねん! お前、何様や!」

 男が立ち上がる。しかしサエルは動かなかった。

「俺は、あんたを責めに来たんやない」

 静かな声だった。

 男は座らなかった。立ったまま、サエルを見下ろしている。

「——責めに来てないて、何が違うねん。お前みたいな若造に何が分かる」

「俺には分からんことが多いと思います。でも、ミーシャの話は聞きました」

「娘に何を吹き込んだ——」

「何も吹き込んでません。俺の店で粥を食べながら、ミーシャが自分で話してくれた」

 男の手が、一度グッと握られた。でも振り上げなかった。

「……なんで俺のとこに来た。なんで放っておかん」

「放っておけんかったからです」

 男が背を向けた。窓の板を、指の甲で叩く。一回。また一回。不規則なリズム。

 奥の部屋の扉が、わずかに開いた音がした。

 しばらく誰も喋らなかった。

「……分かっとるんや」

 男が板を叩くのをやめた。

「あかんって、分かっとる。分かっとるけど——」

 声が、揺れた。

「酒が入ったら、止まらへん。止め方が分からへん」

「仕事は?」

「半月前に切られた。次が見つかってへん。金がない。どこ行っても顔見て——」

 男がそこで言葉を切った。獣人の耳が、伏せる。猫科の、ミーシャと同じ形の耳だった。

「ミーシャを、しばらく俺のとこに預けてほしい。腹割亭っていう店を開くんです。ミーシャが手伝いをしてくれたら俺も助かる。その間、あんたら夫婦も少し休める」

 男が振り返った。「……そんなこと、頼める立場か、俺は」

「立場とか関係ない。今、ミーシャに必要なことを一緒に考えたい。それだけです」

 長い沈黙があった。

 男が椅子を引いた。背もたれに手をついたまま、立ったまま、また沈黙した。

 それからようやく、腰を下ろした。

「……ミーシャを捨てる、ということか」

「違います。いつでも会いに来てええ。ただ今は、距離を置く。それがみんなのためや」

 奥の部屋の扉が開いた。

 ミーシャの母親が廊下に立っていた。いつからそこにいたかは分からない。壁に手をついている。顔が、くしゃくしゃになっていた。

 男が頷いた。小さく。一度だけ。

 母親が前に出てきた。サエルに向かって、床に手をつくほど深く頭を下げた。そのまま顔を上げなかった。

 サエルも、二人に向かって、深く頭を下げた。

「任せてください」


 ✱ ✱ ✱


 ミーシャが腹割亭に住むようになって三日が経った。

 最初の二日間、ミーシャは食事のとき以外、部屋から出てこなかった。

 三日目の朝。ガルドが石の端材を積んでいた。小さな石の塔。ミーシャが厨房のそばで、遠くから見ていた。

 四回目に、うまく積めた。

 ガルドが、ぱん、と膝を叩いた。

 ミーシャが、息を止めた。

 ガルドは石の塔を見ていた。崩れていない。積めた。それだけを見ていた。ミーシャを見なかった。見なかったのに——ぱん、と、膝を叩いた。

 その一秒の後で、ミーシャが初めて、笑った。

 それを見て、サエルはカウンターを拭く手を動かし続けた。


 ✱ ✱ ✱


 三

 開業の五日前。

 サエルは港へ資材を取りに行った。

 荷揚げ場には、いつものようにゴーレムたちが並んでいた。黙々と荷物を運ぶ。誰も彼らに話しかけない。

 その中に、一体だけ、動いていないゴーレムがいた。

 灰色の身体。胸の光は、鼓動のようにではなく、ろうそくが消えかけるように明滅している。他のゴーレムたちが荷物を運ぶ中、そのゴーレムだけが港の隅で座り込んでいた。

