おくりびと〜ただし届け先は異世界~
田中さんの手は、いつも温かかった。
殴った直後でも、壁を叩いた直後でも、その大きな手だけは不思議なくらい温かかった。——それが、佐伯遼太郎の三十五年の人生で最後に思い出したことだった。
✱ ✱ ✱
十二月。深夜三時。
枕元のスマホが震えて、遼太郎は布団から這い出した。画面に表示された名前を見て、靴下も履かずに車の鍵を掴んだ。
田中さんがパニックを起こしている。
田中さん。五十三歳。遼太郎が運営するグループホームで、もう十年以上一緒にいる人だ。言葉を話すことはできない。でも笑うと目の端に深い皺ができて、それが夕陽みたいにくしゃっと広がる。
カレーの日は朝から機嫌がよくて、食堂の椅子に座ってずっと足をぱたぱたさせている。
遼太郎が「田中さん、今日カレーやで」と言うと、声にならない声で「ああ」と返す。それだけで、二人とも笑う。
その田中さんが、自分の頭を壁に打ちつけていた。
岸和田から泉大津のグループホームまで、車で十五分。
駆けつけたとき、夜勤の若いスタッフ——入って半年の石川くん——が、田中さんの腕を掴んで止めようとしていた。
田中さんが暴れたのではない。田中さんは自分を傷つけていた。額から血が出ている。
遼太郎はまず、石川くんの肩に手を置いた。
「ええよ、離して。大丈夫やから」
石川くんの手が震えている。
当然だ。目の前で人が血を流しているのに「何もするな」と言われているようなものだ。
遼太郎だって、二十歳の頃はそうだった。止めなきゃ、抑えなきゃ、と必死になった。十五年かかって、やっとわかった。止めても、抑えても、何も解決しない。
遼太郎は田中さんから二メートルほど離れた場所に、静かに腰を下ろした。
真正面ではなく、斜め横。目は合わせない。身体の向きだけで伝える——「あなたと戦うつもりはない」「ここにいるだけだ」。
石川くんが不安そうに訊いた。
「佐伯さん、何もしなくていいんですか」
「うん。今は、何もせえへんのが一番大事や」
田中さんが壁を叩く音が、暗い廊下に響く。どん、どん、どん。間隔は短い。
遼太郎は待った。
十年の付き合いで知っている。田中さんが自分を傷つけるのは、決まって長い夜だった。スタッフの交代が多かった日。馴染みの顔がいなかった日。シフト表を後で確認すれば、おそらくこの日の夜勤は田中さんにとって「知らない人」ばかりだったはずだ。
二十分。壁を叩く間隔が少しずつ長くなる。
遼太郎はゆっくりと、右手を膝の上に置いた。掌を上に向けて、指を軽く開いたまま。
差し出しているのではない。
ただ、そこに手がある。触れたければ触れられるし、触れたくなければそのままでいい。
選ぶのは田中さんだ。——掌を下に向ければ「こちらが主導権を持っている」ことになる。上に向ければ「どうぞ、あなたが決めてください」になる。
田中さんの視線が、その手に止まった。
壁を叩いていた拳が、降りてくる。震えている。
大きな手が、遼太郎の掌に重なった。ごつごつした、節くれだった指。爪の間に壁を叩いた血がにじんでいる。その手が、遼太郎の指を一本ずつ確かめるようにして、ゆっくりと握りしめた。
握り返す。同じ強さで。
——ここにおるで。
そのまま、一時間半。
田中さんは遼太郎の手を握ったまま、少しずつ壁から身体を離して、最後は遼太郎のほうに寄りかかるようにして眠った。寝息が規則正しくなっていく。大きな身体は重たくて、遼太郎の左肩がじんじんと痺れた。
石川くんが毛布を持ってきてくれた。田中さんの肩にかけて、遼太郎は小さく「ありがとう」と言った。
わかっていた。
田中さんは、寂しかったのだ。
誰かの手を握りたかった。誰かの温もりを感じたかった。
それだけのことだ。それだけのことが、この人には何年も叶わなかった。
