STAND BY ME ガルド
赤ん坊というのは、控えめに言って地獄だった。
前世の記憶がある。三十五年分の知識がある。社会福祉士の資格も、十五年の現場経験も、全部頭の中にある。——なのに、身体が動かない。
首が据わらない。手が握れない。目の焦点が合わない。おしっこは垂れ流し。うんこも垂れ流し。空腹になれば泣くしかなく、泣いたら泣いたで自分の声のデカさにびっくりしてまた泣く。
——俺、前世では田中さんの排泄介助もやっとったんやぞ。まさか自分が介助される側になるとは。
最初の半年は、ほぼ寝ているだけだった。
天井の木目を眺めながら、前世の記憶を整理した。田中さんのこと。石川くんのこと。グループホームの利用者さんたちのこと。だんじりの音。泉大津の潮風。カレーの匂い。
泣きそうになるたびに、泣いた。赤ん坊だから泣いても不審がられない。これは便利だった。三十五歳のおっさんが夜中に布団の中で泣いてたらただの不審者だが、赤ん坊なら許される。唯一の特権と言えた。
ある夜、また泣いていた。
前世のことを思い出して、田中さんのことを思い出して、もう会えないという事実が胸を締め付けて、泣き止めなくなった。メイラが抱っこしてくれても、トルドがあやしてくれても、泣き続けた。
——あかん、泣きすぎや。でも止まらへん。
その時、視界の端に光が見えた。
白く淡く光る人影。大阪のおばちゃんの雰囲気。
「——あんた、泣きすぎや。赤ん坊のくせに悩みすぎやで」
脳内に直接声が響いた。ヨシエだった。
サエルは心の中で叫んだ。
「ヨシエさん! なんでここに!」
「あんたが泣きすぎとるからや。転生カウンターまで聞こえてきたわ」
「前世のこと思い出したら、泣けてきて……」
「せやろな。でも、あんた、新しい人生もらったんやで。前ばっかり見とったらあかん」
ヨシエがサエルの頭を撫でた。光の手だから、物理的には触れてないのに、温かさを感じた。
「——ええか、サエル。あんたは今、赤ん坊や。赤ん坊がやることは、泣いて、笑って、寝て、大きくなることや。前世のことは、ちょっと横に置いときや」
「でも……」
「今は、休め。焦んなや。あんたがやるべきことは、ちゃんと待っとる。でも今は、ただの赤ん坊でええねん」
サエルの涙が止まった。
ヨシエが笑った。
「——ほら、泣き止んだやん。ええ子や。ほな、寝え」
ヨシエの姿が消える。
サエルは、初めて安心して眠りについた。
✱ ✱ ✱
母親は、よく笑う人だった。
名前はメイラ。港町で干物屋を営む人間の女性。夫——つまりサエルの父親——は漁師のトルド。日に焼けた大きな手で、赤ん坊のサエルを軽々と抱き上げる人だった。
この世界の言葉は、転生と同時に理解できるようになっていた。あのおばちゃん——転生カウンターの相談支援専門員——が気を利かせたのだろう。ただし「理解できる」と「喋れる」は別問題で、赤ん坊の口と舌では言葉を発音できない。歯もないし。
メイラは毎朝、サエルを背負って干物屋の仕事をした。
潮風と魚の匂いが混じった背中。
前世の泉大津の漁港を思い出して、サエルは少しだけ安心した。——匂いというのは、記憶に一番近い感覚だ。
一歳。這い回れるようになった。
家の中を探索した。木造の平屋。質素だが清潔。壁に干し蛸が吊るしてある。泉大津の泉だこを思い出した。
二歳。言葉を話し始めた。このあたりは慎重にいった。前世の記憶があるからといって、いきなり流暢に喋ったら異常だ。片言から始めて、徐々に語彙を増やした。周囲には「この子は言葉が早いねえ」程度に思われていたらしい。
三歳。歩き回れるようになって、初めて家の外の世界をちゃんと見た。
ルミエール王国、潮風区。港町。石畳の坂道に屋台が並び、獣人の漁師が網を干し、ドワーフの職人が船の修繕をしている。人間だけではない。猫耳の獣人、背の低いドワーフ、長い耳のエルフ。色んな種族が、同じ通りを歩いている。
——多種族共生、か。
——まるで道頓堀みたいや。