 商人が舌打ちをした。

「ああ、そいつはもうあかんわ。動かんようになった。捨てるとこや」

「捨てる?」

「壊れたゴーレムなんか置いといても邪魔なだけやろ」

 商人が立ち去る。

 サエルはゴーレムの前に膝をついた。

 転生した日から、二つのスキルがある。転生カウンターのヨシエが持たせてくれたものだ。【共感把握エンパシー・リーディング】——対象の感情や欲求、身体の状態を読み取る。言葉を持たない相手にも使える。もう一つは【環境調整セッティング・ハーモニー】——空間の照明、音、温度を対象が快適と感じる形に整える。どちらも外からは何も見えない。炎も出なければ光も出ない。ただ、使いすぎると頭が痛くなる。前世で過労死したときの症状に似ている。

 目を閉じると、ゴーレムの「声なき声」が流れ込んできた。

「もう要らないと言われた」

「自分はどこにもいてはいけないのか」

「動く理由がない」

「でも——」

「誰かと一緒にいたい」

 小さな、小さな残り火。

 サエルは目を開けた。頭の中に、田中さんの手が浮かんだ。壁を叩いていたあの夜、サエルが近づいたら、その手がゆっくりと止まったこと。グループホームで誰も来ない部屋で、それでも扉に背を向けずに座っていた人たちのこと。

「——なあ。うちに来えへんか」

 ゴーレムの胸の光が、ほんの少しだけ揺れた。

「腹割亭いう店や。そこで一緒に暮らそう。——お前の居場所、作ったるわ」

 ゴーレムは動かない。

「嫌やったら、来んでええ。でも、ここにおっても、誰もお前を見てくれへん。うちに来たら、ちゃんとお前を見る。お前の名前も呼ぶ」

 胸の光が、少しずつ強くなっていく。ろうそくが消えかけるのではなく、炭が息を吹き返すように。

 サエルが立ち上がって、手を差し伸べた。

 その時、前世の記憶がふっと口をついて出た。九月の岸和田、カンカン場の交差点、数百人が綱を曳く光景——

「——ソーリャ」

 そう呟いたのは、無意識だった。だんじりの掛け声。みんなで引く時の、掛け声。

 ゴーレムの身体が、ぴくりと反応した。

 胸の光が、急に強くなった。

 サエルは驚いて、もう一度言った。

「ソーリャ」

 ゴーレムがゆっくりと立ち上がった。

 ——なんや、今の。

 サエルは少し考えた。ゴーレムは「最初の命令者の声」に特定の言葉が登録されると聞いたことがある。もしかして、誰かが昔「ソーリャ」に近い言葉を起動キーにしていたのか——いや、それよりも。

「——ソルや。お前の名前は、ソル」

 ゴーレムの胸の光が、ぱっと明るくなった。

「ソーリャっていうのはな、だんじりの掛け声や。みんなで綱を曳くときの。一人ではなくて、みんなで、同じ方向に。——お前も、腹割亭で、俺らと一緒に何かを作っていこ。な、ソル」

 ソルの光が、リズムを刻むように明滅した。

 サエルは手を差し伸べた。ソルが、その手に触れた。


 ✱ ✱ ✱


 腹割亭に戻ると、ガルドとミーシャが目を丸くした。

「サエル、ゴーレム!」

「ああ。この子も、うちの仲間や」

 サエルはソルを店の中に案内しようとして、すぐに気づいた。

 二階への階段が、狭い。

 ソルは入口の扉こそかろうじて通れたが、階段は無理だった。ソルの体格に対して、開口部が明らかに足りない。ソルが一段上がろうとして、肩が壁につかえた。光が、一回だけ速く明滅した。それきり、ソルは動かなかった。

