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「は……?お前ベールなのか?」
「ええ、王太子殿下。私です」
静かに、しかしはっきりと答えたその声に、シュバリエは一瞬きょとんとした顔をした。
そして改めて、目の前の人物を頭の先から靴先まで、じっくりと値踏みするように眺め回す。
夜会服に身を包み、背筋を伸ばして立つその姿は、普段の研究室で白衣に埋もれている姿とは似ても似つかない。
視線が最後にベールの顔へ戻ったところで、シュバリエは思わず声を上げた。
「……凄いな。ここまで人が変わると、さすがにわからないな。その見栄えで、リカルド公爵家出身というだけで、社交界では引く手あまただっただろう……」
感嘆半分、からかい半分のその言葉に、ベールは何も返さない。
(私の知らない教授の過去……否定もしないのね……教授が素敵なのは、まあ、あたり前だけど……)
ラリータはチラリと教授の顔を見る。
その沈黙を、シュバリエは特に気にした様子もなく、軽く肩をすくめた。
「……まあ、それはいいとして」
シュバリエはそう前置きすると、今度はにこやかな笑みを浮かべ、ラリータへ向き直る。
「ラリータ嬢。今日こそは、私と一緒にダンスを踊ってくれるな?」
その一言で、ラリータの背筋に緊張が走った。
反射的に、視線が高壇に設えられた玉座へと向かう。
そこには、すべてを見渡すように静かに座るザイル陛下の姿。
(……さすがに、このお誘いを断ったら陛下にご迷惑をかけてしまうわね……ここは、お引き受けするしか……)
小さく息を吐き、覚悟を決めたラリータは、シュバリエの手を取ろうと一歩、前へ出た。
だが、
「シュバリエ殿下、申し訳ないのだが」
低く落ち着いた教授の声が、割って入る。
「ラリータは、一曲目は私と踊る約束をしているので……」
(……はい?)
一瞬、頭が真っ白になる。
(教授が……私と踊る?……待って、約束なんてしていないし、そもそも教授がダンスなんて踊れるわけが……)
思考が追いつく前に、ラリータは慌てて口を開いた。
「あの、教授……私、ダンスぐらい……」
だが、その言葉が終わるより早く、ベールはラリータの手を取り、返事を待つ間も与えず、そのまま色とりどりのドレスが花のように舞うホールへと引いていく。
「えっ、ちょ……!」
小走りになるラリータを気遣う様子もなく……いや、絶妙な歩幅で導きながら、ベールはそのままダンスフロアの中央へ。
次の瞬間、腰に手を回され、自然な流れで間合いが詰められた。
「……っ」
音楽に合わせ、すっと滑り出すように踊り出す。
その動きは驚くほど滑らかで、ラリータを導く手は優しく、迷いがない。
(……教授のダンス……うまいわ!)
驚きと戸惑いに目を瞬かせながらも、身体は自然と音楽に乗せられていく。
(……まあ、そうよね……いつも研究室に籠っているけれど、教授は二大公爵家のご出身……ダンスが踊れないわけ、ないじゃない……)
くるくると、音楽に導かれるまま優雅にホールを巡る。
踏み出す一歩ごとに、裾がふわりと舞い、視界の端でシャンデリアの光がきらめいた。
気付けばラリータの胸には、不思議な高揚感が芽生えていた。
難しいことも、周囲の視線も、王太子の存在さえも、今は、どこか遠い。
ただ、ただ、好きな人とのそのダンスが楽しくて。
導かれるまま身を預け、音楽に身を委ねるうち、
ラリータは自分でも気付かぬうちに、口元に柔らかな笑みを浮かべたまま踊り続けていた。
そのとき、頭上から、低く落ち着いた教授の声が降ってくる。
「ラリータ……このあとのことだが……」
音楽に紛れるほど低い声が、耳元で囁かれる。
「……何があっても、逃げないでほしい……」
「……逃げる?私が、ですか……?」
驚いて見上げると、ベールは視線を逸らしたまま、小さく頷いた。
「……ああ……」
その答えに、ラリータは一瞬きょとんとしたあと、ふっと表情を和らげる。
「ええ。私が、教授から逃げることはございません!」
ダンスの最中だというのに、胸を張って、きっぱりと答えるラリータ。
(教授に一生ついていくことはあっても……逃げるだなんて……ありえないわ!)
その力強い宣言に、ベールの手に、ほんのわずか力がこもったことに、ラリータは気付かなかった。
曲が、ゆっくりと終わりへ向かっていく。
(……教授とのダンスも、もうおしまいなのね……)
胸の奥に、すっと寂しさが滲んだ。
ついさっきまで身体を満たしていた高揚感が、音楽とともに静かにしぼんでいく。
(最後に……とてもいい思い出になったわ……)
ジャンッ。
楽器が、はっきりと終止の音を響かせた。
(……ああ、終わってしまった……)
その瞬間、胸の奥がひやりと冷える。
名残惜しさに、ラリータは思わず視線を伏せかけた。
「ラリータ……」
名前を呼ばれ、顔を上げた、その瞬間。
ラリータの瞳は、これ以上ないほど大きく見開かれた。
ベールが、ラリータの前に跪いていた。
夜会服に身を包んだ長身の男が、迷いなく片膝をつき、その手は離すまいとするように、しっかりとラリータの手を握っている。
見上げてくる深い紫の瞳は、静かで、真剣で、揺るぎがなかった。
何が起きているのか考える暇すらないまま、低く、はっきりとした声が、ホールに響く。
「ラリータ……どうか、私の伴侶になってくれないか……」
ラリータの耳に届いたはずの言葉が、意味を持つまで、ほんの一拍遅れた。
「……え……?」
遠くで、ご令嬢たちの小さな悲鳴やざわめきが起こった気がする。
けれど、ラリータの耳には、もう何も入ってこない。
世界には、目の前の教授の声しか存在していなかった。
「……馬車の中で、君の言葉を封じたのは……私からこれを言いたかったからなんだ……」
握る手に、力がこもる。
「私は今、領地もない、しがない伯爵だ……だが……それでも、君に一生を共にしてほしいと思っている……」
「……教授……」
声が、震える。
胸がいっぱいで、息の仕方さえわからない。
(……だから……さっき、逃げないでほしい、なんて……)
「こんな私でよければ…………。返事を、聞かせてくれないか……」
その一言で、張りつめていた何かが、ぷつりと切れた。
「は……はい……!」
ラリータは、何度も頷く。
「もちろん……もちろんです……!ぜひ……ぜひ、私をお嫁さんにしてください……!」
気づけば、頬を温かいものが伝っていた。
どうして涙が出るのか、わからない。
(私から告白して……振られるとばかり思っていた……そのときは、きっとその想いを胸にしまって……どこかへ嫁ぐのだと……)
次の瞬間、ベールは立ち上がり、ためらいもなく、ラリータを強く抱き寄せた。
周囲の喧噪も、視線も、すべてが遠のく。
耳元で感じるのは、ベールの確かな体温と、落ち着いた息遣いだけ。
自分が今、どういう顔をしているのかもわからない。
ただ……
嬉しい。
胸が、いっぱいで、幸せで、どうしようもなく。
(……教授と……一生一緒にいていいなんて……)
その事実だけが、何度も何度も、心の中で輝いていた。




