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「ベール、教授の就任おめでとう」


「お祖母様、ありがとうございます」


ベールが今、静かに腰を下ろしているのは、母方のケベック伯爵家の食堂だった。


ケベック伯爵家は、広大な領地を持つわけでもなく、潤沢な財を誇るわけでもない。

貴族と名乗るには、正直ぎりぎりの暮らし向き……それが実情だ。


だが、それでも。


この家には、リカルド公爵家にはなかったものがある。咎める視線も、陰険な虐げもない。


今のベールにとって、ここは間違いなく心から安息できる、温かな家だった。


「大したことはできないけれど、お祝いに、あなたの好きなものを準備したのよ。さあ、テーブルに着いて」


母の、母。

つまり、ベールにとって祖母にあたるメレンダは、ふんわりと優しく笑う。

その穏やかな雰囲気は、どこか母に似ていた。


「ベール、本当に良かったのか?うちなんかの跡取りだなんて……」


「お祖父様、何度も申し上げていますが、私はそれが良かったのです。おかげで今、こうしてお祖父様とお祖母様と一緒にいられる。私はとても幸せですよ」


ベールは祖父カーチスを安心させるように、にこりと微笑んだ。


「……だが……やはり、お前のためにもリカルド公爵家の名の方が……」


カーチスが言い終わらないうちにベールは言葉を被せる。


「お祖父様、私はケベック伯爵家を誇りに思っています。いずれリカルド公爵家は兄上が継ぐでしょう。そこに私のような存在がいれば、家督争いで命を狙われかねません。ならば、早々に身を引く方が賢明です」


「……マリフィも、そうは言ってはいたが……」


「余計な火種は撒かない方がいいのです。私は、このケベック伯爵家があり、とても幸せなのです。これからは私も伯爵家の一員として、お祖父様やお祖母様が困らないようにしていきます」


「まあ、ベール。何度も言うけれど、私たちはいいのよ。今のままで十分満ち足りているわ。だからこれからは、あなたが自分で稼いだお金で、自分のために、心から楽しく生きてちょうだい」


カーチスもメレンダも、心からベールの教授就任を喜んでくれていた。


……実は二人には伝えていないことがある。


今回の教授就任と同時に、帝国の機関である調査部でも働くことになっていたのだ。


調査部での任務は、王太子直々の命令だった。

学園で学生として学ぶ間に、ベールは幾つもの研究成果を上げてきた。


本人としては、ただ探究心の赴くままに没頭した結果にすぎなかったが、それらは知らぬ間に国益に繋がっていたらしい。


王太子から打診を受けた際、面倒だと何度も断った。

だが王太子は公爵家へと根回しをし、結果として母からの「お願い」を無下にすることができなかった。


ベールにとってリカルド公爵家は、すでに距離を置いた存在だった。

だが……母だけは、別だ。


母は今もなお、公爵夫人としてあの家にいる。

ベールが色々やらかした時、公爵と激しく衝突したはずだ。


自分の立場が悪くなると分かっていながら、それでも息子のために頭を下げたのだろう。

そう思うと、完全に無視することなど、ベールにはできなかった。

だからこそ、彼は正面から拒絶する道を選ばなかった。



ベールは、学園高等科に通い始めてすぐに、ことを起こした。

ベールが学園で起こした一連の『事故』は、突発的な暴走でも、未熟さゆえの失敗でもない。

最初から、狙っていた。


公爵家を継がない。


そのためには、優秀すぎても、従順すぎてもいけなかった。


「神童」として期待されればされるほど、公爵家という檻は、より強固になる。


ならば……厄介者になるしかない。


ベールは、学園の高等科に通い始めると同時に、意図的に実験事故を起こし始めた。


学園の実験室での爆発。

薬品棚の全壊。

実験道具の破壊。


どれも怪我人は出さない。

だが、決して無視できない規模。

その『さじ加減』だけは、完璧だった。


一度や二度なら、天才ゆえの失敗として処理される。

だが、それが十回を優に超えれば話は別だ。


修理費と賠償請求は、容赦なくリカルド公爵家へ送られた。

その総額は、いつしか公爵邸がもう一軒建つほどにまで膨れ上がる。


当然、公爵家内部でも問題になった。

これ以上、ベールを公爵家に置いておくのは危険だ。


そう判断されるのに、時間はかからなかった。


そして、その時のために、ベールはあらかじめ『逃げ道』を用意していた。

それが、母方のケベック伯爵家。


領地も財も乏しく、

公爵家から見れば、取るに足らない小貴族。

だが、ベールにとっては、唯一息ができる場所だった。


表向きは、問題児となっ次男を、公爵家から遠ざけるための措置。


実際は、ベール自身が望み、仕組んだ『追放』だった。


こうしてベール・リカルドは、リカルド公爵家の後継争いの舞台から、完全に降りた。

公爵家の名を継がない代わりに、伯爵家の名で生きる道を選ぶ。


それは、逃げではない。

彼が自分の人生を守るために、自ら切り開いた選択だった。


公爵家と完全に手を切ってからというもの、ベールは、何にも縛られることなく、自分の実験に没頭できるようになった。


命令も、期待も、家名の重圧もない。

あるのは、純粋な好奇心と探究心だけだ。


その結果は、あまりにも早く現れた。


教授に就任してから、わずか数年。

ベールは薬学の分野で次々と成果を上げ、気づけばその名は「頂点」と並び称される存在となっていた。


当然のように、リカルド公爵家が黙っているはずもない。


かつて切り捨てたはずの次男の実績を、さも最初から自分たちのものだったかのように扱おうと、あれこれと口を出してきたのだ。


だが、その頃にはもう遅かった。

ベールはすでに、ケベック伯爵家の当主となっていた。


今更、公爵家の名を借りる必要は、どこにもない。


さらに言えば、

王太子殿下も、その才を見逃してはいなかった。


国益となる研究成果を次々と生み出すベールに対し、伯爵家には存在しなかった鉱山が、褒美として下賜されたのだ。


それは名ばかりの恩賞ではない。

実利として、確かな価値を持つものだった。

こうして、かつては「取るに足らない小貴族」と見なされていたケベック伯爵家は、静かに、しかし確実に豊かさを手に入れていった。


ただし、

その変化は、ベールにとって手放しで喜べるものではなかった。


財もあり、地位もあり、そして容姿も整った若き伯爵。

その肩書きは、結婚相手としての価値を一気に引き上げ、気がつけばベールは多くの女性から追いかけられる存在になっていた。


研究に没頭したいベールにとって、それは最悪の事態だった。


視線を集めることも、社交の場に引きずり出されることも、すべてが研究時間を奪うノイズでしかない。


そこでベールは、意図的に自分の外見を放棄した。


もともと整っている顔立ちは、見せれば余計な注目を集める。

ならば、と髪は手入れもせずに伸ばし放題にし、顔が隠れるほどの長さにした。

背丈は高い方だったが、研究机に向かう時間が長すぎて、いつの間にか姿勢も悪くなり、自然と猫背が板についていた。


鏡に映る自分を見ても、

そこにいるのは年齢不詳の、どこか胡散臭い研究者風の人物だ。


だが、

その姿こそが、ベールにとって最高の環境をもたらしてくれた。


余計な視線は減り、

無意味な縁談話も遠のき、

静かで、質のいい研究時間が戻ってきたのだ。


こうして腰を落ち着け、

やがて薬学の頂点に立つ存在とまで称されるようになったベールだが、それでも、どうしても、たった一つだけ、できないことがあった。


それは……

薬草の栽培だった。

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