「……ここ、入れへんな」

 サエルが呟いた。

 ミーシャがソルを見て、階段を見て、唇を噛んだ。ガルドは黙って階段の幅に手を当てて確かめた。指で横幅を測るように、端から端まで触れていく。

「ガル、どう思う?」

 ガルドがサエルを見た。次に階段を見た。

「——広くできる」

「壊して作り直すか……」

「うん」

 あっさりした返事だった。ガルドの手はもう壁を叩いている。どこを壊すか確かめるように、コン、コン、と。

「——ほな、改修や。ソル、しばらく一階で寝てもらうことになるけど、ええか」

 ソルの光が、ゆっくりと明滅した。

 それから数日、ガルドは階段の壁を壊しながら新しい幅に作り直した。扉の枠も変えた。ソルの部屋になる二階の角部屋も、天井の梁の位置と出入り口の寸法を整えた。

 完成した日、ソルが階段を上がった。

 肩がつかえない。頭がぶつからない。

 踊り場で一度、ソルが立ち止まった。両手を広げて、壁との距離を確かめるように。それから、また上がった。

 ガルドがソルに近づいて、じっと見た。それから肩を叩いた。

 ソルの光が、明るくなった。

 ミーシャがおそるおそる声をかけた。

「……ソル、というんですか」

 ソルの光が、また明るくなった。

「言葉はないんやけどな」

 サエルが補足すると、ミーシャは少し考えてから言った。

「光が、変わりますね。嬉しいときと、普通のときと」

「そうやな。それが、ソルの言葉や」

 ミーシャがソルを見た。ソルがミーシャを見た。

 ソルの光が、ゆっくりと温かく明滅した。


 ✱ ✱ ✱


 四

 開業前夜。

 サエル、ガルド、ミーシャ、ソルの四人が、カウンターの前に集まった。

 明日から、ここが酒場になる。

 サエルはカウンターに看板を立てかけた。木の板に墨で書いた文字。

「腹割亭 店主:ロウタ・サエル」

 ミーシャが手を止めて、看板を見た。

「……苗字があるんですね」

「昔はな。うちの家、曾祖父さんの代まで貴族やってん」

 ミーシャが目を丸くした。ガルドは看板をじっと見ていた。サエルの横顔に、一瞬だけ視線を向ける。

「——でも、没落してな。今は普通の漁師や。苗字だけが残っとる。それが『ロウタ』や」

 ミーシャが不思議そうな顔をした。

「貴族だったのに、今は……」

「そや。でも父ちゃんがいつも言うとってん。『苗字があろうがなかろうが、人は人や』って」

 ガルドが、ぱん、と一度だけ膝を叩いた。

 サエルは看板に視線を戻した。

「——『腹割亭』ってな、腹を割って話す場所、っていう意味や」

 ミーシャが繰り返した。「腹を割って……」

「本音で話す、ということや。ここに来たら、身分も種族も肩書きも関係ない。ただ、その人がその人として、誰かと向き合える。——そういう場所にしたかった」

 ガルドが看板をもう一度見た。それから、ゆっくりと頷いた。

 サエルは少し照れくさそうに続けた。

「——明日、バーネームの話をするで。客の前で俺が宣言する。ガルドは『ガル』、ミーシャは『ミー』、ソルは『ソル』——ソルだけ本名とバーネームが同じやけどな」

 ソルの光が、ぴかりと光った。

 ミーシャが「ミー……」と呟いて、口の中で転がしてみた。それからくすっと笑った。

 ガルドが「……ガル、ええ」と言った。

「——明日から、腹割亭や」

 サエルが四人の顔を見た。

「みんな、ありがとうな。ここまで、一緒に作ってくれて」

 ガルドが膝を叩いた。ぱん、ぱん。いつものリズム。

 サエルも、自分の膝を叩いた。ぱん、ぱん。

 二人の間で、同じリズムが揃った。

