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「ベール、隣国のアサイアに行くのはいつだったかね?」


研究室にふらりと入ってきたのは、数少ないベールの上司、老齢の男性ガバナだった。

雷の研究を専門とする自然学の教授で、専攻はまるで違うが、妙に気の合う仲間の一人である。


「ああ、ガバナか。明後日の朝からだな」


ベールは振り返りもせず、怪しい色合いの液体に、さらに別の液体を慎重に流し込みながら答えた。


「もう準備は……」


言いかけて、ガバナは部屋をぐるりと見回し、深いため息をつく。


「……できているわけがないか。お前の弟子も見当たらんし、どうするつもりだ?」


「ああ、ヘーゼルは竜の谷に新婚旅行中だからな・・・・・・さて、どうするか・・・・・・」


そう言いながらも、ベールの声には切迫感の欠片もなかった。


「私の助手を回そうか?」


「・・・・・・ありがたいが遠慮する。お前の助手に入られたら、この辺のものを全部『不要物』扱いで捨てられそうだ」


「ふむ。確かに私の弟子は、やりかねんな」


苦笑いしながら、ガバナはもう一度、実験器具と書類と謎の瓶が混在する室内を見渡す。


「その辺の空いている椅子に腰かけてくれ。今、茶でも出す」


そう言ってから、ベールは初めて振り返り、ガバナの姿を認めた。


「いや、茶はいい。それより……」


ガバナは少し声を落とす。


「今回は、陛下の親善訪問に付き添ってアサイアへ行くのだったな?」


「んーー?ああ、そう言ってたな・・・・・・」


ベールは記憶を探るように視線を宙に泳がせる。


「確か・・・・・・アサイアの薬学院で、アイゼン帝国の薬学知識を教えろ、とかなんとか……」


「『とかなんとか』で済ませる内容ではないと思うがね」


ガバナは呆れ半分、感心半分といった顔で言った。


「向こうの学院長は、かなり力の入った歓迎を用意しているはずだぞ。なんせ、近隣国にはお前の業績は轟いているからな……」


「そうなのか。なら、少しは真面目に荷造りをするか・・・・・・」


そう言いながら、ベールは再びフラスコに視線を戻す。

その様子を見て、ガバナは小さく肩をすくめた。


「……お前の弟子が戻ってきていたら、今頃すべて整っていただろうに」


「それは、間違いないな……」


即答だった。

一瞬だけ、研究室に静けさが落ちる。


「……まあいい。……陛下も一緒なことだし、向こうに行く前にせめて身ぎれいにしていけよ」


「……努力はする」


「はは、努力はするだろうさ。じゃあな、気を付けて……」


ガバナは、ベールのその返事を信じていない顔のまま、手を上げながら苦笑いのまま研究室を後にした。



隣国アサイアへ向かう一行の列に、ベールはほぼ手ぶらで参加していた。


豪奢な馬車が連なり、騎士や従者たちが整然と並ぶ中で、器具の入った布袋を一つ背負っただけのベールの姿は、どう考えても浮いている。


「……ベール」


耐えきれなくなったように声をかけてきたのは、陛下の親善訪問に同行するサキレス・メレドーラだった。


「お前の旅支度は、それで合っているのか?」


呆れと確認が半々に混じった視線が、布袋一つのベールに向けられる。


「ん?ああ、俺はこれでいい」


あっさりと言い切るベールに、サキレスは一瞬言葉を失った。

さすがに荷物が少なすぎる。

思わず声をかけてしまうほどには。


「アサイアでは、お前に教鞭を執ってもらうことになっている。帝国の代表として、少しは見た目というものを考えろ」


「……俺は、望んでないがな」


「陛下のご意向だ」


サキレスは短く言い切った。


「行くと返事をした以上、それくらいは酌んでくれ」


サキレス・メレドーラ。


ベールの生家であるリカルド公爵家と並び、帝国最高位と称される二大公爵家。

その一角、メレドーラ家の現当主であり、『メレドーラの才知』とまで謳われる、陛下の側近の一人だ。


整った身なり、隙のない立ち振る舞い。

一行の中でも、否応なく視線を集める存在である。


そんな男が、布袋一つの研究馬鹿に小言を言っている光景は、周囲から見ればどこか奇妙で、しかし妙に納得のいくものでもあった。


サキレスは、ため息交じりに視線を逸らす。


「向こうで『帝国の薬学の権威』だと紹介されたとき、その格好で立つつもりなのか?」


「まあ、そうだな」


即答だったが、誠実さは感じられない。


「……ああ、そういえば、ヘーゼル嬢は今、こちらにはいなかったな……」


サキレスは『ヘーゼルがいないからか』と納得し、諦めたように肩をすくめると、侍従に小声で何かを指示した。


「仕方ない……こちらで何とかしよう……お前に旅支度を任せた失敗の責任は、俺にある……」


ふうっと一つ息を吐き、完全に腹をくくった様子でその場を後にする。


もちろん、ベールはこのやり取りも織り込み済みだった。

適当に来れば、それを良しとしない誰かが、身の回りの支度をしてくれる。

そういう役回りの人間が、必ずいる。


サキレスの後ろ姿を見送りながら、ベールはわずかに口元を緩めた。


(よし。これで心置きなく、馬車の中で過ごせそうだ)


割り当てられた馬車に乗り込むと、ベールはさっそく布袋を開け、中身を床に並べ始める。


(さて……それじゃあ、黒紫点病の薬の実験でもするか)


出立前からすっかり自分の世界に入り込んでしまったため、馬車が次に止まるまで、ベールは自分がどこを走っているのかさえ把握していなかった。

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