三歳児の目線から見上げる世界は、活気があって、色とりどりで、道頓堀の人混みと看板のきらびやかさを思い出した。あれほど派手ではないが、人と物が溢れて、熱気がある。
ただ、一つだけ気になるものがあった。
港の荷揚げ場に、大きな灰色の影が何体も並んでいた。
人間より一回り大きな人型。
岩のような身体。
顔に当たる部分はのっぺりとしていて、目も口もない。胸のあたりに淡い光が明滅している。
ゴーレム。
彼らは黙々と、港の荷物を運んでいた。誰も彼らに話しかけない。誰も彼らの名前を呼ばない。荷物と同じように扱われている。
サエルが母に訊いた。「あれ、だれ?」
メイラは一瞬きょとんとして、笑った。
「あれはゴーレムよ。荷物を運ぶの。誰、って——ゴーレムは『誰』じゃないの、『何』よ」
——「誰」じゃなくて「何」。
三歳のサエルは、その言葉を飲み込んだ。前世の遼太郎が、胸の奥で拳を握りしめていた。
✱ ✱ ✱
ガルドに出会ったのは、四歳の春だった。
潮風区の裏路地。
メイラの干物屋の裏手に小さな広場があって、近所の子どもたちが遊んでいた。人間の子が三人、獣人の子が二人。そこに、一人だけ離れて座っている子がいた。
ドワーフの子。サエルと同い年くらい。ずんぐりした体型に、大きな手と短い足。丸い顔に、とんでもなく澄んだ青い目。その子は広場の端っこの石段に座って、自分の膝を両手でぱんぱん叩いていた。一定のリズムで。ぱん、ぱん、ぱん。
——常同行動。
前世の知識が、反射的に動いた。繰り返しのリズム動作。不安の自己調整。感覚刺激の充足。これは——。
「あの子だれ?」
近所の人間の子に訊いた。
「あれガルドやん。ガルドに近づいたらあかんで」
「なんで」
「あいつアホやもん。なんにも喋られへんし、急に怒りよるし。お母ちゃんが言うとった、近寄ったらあかんて」
サエルはその子を見た。ガルド。膝を叩き続けている。ぱん、ぱん、ぱん。他の子たちは最初から、ガルドがそこにいないかのように遊んでいる。
——前の世界と、同じや。
サエルは広場を横切って、ガルドの隣に座った。
少し離れて。正面からではなく、やや斜めに。
ガルドの膝を叩くリズムが、一瞬だけ乱れた。
でもすぐに戻った。ぱん、ぱん、ぱん。
サエルは何もしなかった。隣に座って、同じ方向を見ていた。
五分くらい経った。
ガルドがちらっとサエルを見た。すぐに目をそらした。
もう五分。
ガルドがまたちらっと見た。今度は、二秒くらい見ていた。
サエルは自分の膝を、ぱん、と叩いた。一回だけ。
ガルドの目が丸くなった。
ぱん、ぱん、ぱん。ガルドが叩く。
ぱん。サエルが返す。
ぱん、ぱん。ガルドが叩く。
ぱん、ぱん。サエルが返す。
ぱんぱんぱん。ガルドが速くなる。
ぱんぱんぱん。サエルも合わせる。
ガルドが、くしゃっと笑った。
声にならない声で、「あはっ」と笑った。
澄んだ青い目が、三日月みたいに細くなった。
——この子や。
三十五年分の記憶を持った四歳児は、その瞬間に確信した。
この世界に来た意味は、きっとこういうことなのだと。
「サエル。俺の名前」
ガルドは答えない。
でも膝を叩くのをやめて、サエルの顔をじっと見ていた。
それが、始まりだった。
✱ ✱ ✱
その夜、サエルは布団の中で考え込んでいた。
ガルドのこと。あの子は、前世で出会った利用者さんたちと同じだ。
言葉が少ない。周りから「アホ」と言われる。
でも、ちゃんと感情がある。ちゃんと笑う。ちゃんと悲しむ。
——でも、俺はまだ四歳や。何もできへん。
焦燥感が募る。前世では、三十五歳の大人として、資格も経験もあって、それでもやれることに限界があった。今は四歳。子ども。何もできない。
「——ええ子、見つけたやん」
ヨシエの声が、脳内に響いた。
視界の端に、光の人影。転生カウンターのヨシエが、サエルの枕元に座っていた。
「ヨシエさん」
「あの子、ガルド言うんか。ええ子やな」
「でも、俺、まだ子どもやから。何もしてあげられへん」