 ミーシャが小さく頷いた。ソルの光が、温かく輝いた。


 ✱ ✱ ✱


 五

 開業当日。

 朝から準備に追われた。カウンターを拭く。椅子を並べる。酒樽を運ぶ。ソルが力仕事を引き受けてくれた。

「ソル、それ、あっちに運んでくれるか」

 大きな樽を指差すと、ソルが軽々と持ち上げて運んでいった。

「——すごいな、ソル」

 ミーシャが見上げた。ソルの胸の光が、明るくなった。

 昼過ぎ。店の扉を開けた。

 最初の客は、ガルドの父親だった。

「——おお、開店したんやな」

「父ちゃん!」

 ガルドが駆け寄る。父親が息子の頭を撫でた。一度だけ、強めに。

「——サエル、ちょっとええか」

 父親がカウンターに座った。サエルが水を出す。

「ガルドが、ちゃんと店の手伝いできとるか見に来た」

「めっちゃ頑張ってくれてますよ。この店、ガルドがおらんかったら、できてへんかったです」

 父親は水のコップを両手で持って、テーブルを見た。しばらく何も言わなかった。

「……そうか」

 その後、続々と客が入ってきた。近所の獣人の漁師。人間の商人。エルフの旅人。改装を手伝ってくれたダルグも来た。

「よっしゃ、開店祝いや!」

 店内が賑やかになっていく。

「——みんな、ちょっと聞いてくれ」

 サエルがカウンターの前に立った。

「この店ではな、バーネームで呼び合う。本名も身分も種族も、ここでは関係ない。お互いを、ニックネームで呼び合おう。——俺は『サエル』や。そのままやけどな」

 笑いが起きる。

「ガルドは『ガル』。ミーシャは『ミー』。あっちで荷物運んどるゴーレムは『ソル』や。——みんなも、好きな名前で名乗ってくれ」

 ダルグが手を上げた。

「ほな、儂は『ダル』や」

 獣人の漁師が続いた。「俺は『リク』で」

 商人が笑いながら言った。「俺は『カズ』にしとこか」

 そのとき、小太りの人間の男が手を上げた。耳の先まで赤くなっていた。

「あの……俺、『王子』で」

 一瞬、店内が静まり返った。

「……王子?」

 男が俯いた。

「子どもの頃、母ちゃんがそう呼んどったんや……かっこええやろって……」

 ダルグが噴き出した。一拍遅れて、店中に笑い声が広がった。

「ええやん、王子!」

「かっこええやないか!」

「ほな、王子、一杯どうや!」

 男が顔を上げた。両頬がまだ赤いまま、口の端が上がっていた。笑われて顔をしかめるのとは、違う顔だった。

 サエルが笑いながら言った。

「ええ名前や、王子。ここでは、お前は王子や」

 ソルが荷物を運んでいると、客たちが興味深そうに見ていた。

「あのゴーレム、ちゃんと働いとるやん」

「——あ、違うわ。ソルや」

 客が慌てて言い直す。周りが笑う。

 ガルドの父親が、店の隅でコップを持ったまま、ずっと同じ場所に座っていた。息子がテーブルを拭いて、客に頷いて、ミーシャと何か言葉を交わして、また別のテーブルへ向かう様子を、目で追っていた。

 やがて父親が立ち上がって、帰り際にサエルのそばを通った。

 何も言わなかった。ただ、サエルの肩を一度だけ叩いた。


 ✱ ✱ ✱


 六

 夜。客が帰り、店内に静けさが戻ってきた。

 サエル、ガルド、ミーシャ、ソルが、片付けをしている。

 サエルが皿を洗っていると、急に足元がずれるような感覚があった。手を鍋の縁についた。

 ——あ。

 開店初日、客が多かった。新しい客が入ってくるたびに【共感把握】で確かめた。ガルが疲れかけているのを見て【環境調整】。ミーが固まっているのを感じて、また【環境調整】。王子が固くなっているのを見て【共感把握】。気づけば、何度も何度もスキルを使っていた。