毎日「穏やかに過ごせました」と記録されていた日々の裏側で、この人はずっと、人の温もりに飢えていた。
——人に触れたい、という気持ち。それは人として当たり前のことやろ。なんでそれが「問題」になるんや。
十五年間、ずっと考えていた。
答えは出ない。
いや、答えはわかっている。この業界が、この社会が、障害のある人の「人として当たり前の欲求」に蓋をしているだけだ。
俺が仕組みを変えなあかん。
田中さんが寂しいときに、ちゃんと誰かの手を握れるような仕組みを——
夜明け前。田中さんをベッドに戻し、石川くんに引き継いで、遼太郎は車に乗った。
✱ ✱ ✱
午前五時過ぎ。国道二十六号線を南へ走る。
十二月の夜明け前、空はまだ暗い。泉大津の港が近づくと、冬の海から吹きつける北風がフロントガラスを揺らした。暖房の風がぬるい。ラジオからは天気予報。
信号が赤に変わり、車が止まった。
ハンドルを握る右手の掌に、まだ田中さんの手の感触が残っている。
——あの人は、ただ握り返してほしかっただけなのだ。
次の信号が青になったのが見えた、気がした。
しかし、アクセルを踏む足が動かない。あれ、と思った。左腕がしびれている。胸の奥に、鈍い圧迫感。
——ちょっと待て。
視界の端がぼやける。ハンドルに額がつく。田中さんの手の温もりが、指先から消えていく。
走馬灯、というやつだろうか。
脳裏に、だんじりの音が鳴った。
九月の岸和田。カンカン場の交差点。「ソーリャ、ソーリャ」の掛け声。数百人が法被と捩り鉢巻で綱を曳く。鉦と太鼓と笛の囃子が腹の底から突き上げてくる。四トンの地車が街角を全速力で駆け抜け、やりまわしで直角に曲がる。大工方が大屋根で団扇を翻す。
十月の泉大津。濱八町の上だんじりが、勢いをつけてもう一台に突っ込んでいく。カチアイ。腹にズンとくる衝撃。町のみんなが声を上げている。
子どもも年寄りも、町のみんなが綱を曳く。排除される者はいない。
——俺がやりたかったのは、あれと同じことやったんやけどな。
——ああ、あかん。これ、あかんやつや。
泉州の冬の風は、その夜も冷たかった。
✱ ✱ ✱
最初に思ったのは、「あの世にも蛍光灯あるんか」だった。
目を開けると、一面の白。天井も壁も床もない、全方位的な白い空間。自分の身体はある。手を見ると——さっきまでハンドルを握っていた手。五本の指。爪。手首。
「——あら、起きた? 寝とったらあかんで、働きすぎで死ぬような人は、死んでもよう寝るもんやね」
大阪のおばちゃんがいた。
正確には、大阪のおばちゃんみたいな雰囲気の、性別も年齢も判然としない光の存在だった。
体の輪郭が淡く発光していて、天下茶屋の商店街の立ち飲み屋の女将を思わせる。手には湯呑み。何かを啜っている。
名札が見えた。
『転生カウンター ヨシエ』。
「ここ、どこです」
「転生カウンター。番号札とかないから安心して。あんたしかおらんし」
「転生……」
「あんた、死んだんよ」
「…………は?」
「『は?』やあらへん。働きすぎで心臓発作。三十五歳。車ん中で心臓止まったん。お気の毒さま」
全くお気の毒と思ってない口調だった。湯呑みを啜る音がずず、と響く。
記憶が蘇る。信号。左腕のしびれ。ハンドルに額がついた感触。田中さんの手の温もりが——。
「……マジか」
「マジ。ちなみに車は電柱にぶつかったけど、歩行者は巻き込んでへんから安心して」
「それは……よかった」
「で、あんたには特別にチャンスあげるわ。別の世界でもう一丁やれるで」
「異世界転生ですか」
「おっ、話が早い。ラノベ読んどったん?」
「……利用者さんの部屋の本棚に置いてあったのを少し」
「ほな話は早いわ。あんたにはな、別の世界で赤ん坊からやり直してもらう」
「赤ん坊から」