「何もせんでええよ」
ヨシエは笑った。
「あんた、隣におったやろ。それだけでええねん」
「それだけで?」
「そや。あの子、ずっと一人やったんやろ。誰も隣に座ってくれへんかった。でもあんたは、座った。それだけで、あの子は嬉しかったはずや」
サエルは黙った。
ヨシエが続ける。
「——サエル。あんたは今、四歳や。四歳の子どもがやることは、友達になることや。制度を変えることでも、施設を作ることでもない。ただ、隣におったったらええねん」
「隣に、おる」
「そや。それが、今のあんたにできる、一番大事なことや」
ヨシエの姿が薄くなっていく。
「——あの子のこと、大事にしたりや。ほな、おやすみ」
サエルは、静かに目を閉じた。
——わかった。今は、ただ隣におる。それでええんや。
✱ ✱ ✱
ガルドは喋れないわけではなかった。
単語なら言える。「めし」「いや」「あっち」。二語文はほとんど出ない。
でも、表情は豊かだった。嬉しいときは全身で跳ねる。嫌なときは両手で耳を塞ぐ。怖いときは身体を丸めて、膝をぱんぱん叩く。
サエルには全部読めた。
前世で十五年かけて磨いた技術が、四歳の身体でもちゃんと動く。
ガルドの表情、身体の動き、視線、呼吸。言葉がなくても、ガルドが何を感じているかはわかった。
問題は、サエル以外の誰もそれを読もうとしないことだった。
ガルドの母親は、ドワーフの鍛冶職人の妻だった。
ガルドのことを愛してはいたが、どう接していいかわからない、という顔をしていた。
ガルドが癇癪を起こすと、ただ遠くから見守るしかできない。「この子はこういう子やから」。それが口癖だった。
近所の大人たちは、ガルドを「鍛冶屋のアホの子」と呼んでいた。面と向かってではない。ガルドの聞こえないところで。——いや、聞こえないと思っているだけだ。
ガルドには全部聞こえている。サエルにはそれがわかった。ガルドが帰り道に、唐突に耳を塞いで立ち止まることがあった。誰かの笑い声が聞こえた後に。
「ガルド」
サエルは隣に並んで、歩く速度を合わせた。
「めし、食いに行こ」
ガルドは耳を塞いだまま、でも足は動いた。サエルの歩く速度に合わせて。
メイラの干物屋の裏で、二人で干し蛸をかじった。ガルドは蛸が好きだった。蛸を食べているときは、絶対に耳を塞がない。
✱ ✱ ✱
六歳になった。
サエルの世界は広がった。潮風区を出て、王都ルミエールの街並みを見るようになった。
メイラに手を引かれて市場に行くと、港町とは違う空気があった。石造りの大きな建物。馬車が行き交う大通り。貴族の子どもたちが、仕立てのいい服を着て歩いている。
市場の片隅で、サエルは初めて「それ」を見た。
ゴーレムが、鎖に繋がれていた。
首輪と鎖。荷車に繋がれて、荷物と一緒に並べられている。
売り物だった。商人が声を張り上げている。
「ゴーレム、安いよ! 力仕事に最適! 壊れたら捨てればいい!」
ゴーレムの胸の光は、弱々しく明滅していた。
——「壊れたら捨てればいい」。
サエルの中の遼太郎が、静かに怒った。前世の日本でも、昔は同じことが言われていた。障害のある人を「使えないなら捨てろ」と。施設に閉じ込めて、社会から見えなくして。
「おかん」
「ん?」
「あのゴーレム、なんで鎖ついてるん」
「売り物やからよ。逃げんようにね」
「逃げたいんかな」
メイラはきょとんとした。
「逃げたいとか、そういうのはないんよ。ゴーレムやから。考えたりせえへんの」
サエルは黙った。
考えないわけがない。
あのゴーレムの胸の光が弱々しいのは、怯えているからだ。
でも六歳の子どもが「ゴーレムにも感情がある」と主張したところで、誰も聞かない。
——これが、この世界の「当たり前」なんや。
✱ ✱ ✱
ガルドとの毎日は、楽しかった。
二人の遊びは独特だった。
ガルドは言葉でのコミュニケーションが苦手な代わりに、手先がびっくりするほど器用だった。