 使いすぎた。

 視界の端が、少し揺れる。

「サエル?」

 ガルドが近づいてきた。

「……ああ、大丈夫や。ちょっと疲れただけ」

 笑おうとしたが、頬が動かなかった。

 ガルドがサエルの肩を、両手で支えた。

「サエル。座れ」

 ミーシャが水を持ってきてくれた。ソルが椅子を持ってきてくれた。三人が、サエルを囲む。

 ガルドがサエルの顔をじっと見た。

「——また、無理しとる」

「……ガル」

 ガルドが言葉を探している。唇が、いつもより長く動いている。

「……無理、しとる」

 それだけ言って、また止まった。もう一度、口が動く。

「——サエルも、休む」

 ミーシャも頷いた。

「サエルさんが倒れたら、困ります」

 ソルの光が、速く、細かく、明滅している。

 サエルは水を一口飲んだ。

「——ありがとうな。みんな」

 ガルドが、膝をぱん、と叩いた。

 サエルも、自分の膝を叩いた。ぱん。

「——今日は、ええ日やったな」

 ガルドが、くしゃっと笑った。ミーシャが、息を吐くように微笑んだ。ソルの光が、ゆっくりと大きくなった。

 三人が二階へ上がっていく足音が、階段から聞こえてきた。それが遠くなって、静かになった。

 サエルは一人、カウンターの椅子に座ったまま、しばらく動かなかった。水のコップに、両手を置いたまま。

 その時、視界の端に光が見えた。

 白く淡く光る人影が、カウンターの向こう側に立っていた。いつもの割烹着。いつもの湯呑み。呆れた顔でこちらを見ている。

「ヨシエさん……」

「開店初日から飛ばしすぎや。あんた、また過労死する気か」

「でも、みんなが快適に過ごせるようにと思って……」

「その『みんなのため』で自分を潰したら、元も子もないやろ。あんた、前世で何学んできたんや」

 サエルは口を開いて、閉じた。

 ヨシエが湯呑みを一口啜って、ため息をついた。

「支援者が倒れたら、誰が支援するんや。お前が元気でおらなあかん。そのためには、休むことも仕事のうちや」

「……はい」

「それに、お前、一人やないやろ。ガルも、ミーも、ソルも、みんなおる。頼れや」

 ヨシエの姿が薄くなっていく。

「——次、また倒れたら、閻魔さんとこ行きやからな。ちゃんと休めよ」

 ヨシエの声が消えた。

 サエルはコップを持ち上げた。水を一口飲んだ。

 腹割亭の、最初の夜。

 窓の外から、潮風が吹き込んでくる。


 ✱ ✱ ✱


 七

 開業から、三日が経った。

 その日の夜明け前。

 サエルは厨房で水を飲もうと起き出して、外に出た。

 裏口の扉を開けると、路地に人が倒れていた。

 人間の男。中年くらい。呼吸はある。意識はない。空き瓶が転がっている。

 サエルは男を路地の端に移動させて、呼吸を確かめた。

 ——酔い潰れただけや。

 でも、この寒さの中に放置はできない。

 腹割亭に連れ込んで、毛布をかけた。男は起きない。

 厨房に戻ると、昨日の残り飯があった。

 鍋に水を入れて、残り飯と一緒に火にかけた。粥。簡単なものでいい。

 ガルドが起き出してきた。

「サエル、もう起きとるん?」

「ちょっとな。路地に人が倒れとったから」

 ガルドがそうか、という顔をして隣に座った。

 粥が出来上がった頃に、男が目を覚ました。

