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(ラリータは……大丈夫だろうか)
学園の講堂で、薬学を専攻する生徒たちに向けて特別講義を行いながら、ベールは内心で小さく息を吐いた。
若い学生たちは皆、熱を帯びた眼差しでこちらを見つめている。
尊敬と期待。
それが混じった、きらきらとした視線だ。
それに応えるのは慣れている。
薬学の第一人者として、こうして教壇に立つことも、今や珍しいことではない。
「……それで、この配合比を誤ると、薬効は半減することになる。理論だけでなく、現場での判断が重要だ」
淡々と解説しながらも、視線はふと窓の方へ流れた。
青く澄んだ空。
そこに、厚みのある白い雲が、ゆっくりと流れている。
その雲を目で追いながら、なぜか不意に、ラリータの顔が脳裏をよぎった。
(……ラリータは大丈夫だろうか……?)
彼女は聡明だ。
だが、それ以上に、無駄に正直だ。
王太子の相手など、最も向いていない。
(嫌なら嫌と言えばいいものを……ラリータは、そういう場面ほど、変に大人しくなる。辺境伯令嬢という足枷がそうしているのか……)
思考がそこまで及んだ瞬間、ベールは自分で自分に眉をひそめた。
(……心配しすぎだ)
ラリータは大人だ。
そう言い聞かせるように、ベールは学生たちに向き直る。
「……質問はあるか?」
数人の学生が一斉に手を挙げる。
真剣そのものの表情だ。
それを見て、ベールはほんのわずかに口元を緩めた。
(……講義中に、ラリータのことを考えるとはな)
それでも、胸の奥に残る微かな引っかかりは消えなかった。
ベールはもう一度だけ、窓の外をちらりと見てから、再び講義を続けた。
結局、ラリータはシュバリエ王太子殿下からの申し出を、きっぱりと断ることができなかった。
曖昧な返事のまま話は終わり、気まずさだけを抱えて、その場を後にすることになる。
(ああ……面倒くさい!!!)
心の中で盛大に叫びながら、彼女は廊下を早足で進んだ。
(どうして、あんな目で見られたのよ……。やっぱり、この赤い髪のせい?それとも……会場で少し目立ちすぎた……?)
はあ~……。
思わず深いため息がこぼれ、足が止まる。
顔を上げて周囲を見渡すと、そこはベールのためにあてがわれている研究室の前だった。
薬草を乾燥させた独特の香りが、扉の隙間からほのかに漂ってくる。
壁際には整然と並べられた器具や薬瓶。
その光景を目にしただけで、胸の奥に溜まっていた緊張が、すっと和らいだ。
(……教授が戻るまで、ここで待たせてもらおう)
そう心を決め、室内に入りソファに腰を下ろす。
(頭が痛いわ……。教授に、なんて説明したらいいのかしら……)
天井を仰ぎ、指先で無意識に赤い髪をくるくると弄ぶ。
(私は、ただ……教授と一緒にいられる時間を、大切にしたかっただけなのに……)
その思考は、次第に輪郭を失い、ぼんやりと溶けていく。
ラリータが悶々と考えていると、扉が開いた。
「……ラリータ?」
聞き慣れた低い声に、ラリータははっと我に返る。
振り向くと、そこに立っていたベールは、いつもよりわずかに疲れた雰囲気を醸し出していた。
外套を片手に持ち、唇は気難し気に歪んでいる。
ラリータは慌ててソファから立ち上がり、軽く頭を下げた。
「お帰りなさい、教授!」
「……どうしたんだ?……」
訝しげに問いながら、ベールは荷物をテーブルに置く。
「ここで待っているなんて……何かあったのか?」
その視線に、ラリータは一瞬言葉に詰まった。
「いえ……その……」
歯切れの悪い様子に、ベールは小さく首を傾げる。
「……殿下と、何かあったのか?」
低く、張り詰めた声だった。
ベールはすぐさまラリータの煮え切らない返答に何かを察したようだった。
こちらを凝視する教授に、ラリータは観念したように、そっと息を吸う。
「……殿下から、毎日会おうと言われました……」
「……毎日?」
その一言で、室内の空気が一段冷えた気がした。
「陛下にも許可を取る、と……おっしゃっていました……」
「……なぜ?」
短い問いだったが、その裏に滲む苛立ちを、ラリータははっきりと感じ取る。
「……気に入った、と言われました……」
「気に入った?…………そういう事か……」
ベールはしばらく黙り込み、やがて小さく息を吐いた。
「それで、ラリータ。君はどう答えたんだ?」
「……もちろん、ケベック教授の助手として、陛下からお預かりした役割を全うしたい、と返答しました」
「そうか……」
ベールは視線を外し、静かに言葉を選ぶようにしてから、続けた。
「……君が殿下の誘いを嫌でないのなら、時間を取って一緒に過ごしてもいい。ただ、嫌なのであれば……」
「もちろん、嫌ですっ!」
言葉の途中だったベールに被せるように、ラリータはきっぱりと言い切った。
(嫌に決まっているじゃない!……だって、それこそ……少ししか一緒にいられない教授との時間を奪われるなんて……絶対に嫌よ!!)
「……嫌なのか」
「はい。はっきり言って迷惑です。私は陛下の命令で教授の助手になったので、隣国の王族にかまっている暇はありません!」
「構うって……お前……」
ベールは一瞬、ぽかんとした顔をした。
次の瞬間、堪えきれなかったように、腹を抱えて笑い出す。
「はははっ!……やはり、お前は変だな!」
愉快そうな笑い声が研究室に響く。
こんなふうに声を上げて笑う教授を見るのは初めてで、ラリータの胸が、ぱっと明るくなった。
(ガゼット助教授と話している時も楽しそうだったけど……私にも、こんなふうに笑ってくれるんだ……)
「……わかった。では、この件は陛下に話しておこう」
ベールは、まだ笑みを残したままそう言う。
「ありがとうございます……。ぜひそうしていただけると助かります……」
教授の言葉にホッとして、ラリータはやっと笑顔が戻ってきた。
「……ところで教授、これから助手の仕事をしたいのですが、何かやっておくことはありますか?」
「助手の仕事?……そうだな……」
ベールは顎に手を当て、すっと表情を引き締める。
愉快な教授から、いつもの研究者の顔へと戻った。