ドワーフの血だろうか。石ころを積み上げて塔を作ると、他の子には真似できないほど高く、美しく積む。その集中力がすさまじかった。
他のすべてが消えたかのように、石と向き合っている。
サエルはそれを邪魔しなかった。ただ隣で見ていた。
時々、ガルドが「見て」というふうにサエルをちらっと見る。サエルが「おお、すごいやん」と言うと、ガルドは全身で跳ねて喜んだ。
——これが「支援」の原点や。
何も特別なことはしてへん。ただ隣にいて、その人のことを見て、その人がやりたいことを邪魔せん。それだけ。
他の子どもたちは、ガルドに近づかなかった。
「急に怒る」「何を考えてるかわからない」「気持ち悪い」。
大人たちの偏見が、そのまま子どもに伝染していた。
ある日、人間の子が三人、ガルドの石の塔を蹴り倒した。
ガルドが声を上げた。言葉にならない叫び。両手で耳を塞いで、身体を丸める。
蹴った子が笑う。
「ほら、やっぱりアホや。泣いとる泣いとる」
サエルは四歳の小さい身体で、その子たちの前に立った。
「なあ」
「なんや、サエル」
「あの塔、何段あったか数えとったか」
「は?」
「三十二段や。お前ら、石を三十二段積めるか?」
沈黙。
「積めへんやろ。俺も積めへん。あれはガルドにしかできんことや。それを蹴り倒すってことは、お前らは自分にできへんことをやれる人間を潰したってことやぞ」
六歳にしては理屈っぽすぎる物言いだった。前世の三十五年分が漏れ出ている。子どもたちは気圧されて、ぶつぶつ言いながら去っていった。
サエルはガルドの隣に座った。斜め横。いつもの距離。
ガルドは耳を塞いだまま、ぱんぱんと膝を叩いていた。
サエルは自分の膝を叩いた。ぱん。
ガルドの膝を叩くリズムが、少しだけ遅くなった。
ぱん、ぱん。ガルドが叩く。
ぱん、ぱん。サエルが返す。
ぱんぱんぱん。速くなる。
ぱんぱんぱん。合わせる。
ガルドが、くしゃっと笑った。四歳のときと同じ顔。澄んだ青い目が三日月になる。
二人で石の塔を、最初から積み直した。今度は三十四段まで積めた。
✱ ✱ ✱
十歳。
ガルドに変化が起きた。
身体が大きくなった。
ドワーフの成長は人間より遅いと言われているが、筋肉のつき方は早い。
十歳にして、大人の人間と同じくらいの腕力がある。そして——癇癪の頻度が増えた。
正確には「癇癪」ではない。
サエルにはわかっていた。ガルドは感覚の処理が追いつかなくなると、パニックになる。
市場の喧騒。大きな音。知らない人が急に近づいてくること。予定外のことが起きること。——前世の知識で言えば、感覚過敏とこだわりの強さ。でもこの世界にそんな言葉はない。
周囲は「ガルドがまた暴れた」と言うだけだ。
しかも身体が大きくなった分、パニックのときに周囲のものを壊してしまう。
壁を殴る。棚をひっくり返す。ガルド自身も自分を傷つける。——田中さんと同じだ。
ガルドの父親が、ある日ぽつりと言った。
「そろそろ、鍛冶場には連れていけんようになってきた。危ないからな。——どこか、預かってくれるところはないもんかな」
預かってくれるところ。
この世界にはそんな場所はない。
前世の日本なら、グループホームがある。生活介護事業所がある。相談支援専門員がいる。でもこの世界には、何もない。
「預かる」先がないとどうなるか。サエルは知っていた。
家族が限界を迎えて、本人が路上に放り出されるのだ。
前世の日本でさえ、「入所施設に空きがない」という理由で家族が崩壊するケースは山ほどあった。
この世界では、もっと容赦ない。
サエルはガルドの父に言った。
「俺が一緒におるとき、ガルドは暴れへんで」
「……そうやな。お前がおるときは、確かに落ち着いとる」
「それは魔法でもなんでもないんです。ガルドが何を嫌がるかを知っとるだけです。大きい音があかんとか、知らん人が急に近づくのがあかんとか。それを避けたら、ガルドは暴れません」
ガルドの父は不思議そうな顔をした。
「……お前、十歳やんな?」
「十歳です」
「十歳にしては、えらい賢いな」