 しばらくぼうっとして、自分がどこにいるか分からない顔をして、それからサエルを見た。

「……ここ、どこや」

「腹割亭っていう酒場や。路地で倒れとったから、連れてきた。粥、食べるか」

 男は少し黙って、頷いた。

 食べながら、男が口を開いた。

「……あんた、名前は」

「サエルや。この店の主人や」

「腹割亭」

「ここではバーネームで呼び合う。本名でも好きな名前でも、なんでもええ。あんたは?」

 男はしばらく粥をすすった。

「……ジン」

「ジンか。ええ名前や」

 ジンが、粥を一口すすった。

「……おいしいな」

「残り飯やけどな」

「残り飯の粥が、一番うまい」

 そう言って、また一口すすった。


 ✱ ✱ ✱


 翌朝も、翌々朝も、ジンが来た。

 三日目には、別の誰かも来た。路地裏で夜を明かした商人。仕事がなくなったという獣人の若者。

 いつの間にか、夜明けの粥が習慣になっていた。

 サエルが意図したわけじゃない。ただ、残り飯があって、寒かっただけ。

 でも気がつくと、朝一番に来る人たちがいた。毎朝、同じ顔が来る。

 そしてある朝、ガルドが火にかけた鍋の前でぽつりと言った。

「——昨日の人、来てへん」

 サエルは粥をかき混ぜながら、昨日の顔を思い出した。仕事がなくなったという獣人の若者。椀をいつもより遅く返した。目が合っても、うなずかなかった。

「——ちょっと見てくる」

 路地を一回りしたら、橋の下にいた。寒さでうずくまっていた。大事には至らなかった。

 腹割亭に連れ帰って、粥を出した。

 サエルはその夜、厨房に一人で立ったまま、鍋を磨いた。

 前世で、制度の外にいる人のことを「あの人、最近どうしてるんやろ」と思っても、動けなかったことが何度もあった。担当外だから。記録がないから。窓口に来ていないから。

 ここでは、ガルドが「来てへん」と言う。

 ガルドが「——また来た」と言うのが、毎朝の挨拶になった。


 ✱ ✱ ✱


 八

 開業から、半月が経った。

 深夜。客が全員帰り、ガルドたちも寝た後。

 サエルは一人、カウンターでグラスを磨いていた。

「——よう頑張ったな」

 振り返ると、光の人影がカウンターの向こう側に立っていた。湯呑みを持って、こちらを見ている。

「ヨシエさん」

「久しぶりやな。半月ぶりか」

「この前、開業初日に来てくれましたよ」

「あれは叱りに来ただけや。今日はちゃんと様子を見に来た」

 ヨシエが店内を見渡した。

「ええ店になっとるやないか」

「まだまだですよ。毎日、何かしら失敗する」

「失敗して当たり前や。でも、お前んとこに来とる人らは、ちゃんとええ顔しとる。それは、お前が頑張ったからや」

 サエルはグラスを拭く手を止めた。

「——ヨシエさん、聞いてもええですか」

「なんや」

「ここに来る人らをちゃんと支援するには、まず関係を作らなあかん。でも関係を作ろうとすると、相手の事情を知りたくなる。アセスメントしたくなる。——でも、それって順番、合うてますか」

 ヨシエが少し考えた。

「前世では、どうしとったんや」

「……初回面談で、フォーマットに沿って情報を取ってました。でもその前に、まず『ここは安全や』って思ってもらわんと、本当のことは言ってくれへんかった。だから、アセスメントする前に、ただ隣に座る時間が必要で——」

