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会場に足を踏み入れた瞬間、ざわり、と空気が揺れた。
水晶のシャンデリアが幾重にも輝き、淡い光が大理石の床に反射している。
絹と香水の香り、グラスが触れ合う澄んだ音、弦楽器の旋律が、空間をゆったりと満たしていた。
そして。
一瞬で、視線が集まった。
「……あれは……」
「誰だ? あの方……」
まず、注目を集めたのはベールだった。
夜会服に身を包んだその姿は、
いつも研究室で見る無造作な教授とはまるで別人だ。
整えられた銀髪、背筋を伸ばした立ち姿、静かに歩くだけで、周囲を圧する存在感。
令嬢たちの間から、抑えきれないざわめきが漏れる。
「……美しい男性ね……」
「隣国の『至宝』と言われているアクオス・メレドーラ様なのでは……?」
だが……
彼女たちの視線は、すぐにもう一人へと移る。
「……赤い……髪……?」
ラリータの燃えるような赤髪が、光を受けて揺れた。
淡い色合いのドレスに映えるその色彩は、夜会場のどこにも属さない、鮮烈な存在だった。
男性たちが、思わず足を止める。
「……どこの令嬢だ?」
「……あの色、目が離せないな……」
無遠慮ともいえるほどの視線に、ラリータは思わず身をすくめる。
だが、ベールの腕に触れているその感触が、不思議と彼女を落ち着かせていた。
夜会会場の奥、ひときわ人垣の中心に立つ青年が、
ぴたりと動きを止めた。
「……ラリータ嬢……」
王太子シュバリエだった。
豪奢な装いに身を包みながらも、その視線は、ただ一人、ラリータに釘付けになっている。
驚き、戸惑い、そして、隠しきれない執着。
そのすべてが混じった瞳で、シュバリエはラリータを見つめていた。
「……」
ベールは、シュバリエの視線に気づかぬふりをして一歩前に出る。
わずかに、だが確実にラリータを庇う位置。
その横顔は静かで、冷静で、しかしどこか、張りつめていた。
今夜の夜会は、ただの社交の場では終わらない。
ラリータは、まだ知らなかった。
この夜が、自分の運命を大きく揺らすことを。
「ラリータ嬢!」
その声と同時に、貴族たちがはっとしたように道を開ける。
自国の王太子を通すため、通路は自然と割れた。
その中央を、シュバリエは堂々と歩いてくる。
迷いのない足取りでラリータの前に立つと、彼は嬉しそうに微笑み、彼女の手を取った。
そして、ためらいもなく、その甲にそっと口づけを落とす。
会場が、一瞬でざわりと揺れた。
女性の手にキスをすることは、親愛、あるいは特別な好意を示す行為だ。
少なくとも、誰にでも許されるものではない。
ラリータは、その意味を理解した途端、体が強張るのを感じた。
だが……
その手を、横から強引にさらうように引き寄せた者がいた。
「……誰だ、お前は……」
シュバリエの低く、押し殺した声が響き、一瞬で辺りがヒヤリとする。
シュバリエは不快そうに眉をひそめ、ラリータの隣に立つ男を見やる。
夜会服に身を包み、堂々とラリータを庇うその姿に、見覚えがないのだろう。
シュバリエは、まさか、これがベールだとは気付いていないようだ。
シュバリエの背後で控えていたキーンが、目を見開き、小さく呟いた。
「……ベール?」
その一言に、周囲の空気がさらに張り詰めた。