——三十五年分の記憶があるからな、とは言えない。
「ガルドのことが好きやから、よく見てるだけです」
これは嘘ではなかった。技術があったとしても、その人のことを好きでなければ、「見る」ことはできない。
✱ ✱ ✱
十三歳。思春期がやってきた。
ガルドの身体はさらに大きくなっていた。
ドワーフの筋骨隆々とした体格。声変わり。——そして。
ある日、ガルドがサエルの手を引っ張って、裏路地の奥に連れていった。人目のないところ。ガルドは自分の股間を指差して、困った顔をした。
「……ああ」
サエルは理解した。
前世で何十回も経験したことだ。
思春期の利用者さんが、自分の身体の変化に戸惑う。
性的な衝動が生まれるが、誰にも相談できない。相談する言葉を持たない人は、もっと孤立する。
「大丈夫や。それは普通のことやで、ガルド」
ガルドは不安そうな顔をしている。
「身体が大人になっていくんや。みんなそうや。恥ずかしいことやないで」
ガルドの顔が少し和らいだ。でもまだ困っている。
——この世界には、この子に「性」について教える仕組みがないんや。
前世の日本でさえ、障害のある人への性教育は不十分だった。
知的障害のある人に性教育をすることへの反発。
「あの人たちにはまだ早い」「教えたら余計に問題が起きる」。
——いつだって「まだ早い」で先送りされて、結局、本人が一人で抱えることになる。
サエルはガルドに、身体の変化について、できるだけ簡単な言葉で説明した。
ガルドにわかる言葉で。急がず、ガルドの反応を見ながら。
ガルドは真剣に聞いていた。言葉の意味が全部わかったかはわからない。
でも「サエルが自分に大事なことを話してくれている」ということは、わかっている顔だった。
帰り道、ガルドがサエルの袖を引っ張った。
「……サエル、ありがと」
二語文。ガルドが自分から名前を呼んで気持ちを伝えたのは、サエルが知る限り、これが初めてだった。
✱ ✱ ✱
十五歳。事件が起きた。
ガルドが、市場で「捕まった」。
ガルドは布屋の店先で、美しい赤い布をずっと触っていた。
感触が好きだったのだ。
ガルドは気に入った手触りのものを、いつまでも触り続ける。
それはガルドにとって世界と繋がる方法の一つだった。
店主がガルドを怒鳴った。
「おい、触るな! 盗む気か、このアホ!」
ガルドがパニックを起こした。
怒鳴り声が引き金になった。
大きな音。予想外の攻撃。両手で耳を塞いで、身体が固まる。——その拍子に、赤い布を握ったままだった。
「泥棒だ! ドワーフのアホが盗みよった!」
市場の衛兵が来た。ガルドは布を握りしめたまま、身体を丸めて震えていた。
衛兵がガルドの腕を掴んだ。
ガルドが恐怖で腕を振った。
衛兵が吹っ飛んだ。
ドワーフの腕力は人間の比ではない。
「暴行だ! 抵抗した!」
サエルが駆けつけたときには、三人の衛兵がガルドを押さえ込んでいた。ガルドは地面に押し付けられ、声にならない悲鳴を上げていた。
「やめてください!」
サエルは衛兵の前に立った。
十五歳の少年の声が、市場に響いた。
「この子は盗んでへん! 布の感触が好きやから触ってただけです! 怒鳴られてパニックになって、手が離れへんかっただけです!」
「なんやお前。こいつの仲間か」
「幼馴染です。この子のことは俺が一番わかっとる。大きい声を出したらパニックが悪化します。衛兵さんたちが今やってることは、この子をもっと苦しめてるだけです」
衛兵たちは顔を見合わせた。
「——頼むから、手を離してやってください。俺が落ち着かせます」
何かが伝わったのか、衛兵たちが少しだけ手を緩めた。サエルはガルドのそばに膝をついた。斜め横。いつもの位置。
「ガルド」
低い声で、ゆっくりと。
「大丈夫や。俺や。サエルや」
ガルドの呼吸が、ほんの少しだけ浅くなった。
サエルは自分の膝を叩いた。ぱん。
四歳の頃からの、二人だけの合図。
ガルドの肩が、少し下がった。