「それが、答えちゃうんか」

 サエルは黙った。

「居場所に来た人に、最初に情報収集するか? 腹割亭に来た人を、まず調査するか?」

「……せえへん」

「そやろ。まず、おる。次に、食べる。そして、話す気になったら話す。アセスメントは、その後でええ。——お前、もう分かっとるんや。ただ確認したかっただけやろ」

 サエルは少し笑った。

「……そうかもしれません」

「なんでも自分一人で答えを出さんでええねん。迷ったら、ガルドに話せ。ミーシャに話せ。——そのための仲間やろ」

 ヨシエの姿が薄くなっていく。

「——あと、三階の件」

 消えかけた声が戻ってきた。

「三階?」

「ガルドが作ったやつ。外から見えん部屋」

「——あれ、どう使えばええんですか」

「今は、まだ使わんでええ。でも、いつか必要になる。追い詰められて、逃げ場のない人が来たとき、ただ一人になれる場所として。——ガルドは、それを知っとったんやろな」

 サエルは三階を見上げた。梯子の上、扉の向こう。

「ガルが知っとったとは、思えへんですよ。ただ、そう感じたから、作ったんやと思う」

「それが、すごいねん」

 ヨシエの声が遠くなる。

「——ほな、ちゃんと休めよ。また倒れたら、今度こそ閻魔さんとこや」

 声が消えた。

 サエルは一人、カウンターに手をついた。

 グラスを磨き終えて、窓の外を見た。

 潮風が吹いている。港の灯りが見える。

 ——田中さん、見とってくれとるかな。

 ——俺、ちゃんとやれてるで。

 その時、窓の外に、一瞬、影が見えた。

 路地裏の暗がり。

 一人の男が、腹割亭の明かりを見ていた。

 五十代前半。がっしりとした体格。元軍人を思わせる直立した姿勢。顔に、古い傷跡。

 男の目が、冷たく細まる。

 ——没落貴族の分際で。

 男が踵を返す。影が、闇に消えた。

 腹割亭の中では、サエルはまだ気づいていない。

 窓の外を見たが、もう誰もいなかった。

「——気のせいか」

 呟いて、グラスを棚に戻した。

 腹割亭の最初の半月。

 窓の外から、潮風が吹き込んでくる。

ここまで読んでくださって、ありがとうございます!


まっとんです。

第二章、いかがでしたか?


この章でいよいよ、ミーシャとソルが腹割亭の仲間に加わりました。ミーシャを書くにあたっては、虐待を受けている子どもの「逃げない」という行動について、ずっと考えていました。怖いのに逃げない。助けを求めたいのに声が出ない。あの路地でうずくまっていた描写は、現場で出会ってきた子どもたちの記憶が重なっています。


ソルの命名シーンは、書いていて一番楽しかった場面です。だんじりの掛け声「ソーリャ」が無意識に口をついて出る——サエルの前世が滲み出る瞬間が好きで、ここに入れました。

ガルドもこの章で少しだけ変化しています。第一章では「……サエル、ありがと」という二語文が精一杯だった彼が、この章の終盤でサエルに「……無理、しとる」と言う。言葉の数は少ないけれど、それ以前とは違う言葉です。気づいてもらえていたら嬉しいです。


**この作品について**


「バーネーム」はもともとハプニングバー——出会いを目的とした社交の場——で使われる制度です。本名も職業も肩書きも、その場には持ち込まない。仮面をかぶるからこそ、自分の話ができる。誰も否定されない——いわゆるサードプレイスとして機能しうる場所です。


面白いことに、これは福祉の現場とはまったく逆の発想なんです。支援の仕事では、「生身でいてはいけない」と教わります。感情移入しすぎると、利用者さんの喜びは倍になるけれど、悲しみや辛さはその何倍にも増幅される。客観性と再現性のある支援こそが、利用者さんの安定した生活を守る。だから支援者は意図的に距離をとる——仮面をかぶることを、技術として身につけるんです。


腹割亭は、その両方を一つの場所に宿らせようとしています。バーネームという仕組みの中で、客もスタッフも、その場だけは役割から降りられる。福祉の現場で培った「客観性」と、ハプニングバーの「ただの個人として向き合う場所」——その二つが腹割亭という場所の根っこにあります。


炊き出しの場面は特に大切に書きました。ガルドが「昨日の人、来てへん」と気づく。来なかった日が分かるということは、その人の存在をちゃんと知っているということです。「アウトリーチ」という支援の言葉を使わなくても、物語の中で感じ取ってもらえるように書いています。


専門知識がなくても大丈夫です。「なんかここ、いい場所やな」と思いながら読んでもらえたら、それが一番です。


**更新予定**

週1回程度を目標に更新しています。第三章では、腹割亭にさらに新しい顔ぶれが増えていきます。


**感想・ブックマークについて**

感想やブックマーク、評価ポイントが、とても励みになっています!「このキャラクターが好き」でも「ここはこう思う」でも、なんでも大歓迎です。誤字脱字も見つけたらぜひ教えてください。


それでは、次回もお楽しみに!

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