「そう。あんたの記憶も知識も全部持ったまま、新しい命として生まれ変わる。誰かの身体を乗っ取るわけやないで。ちゃんとお母さんのお腹から出てくるとこからや。おぎゃあ、って」
「三十五年分の記憶持った赤ん坊て、相当きしょいですよ」
「知らんがな。あんたの事情やろ」
ひどい。
ヨシエは湯呑みを置いた——どこに置いたのかは不明だ、白い空間にテーブルはない——、遼太郎の顔を覗き込んだ。
「で、その世界にはな。あんたがおった世界の『福祉』っていう考え方が、ないんよ」
遼太郎の目の色が変わった。
「ない——」
「ない。困っとる人は困っとるまま。身体が動かん人も、言葉を持たん人も、みんなおるけど、誰も助けようとせえへん。『そういうもんや』で済まされとる」
遼太郎は黙った。
福祉がない世界。
それは田中さんのような人が、一生誰の手も握れない世界ということだ。
寂しくて壁を叩いても、「うるさい」と押さえつけられるだけの世界。
人に触れたいと思っても、それが「おかしなこと」として処理される世界。
「……なかなかしんどい世界やな」
「やろ? だからあんたに行ってもらうんよ。あんたがやることは、向こうの人には魔法みたいに見えるかもしれんけどな——」
「俺がやってることは、魔法でもなんでもないです」
十五年間、同じことを言い続けてきた。
「ただ相手を見て、聴いて、考えとるだけです。それは技術や。誰でも学べるもんです」
ヨシエは少し寂しそうに、少し嬉しそうに笑った。
「——そういうとこやねん、あんたが選ばれた理由」
遼太郎の胸に熱いものが込み上げた。が、一つだけ訊かなければならないことがあった。
「田中さんは」
「ん?」
「田中さんは、どうなります。俺がおらんくなって。あの人の手を握る人は」
ヨシエは、一瞬だけ黙った。
「あんたの施設に、若い子おるやろ。石川くん、やったか。夜勤で震えとった子」
「……うん」
「あの子がな、あんたが田中さんにしてたこと——斜めに座って、手のひら上に向けて、待つこと。あれを全部見とったんよ。あんたが遺したもんは、ちゃんと伝わっとる」
遼太郎の目が、じわりと熱くなった。
「……そうか」
「せやから、次の世界でも同じことしたらええねん。目の前の人を見て、聴いて、待つこと」
「はい」
「——あと、向こうではちゃんと寝りや。また過労死したら、次は転生カウンターやなくて閻魔さんのとこに回すからな」
「閻魔さんおるんかい」
「さあ。試してみるか?」
「遠慮しときます」
白い空間がぐにゃりと歪み始めた。
遼太郎は最後に訊いた。
「あんた、何者なん」
「そやなあ——あんたの世界の言葉で言うたら、『相談支援専門員』みたいなもんかな。困っとる人を適切なサービスに繋ぐ仕事」
遼太郎は声を出して笑った。
「相談支援専門員か。ほな、サービス等利用計画書は?」
「そんなもんないわ。予算つかんし」
ヨシエの笑い声が遠くなる。
世界が白く弾けた。意識が沈んでいく。
最後に残ったのは、田中さんの手の温もりだった。
——第一章「泉州の子」へ続く——
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
プロローグでは、主人公・佐伯遼太郎の前世と転生を描きました。
田中さんとの関わり、そしてヨシエとの出会い。
ここから物語が動き出します。
次回、第一章「STAND BY ME ガルド」では、
サエルが幼馴染のガルド(知的障害のあるドワーフ)と出会い、
「場所を作る」ことを決意するまでを描きます。
この作品は、私自身が障害福祉の現場で感じてきたことを
異世界ファンタジーという形で表現したものです。
少しでも楽しんでいただけたら嬉しいです。
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次回もお楽しみに!