ぱん、ぱん。ガルドが膝を叩く。まだ速い。
ぱん、ぱん。サエルが合わせる。少しだけテンポを落として。
ぱん……ぱん……。ゆっくりになっていく。
五分後、ガルドは赤い布を自分から手放した。
衛兵は結局、ガルドを連行しなかった。
サエルが店主に謝り、布の代金を払い(メイラに借りた小遣いの全額だった)、ガルドを連れて帰った。
帰り道、ガルドはずっとサエルの袖を握っていた。
サエルは怒っていた。ガルドにではない。この世界に。
——誰も悪くないんや。
ガルドは布を盗もうとしたわけやない。
店主も自分の商品を守ろうとしただけや。
衛兵も仕事をしただけや。
でも、誰も「なんでこうなったか」を考えようとせえへん。
前世の記憶が蘇る。
日本には「触法障害者」という言葉があった。犯罪を犯した障害のある人。
でも「犯罪」と呼ばれるものの中には、ガルドと同じように、障害の特性が原因で起きた行為がたくさん含まれていた。
万引きを繰り返す知的障害のある人。
それは「悪いことをしている」のではなく、「欲しいものの手に入れ方がわからない」だけだったりする。
そして一番怖いのは、ここだ。
——今日は俺がおったから、ガルドは「犯罪者」にならずに済んだ。
でも次は? 俺がおらんときに同じことが起きたら?
支援がなければ、同じことは必ず繰り返される。
ガルドが布を触りたくなる衝動は消えない。
市場に行けばまた触る。
また怒鳴られる。またパニックになる。また「暴行」とされる。
前世の日本でも同じだった。
刑務所を出た知的障害のある人が、支援に繋がらないまま社会に放り出され、同じ行為を繰り返して、また刑務所に戻る。
何度も、何度も。それを「累犯」と呼ぶ。
でも繰り返しているのはその人やない。繰り返させているのは、支援のないこの社会のほうや。
罰を与えても、何も解決しない。ガルドに必要なのは牢屋やない。
「市場に行くときはこうすればいい」「触りたいときはこう伝えればいい」という具体的な支援や。店主にも「この人はこういう特性があるから、こう接してほしい」という情報を伝える人が必要や。
でもこの世界には、その「伝える人」がおらん。
——俺しかおらんのか。十五歳のガキに、そんな責任背負わせるんか。
拳を握りしめた。
——いや。俺一人で背負うんやない。仕組みを作るんや。
サエルはガルドの手を見た。袖を握りしめている、大きな手。
——場所を作ろう。
漠然とした想いが、初めて形を持った瞬間だった。
ガルドのような人が、「アホ」でも「泥棒」でもなく、ただ「ガルド」としていられる場所。
貴族も庶民もドワーフもゴーレムも、ラベルを全部外して、一人の「自分」としていられる場所。
——酒場がええかもしれん。
酒が入れば、人間は本音を喋る。
肩書きを忘れる。
泉州のだんじりの打ち上げの宴会を思い出した。年番の長老も青年団の若い衆も、酔っ払えばみんな同じただのおっさんだ。社長も部下もない。町の名前だけで呼び合う。
——そういう場所を、この世界に作る。
その夜、サエルは一人で海を見ていた。
潮風区の港。波の音。泉大津の港を思い出す。
前世で、何度もここに立って、悩んだ。田中さんのこと、石川くんのこと、利用者さんたちのこと。
——また同じや。今度はガルドのこと。でも俺は、まだ子どもや。何ができる。
「——あんた、また悩んどるな」
ヨシエの声。
振り返ると、光の人影が海岸に立っていた。転生カウンターのヨシエ。湯呑み持って、こっちを見ている。
「ヨシエさん」
「今日のことは見とったで。よう頑張ったな」
「頑張ったって……俺、何もできてへんですよ。今日はたまたまおったから助けられただけで。次、俺がおらんかったら、ガルドは……」
「焦んなや」
ヨシエがサエルの隣に座った。
「あんた、まだ十五歳やで。一人で世界変えようとせんでええねん」
「でも、ガルドが苦しんでるんです。今、この瞬間も」
「——せやな」
ヨシエは海を見た。
「ほな、サエル。今できることを、ちゃんとやれ」
