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「おい、ベール。今度の休みに、まさか家に帰ろうだなんて思っていないよな?」


廊下を歩いていると、背後から声をかけられた。

その声に嫌な予感を抱いたまま振り向くと、そこには高等科のユージンが、数人の生徒を引き連れて立っていた。


「……兄上……」


兄の顔を認めた瞬間、ベールの表情は強張る。

困ったように、けれど逆らうこともできず、そう呼ぶしかなかった。


「あら、この子が噂のユージンの弟?」


ユージンの隣に立つ派手な化粧をした女生徒が、興味深そうに声を上げる。


「まあ!……すごく顔が綺麗じゃない?まるで女の子みたい!」


その視線は、好奇心というよりも、獲物を品定めするような、不快な光を帯びていた。

その女性にじろじろと見つめられ、ベールの足元がわずかに震える。


ベールは、兄や姉とは違い、他者の視線に慣れないまま育ってきた。

それは生まれつきの性格ではない。


目立つたびに兄や姉から疎まれ、陰で傷つけられることを知っていた母は、なんとか我が子を守ろうとした。

必要以上に人前へ出さず、客の多い場には同席させない。ベールは、いつの間にか「外へ出ない」生活を当たり前として育てられていた。


母親譲りのシルバーグレーの髪に、深い紫の瞳。

色白で、年齢相応の幼さは残っているものの、整った顔立ちは否応なく人目を引く。

だからこそ、余計に……人の視線に晒されることに慣れる機会がなかった。


「確かに、こいつは顔はいいが……」


ユージンが鼻で笑った。


「公爵家とはいえ次男だ。あの家を継ぐのは俺だ。こいつには、受け継ぐものなんて何もない。せいぜい、遊び相手くらいにしかならないだろう」


「ふうん……」


女生徒は楽しげに目を細めた。


「もう少し年齢を重ねたら、とても良い遊び相手になってくれそうね……。よろしくね、ベール」


そう言って、舐め回すようにベールを見る女生徒。

息が詰まりそうだった。

視線を逸らし、なんとか自分の視界から女生徒を外す。


そんなベールの様子を見て、ユージンは満足そうに鼻でせせら笑う。


「それで?」


ユージンが、改めて問いかける。


「ベール。お前、リカルド公爵邸に帰ってくる気か?」


「……いえ」


小さく、しかし、はっきりとベールは首を振った。


「兄上の許可がありませんので……今回は、公爵邸には帰らないつもりです……」


「ハッ!」


ユージンは可笑しそうに吹き出した。


「そうだ、いい子だベール……お前は父上の前に出なくていい。今後もな」


そう言い残し、ユージンはもう一度だけベールを睨みつけると、取り巻きを連れて騒がしく去っていった。


兄の姿が完全に見えなくなるまで、その場を動かなかったベールは、ふっと息を吐く。


(……まあ、こんなものか……)


どうしようもない兄の態度に、呆れたような笑みがわずかに口元に浮かんだ。


先ほどの受け答えや態度は、すべて演技だ。


(あいつらは、自分が人の上に立っていると思わせておけば害はない)


こちらが弱い存在だと見せてやれば、それで大抵の面倒は避けられる。


もっと幼い頃は、確かに兄や姉に恐怖を抱いていた。

だが、医学の道に進んでから、ベールの考え方は少しずつ変わっていった。


ある日の学園の授業で、ベールは誤って強力な毒を精製してしまった。

後に教授から聞いた話では、その毒は、一滴で熊を殺すほどの殺傷能力を持つものだったという。


(一滴で熊が死ぬなら……人間なんて、その半分もいらないだろう……なんだ。人って、こんなにも簡単に死ぬんだな……)


その瞬間、ベールの中から、人に対する恐怖心はきれいさっぱり消え去った。


「ああ……アホな連中の相手は疲れる……」


兄や姉は、学園の高等科ではそれなりに優秀だと評価されているらしい。

だが、ベールにとっては取るに足らない存在だった。


やろうと思えば、ユージンを失脚させることなど容易い。だが、ベールはそれをしなかった。


彼は、薬学を一生の仕事にしたかった。


母のために公爵家を継ぐことも、一度は考えた。

だが、導き出された結論は……『つまらない』。


王家のために尽くすことにも、何の魅力も感じなかった。


(……とはいえ、いつまでも公爵家の名を名乗っているのも鬱陶しいな……)


その頃からすでに、ベールは、どうやって公爵家を出るかを、静かに考え始めていた。

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