3
「ベール、教授の就任おめでとう」
「お祖母様、ありがとうございます」
ベールが今、静かに腰を下ろしているのは、母方のケベック伯爵家の食堂だった。
ケベック伯爵家は、広大な領地を持つわけでもなく、潤沢な財を誇るわけでもない。
貴族と名乗るには、正直ぎりぎりの暮らし向き……それが実情だ。
だが、それでも。
この家には、リカルド公爵家にはなかったものがある。咎める視線も、陰険な虐げもない。
今のベールにとって、ここは間違いなく心から安息できる、温かな家だった。
「大したことはできないけれど、お祝いに、あなたの好きなものを準備したのよ。さあ、テーブルに着いて」
母の、母。
つまり、ベールにとって祖母にあたるメレンダは、ふんわりと優しく笑う。
その穏やかな雰囲気は、どこか母に似ていた。
「ベール、本当に良かったのか?うちなんかの跡取りだなんて……」
「お祖父様、何度も申し上げていますが、私はそれが良かったのです。おかげで今、こうしてお祖父様とお祖母様と一緒にいられる。私はとても幸せですよ」
ベールは祖父カーチスを安心させるように、にこりと微笑んだ。
「……だが……やはり、お前のためにもリカルド公爵家の名の方が……」
カーチスが言い終わらないうちにベールは言葉を被せる。
「お祖父様、私はケベック伯爵家を誇りに思っています。いずれリカルド公爵家は兄上が継ぐでしょう。そこに私のような存在がいれば、家督争いで命を狙われかねません。ならば、早々に身を引く方が賢明です」
「……マリフィも、そうは言ってはいたが……」
「余計な火種は撒かない方がいいのです。私は、このケベック伯爵家があり、とても幸せなのです。これからは私も伯爵家の一員として、お祖父様やお祖母様が困らないようにしていきます」
「まあ、ベール。何度も言うけれど、私たちはいいのよ。今のままで十分満ち足りているわ。だからこれからは、あなたが自分で稼いだお金で、自分のために、心から楽しく生きてちょうだい」
カーチスもメレンダも、心からベールの教授就任を喜んでくれていた。
……実は二人には伝えていないことがある。
今回の教授就任と同時に、帝国の機関である調査部でも働くことになっていたのだ。
調査部での任務は、王太子直々の命令だった。
学園で学生として学ぶ間に、ベールは幾つもの研究成果を上げてきた。
本人としては、ただ探究心の赴くままに没頭した結果にすぎなかったが、それらは知らぬ間に国益に繋がっていたらしい。
王太子から打診を受けた際、面倒だと何度も断った。
だが王太子は公爵家へと根回しをし、結果として母からの「お願い」を無下にすることができなかった。
ベールにとってリカルド公爵家は、すでに距離を置いた存在だった。
だが……母だけは、別だ。
母は今もなお、公爵夫人としてあの家にいる。
ベールが色々やらかした時、公爵と激しく衝突したはずだ。
自分の立場が悪くなると分かっていながら、それでも息子のために頭を下げたのだろう。
そう思うと、完全に無視することなど、ベールにはできなかった。
だからこそ、彼は正面から拒絶する道を選ばなかった。
ベールは、学園高等科に通い始めてすぐに、ことを起こした。
ベールが学園で起こした一連の『事故』は、突発的な暴走でも、未熟さゆえの失敗でもない。
最初から、狙っていた。
公爵家を継がない。
そのためには、優秀すぎても、従順すぎてもいけなかった。
「神童」として期待されればされるほど、公爵家という檻は、より強固になる。
ならば……厄介者になるしかない。
ベールは、学園の高等科に通い始めると同時に、意図的に実験事故を起こし始めた。
学園の実験室での爆発。
薬品棚の全壊。
実験道具の破壊。
どれも怪我人は出さない。
だが、決して無視できない規模。
その『さじ加減』だけは、完璧だった。
一度や二度なら、天才ゆえの失敗として処理される。
だが、それが十回を優に超えれば話は別だ。
修理費と賠償請求は、容赦なくリカルド公爵家へ送られた。
その総額は、いつしか公爵邸がもう一軒建つほどにまで膨れ上がる。
当然、公爵家内部でも問題になった。
これ以上、ベールを公爵家に置いておくのは危険だ。
そう判断されるのに、時間はかからなかった。
そして、その時のために、ベールはあらかじめ『逃げ道』を用意していた。
それが、母方のケベック伯爵家。
領地も財も乏しく、
公爵家から見れば、取るに足らない小貴族。
だが、ベールにとっては、唯一息ができる場所だった。
表向きは、問題児となっ次男を、公爵家から遠ざけるための措置。
実際は、ベール自身が望み、仕組んだ『追放』だった。
こうしてベール・リカルドは、リカルド公爵家の後継争いの舞台から、完全に降りた。
公爵家の名を継がない代わりに、伯爵家の名で生きる道を選ぶ。
それは、逃げではない。
彼が自分の人生を守るために、自ら切り開いた選択だった。
公爵家と完全に手を切ってからというもの、ベールは、何にも縛られることなく、自分の実験に没頭できるようになった。
命令も、期待も、家名の重圧もない。
あるのは、純粋な好奇心と探究心だけだ。
その結果は、あまりにも早く現れた。
教授に就任してから、わずか数年。
ベールは薬学の分野で次々と成果を上げ、気づけばその名は「頂点」と並び称される存在となっていた。
当然のように、リカルド公爵家が黙っているはずもない。
かつて切り捨てたはずの次男の実績を、さも最初から自分たちのものだったかのように扱おうと、あれこれと口を出してきたのだ。
だが、その頃にはもう遅かった。
ベールはすでに、ケベック伯爵家の当主となっていた。
今更、公爵家の名を借りる必要は、どこにもない。
さらに言えば、
王太子殿下も、その才を見逃してはいなかった。
国益となる研究成果を次々と生み出すベールに対し、伯爵家には存在しなかった鉱山が、褒美として下賜されたのだ。
それは名ばかりの恩賞ではない。
実利として、確かな価値を持つものだった。
こうして、かつては「取るに足らない小貴族」と見なされていたケベック伯爵家は、静かに、しかし確実に豊かさを手に入れていった。
ただし、
その変化は、ベールにとって手放しで喜べるものではなかった。
財もあり、地位もあり、そして容姿も整った若き伯爵。
その肩書きは、結婚相手としての価値を一気に引き上げ、気がつけばベールは多くの女性から追いかけられる存在になっていた。
研究に没頭したいベールにとって、それは最悪の事態だった。
視線を集めることも、社交の場に引きずり出されることも、すべてが研究時間を奪うノイズでしかない。
そこでベールは、意図的に自分の外見を放棄した。
もともと整っている顔立ちは、見せれば余計な注目を集める。
ならば、と髪は手入れもせずに伸ばし放題にし、顔が隠れるほどの長さにした。
背丈は高い方だったが、研究机に向かう時間が長すぎて、いつの間にか姿勢も悪くなり、自然と猫背が板についていた。
鏡に映る自分を見ても、
そこにいるのは年齢不詳の、どこか胡散臭い研究者風の人物だ。
だが、
その姿こそが、ベールにとって最高の環境をもたらしてくれた。
余計な視線は減り、
無意味な縁談話も遠のき、
静かで、質のいい研究時間が戻ってきたのだ。
こうして腰を落ち着け、
やがて薬学の頂点に立つ存在とまで称されるようになったベールだが、それでも、どうしても、たった一つだけ、できないことがあった。
それは……
薬草の栽培だった。