「今、できること」
「そや。あんたは今、十五歳の子どもや。子どもができることは、大人になる準備をすることや。ガルドを助けたいなら、助けられる大人になれ」
サエルは黙った。
ヨシエが続ける。
「——あと五年や。二十歳になったら、店を持て。自分の場所を作れ。そこで、ガルドが安心して暮らせる仕組みを作ったらええ」
「……五年」
「長いか?」
「いや」
サエルは拳を握りしめた。
「五年あったら、できる。ちゃんと準備したら、できる」
「——そうや。それが、今のあんたにできる一番大事なことや」
ヨシエの姿が薄くなっていく。
「焦んなや。あんたには時間がある。前の世界と違って、今度は死なんように気ぃつけや」
「……はい」
「——ほな、頑張りや」
ヨシエの声が消える。
サエルは海を見た。
五年後。二十歳。そのときまでに、ちゃんと準備する。
——場所を作ろう。ガルドが、誰も「アホ」と呼ばれへん場所を。
✱ ✱ ✱
十八歳。サエルは港で働きながら、金を貯めていた。
ガルドは十八歳になっても変わらなかった。
変わったのは周囲の目だった。子どもの頃は「アホの子」で済まされていたものが、身体が大人になるにつれて「危険な愚者」に変わった。
ガルドの父が、ついに言った。
「……もう、家では面倒見きれん」
ガルドの癇癪——本当は癇癪ではなくパニックなのだが——で家の壁に穴が開いた。
鍛冶場の道具をひっくり返した。隣の家から苦情が来た。ガルドの母が泣いていた。
「どこか預かってくれるところ——って言っても、そんなもんないしな」
ガルドの父の声には、怒りではなく、疲弊があった。
十八年間、この社会のどこにも助けがないまま、家族だけでガルドを支えてきた人の声だった。
「俺が引き受けます」
サエルが言った。
「は?」
「ガルドと一緒に暮らします。もうすぐ店を開くんで。——ガルドの居場所は、俺が作ります」
ガルドの父は長い間サエルを見つめて、最後に小さく頷いた。
「……頼むわ」
その声は震えていた。
✱ ✱ ✱
二十歳。
サエルは、潮風区の外れに空き店舗を見つけた。
元は船大工の作業場だった建物。
大きなカウンターになりそうな作業台。
テーブルに使える頑丈な木のベンチ。
天井からは太い横木が渡してあり、
色褪せた縄が巻きつけてある。
だんじりの曳き綱を思い出した。
壁際には何もない棚が並んでいる。床板は軋むが、掃除すれば使える。窓からは潮風が入る。港が見える。
——泉大津の漁港みたいや。
ガルドが隣で、棚の木目を指でなぞっていた。
木の感触が気に入ったらしい。しばらくなぞり続けて、サエルを振り向いた。
くしゃっと笑った。
「ここ」
一語。でもサエルには全部伝わった。
「——せやな。ここにしよか」
名前は決めていた。
『腹割亭』。
腹を割って話す場所。——仮面を外して、本当の自分で、誰かと出会える場所。
開業届を出しに行く前夜。
サエルは空き店舗の中に一人で座っていた。
カウンターになる予定の作業台に肘をついて、周りを見渡す。
——ここから、始まるんや。
でも、不安もあった。本当にうまくいくのか。ガルドを守れるのか。この世界を変えられるのか。
「——やっとここまで来たな」
ヨシエの声。
振り返ると、光の人影がカウンターの向こう側に立っていた。いつもの湯呑み持って、こっちを見ている。
「ヨシエさん……久しぶりですね」
「ほんまやな。五年ぶりか? よう頑張ったわ」
「でも、俺、やれますかね」
サエルは正直に言った。
「前の世界では、グループホームの経営者やったけど、それでも限界があった。利用者さん全員を守りきることはできひんかった。この世界では制度もない、理解もない。——俺一人で、何ができるんやろ」
ヨシエは湯呑みを一口啜って、笑った。
「——あんた、一人やないやろ」
「え?」
「ガルドがおる。これから出会う人たちも、みんなおる」
サエルは黙った。
ヨシエが続ける。
「あんたは『場所を作る人』や。制度を変える人でも、政治家でもない。場所を作って、そこに人が集まって、その人らが勝手に繋がっていく。——それが、あんたのやり方や」
「場所を、作る人」
「そや。やれるかどうかは、やってみなわからん。でも——」
ヨシエがカウンターに手をついた。
「——あんたなら、できる」
サエルの目が、じわりと熱くなった。
「……ありがとうございます」
「礼はええよ。あんたがちゃんとやったら、それでええねん。——あと、ちゃんと寝えよ。また過労死したら、今度は閻魔さんとこ行きやからな」
「気ぃつけます」
ヨシエの姿が薄くなっていく。
「——頑張りや、サエル。あんたは一人やないで」
ヨシエの声が消える。
サエルは店内を見渡した。
まだ何もない空間。
でも、ここに人が集まる。ガルドが笑う。
——一人やない。せやな、ヨシエさん。
開業届を出しに行く道すがら、サエルは空を見上げた。泉州の空とは違う色の空。でも潮風の匂いは、どこか似ていた。
——田中さん。
あの夜の手の温もりを、今でも覚えている。
あの人が求めていたものを、この世界で、ちゃんと形にする。
誰かの手を握りたいと思ったときに、握れる場所を。
誰かの隣にいたいと思ったときに、いられる場所を。
「アホ」でも「愚者」でも「もの」でもなく、ただ自分の名前で呼ばれる場所を。
——ほな、始めよか。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます!
まっとんです。
異世界ファンタジー×障害福祉という、ちょっと変わった組み合わせの物語を書いてみました。
前世で福祉の仕事をしていた主人公が、異世界でハプニングバー『腹割亭』を開いて、身分も種族も関係なく、みんなが対等に過ごせる場所を作っていく——そんなお話です。
いよいよこの章では、主人公サエルとガルドの交流が描かれています。
このガルドというキャラクターは、私が今まで20年間、障害福祉の現場で関わってきた、たくさんの知的障害のある方々との交流を思い出しながら描いています。
一人ひとりの顔を思い浮かべながら、
「あの人はこんな風に笑ってくれたな」
「この人はこういう時、こんな反応をしてくれたな」
そんな記憶を丁寧に紡ぎながら、ガルドというキャラクターを作りました。
**この作品について**
物語の中で主人公が感じたり考えたりしていることは、私自身が障害者支援の現場で実際に考えてきたことをベースにしています。
20年間、重度知的障害や行動障害のある方々と関わってきた中で感じたこと、悩んだこと、「こうあればいいのに」と思ったこと。そういった思いを、異世界という舞台を借りて、ゆっくりと書いていこうと思います。
ただ、「これが正解だ」と押し付けるつもりは全くありません。
支援の形は人それぞれだし、考え方も十人十色です。読んでいて「自分はこう思う」「ここは違うんじゃないか」と感じることもあるかもしれません。
でも、それでいいんです。
むしろ、疑問の種を持ってもらえたら、それだけで嬉しいです。
「障害福祉」って聞くと難しそうに感じるかもしれませんが、専門知識がなくても楽しめるように書いています。「こういう視点があるんだ」「こんな支援の形もあるんだ」と、物語を通じて新しい発見をしてもらえたら幸いです。
気楽に、物語として楽しんでもらえたら一番嬉しいです。
ぜひ、読み進めてください。
**更新予定**
週1回程度は更新できるようにと考えています。
**感想・ブックマークについて**
感想やレビュー、ブックマーク、評価ポイントなど、いただけるととても励みになります!
「ここが面白かった」「このキャラクターが好き」だけでなく、
「ここはこう思う」「この考え方は自分と違う」といった率直な意見も大歓迎です。
一緒に考えながら読み進めてもらえたら、作者として最高に嬉しいです。
誤字脱字の報告も大歓迎です。見つけたらぜひ教えてください。
それでは、次回もお楽しみに!




