第2話 記憶の羽ペン【後編】―書かれなかった現実―
雨の音で目が覚めた。
部屋は薄暗く、カーテンの隙間から差し込む朝の光が灰色に濁っている。
机の上には、黒く染まった《記憶の羽ペン》とノート。
ページの端は擦り切れ、ところどころインクが滲んでいた。
高梨すみれは、ぼんやりとそれを見つめていた。
昨夜、自分が何を書いたのか、はっきりと思い出せない。
ただ、胸の奥がひどく重い。
息を吸うたびに、何かが削れていくような痛みがあった。
「……全部、悪い夢だったらいいのに。」
けれど、スマホを開けば通知が溢れている。
SNSには、大学名と自分の名前を並べた記事がいくつも出ていた。
《学生による研究データ改ざん》
《学歴詐称疑惑》
コメント欄には知らない顔が並び、誰もが“真実”を語っていた。
彼らは私を断罪し、嘲り、憐れんでいた。
(違う……私はそんなことしてない……)
そう思っても、誰も信じてはくれない。
それどころか、私自身が何をしたのかも、もう確信が持てなかった。
◇
パソコンを開いてみても、記録が変わっている。
書いたはずのレポートが、別の文体に置き換えられていた。
指先が震えた。
ファイルを開けば開くほど、知らない自分が書いた文章が溢れてくる。
「こんなの、私じゃない……」
叫んだ声が狭い部屋に響き、壁に跳ね返った。
耳の奥にこだまする“私”の声が、他人のように聞こえる。
(おかしい。どこで間違えたの……?)
頭の奥がずきずきと痛む。
思い出そうとすればするほど、記憶が砂のように崩れ落ちていった。
まるで、何者かに書き換えられているように。
◇
夕方、母親から電話が来た。
「すみれ……どういうこと?ニュースになってるわよ。」
何も答えられなかった。
口を開けば、全部崩れてしまう気がした。
「ねえ、あなた、本当なの?お願い、嘘だって言って。」
その声を聞いた瞬間、喉の奥で何かが弾けた。
「うるさい……! 私は悪くない! 全部、間違ってるのよ!」
自分でも驚くほどの大声だった。
電話の向こうで母が何か言った気がしたが、もう聞こえなかった。
通話を切る。
部屋に静寂が落ちた。
机の上の羽ペンが、青く光った。
――書けばいい。
その声は、もう自分のものなのか分からなかった。
震える手でペンを握る。
“私は正しい。みんなが間違っている。”
“私は努力してきた。だから、報われるべきだ。”
インクが滲み、手の甲まで黒く染まる。
だが、止められない。
書くたびに、現実が遠ざかっていく。
それが快感だった。
“私は評価されている。
私を責める人なんていない。”
涙が頬を伝う。
それが悲しみなのか安堵なのかも分からない。
◇
日が暮れても、彼女は書き続けた。
ノートのページが尽き、メモ帳に移り、壁にまで文字を書いた。
“間違いじゃない”
“私は悪くない”
“世界が嘘をついている”
書くたびに呼吸が荒くなり、インクの匂いが肺に染みつく。
指は黒く、爪の隙間までインクが入り込み、血のように乾いた。
「私が間違ってるわけない……
こんなに頑張ってきたのに……」
独り言は次第に早口になり、笑いに変わった。
鏡に映る自分が、ひどく滑稽に見える。
髪は乱れ、顔は青白く、唇がひび割れている。
それでも筆は止まらない。
(消さなきゃ。全部、消さなきゃ。)
外ではまた雨が降り始めた。
雷の光が部屋を一瞬照らすたび、壁に書かれた黒い文字が浮かび上がる。
“嘘つき”“赦されるべき人間”“真実の私”――
それらの文字が混じり合い、黒い渦になって部屋を覆い尽くした。
ペンの光が、どんどん強くなる。
青から、紫、そして漆黒へ。
「全部、書き換えればいいのよ。
現実なんて、どうせ誰も見ていない!」
笑い声が部屋に響く。
それは確かに自分の声なのに、もう他人のようだった。
◇
いつの間にか夜が明けていた。
雨は止む気配がない。
床は紙くずで埋まり、壁は黒い文字で覆われている。
窓の外が灰色にぼやけて見える。
スマホが鳴っていた。
大学からの通知。
「退学処分に関するご連絡」
(ああ、やっぱり……)
文字を見ているだけで、視界が滲む。
心臓の鼓動が耳の奥で反響する。
全部、終わった。
でも、それでも、まだ消えない。
胸の奥に残る小さな声が囁く。
――書けば、消せる。
私はノートを探した。
どこにもない。
代わりに、白い壁に手をついた。
指が勝手に動いた。
インクのついた指先で、“私は間違っていない”と書いた。
壁が黒く染まっていく。
涙も、汗も、インクも区別がつかなくなった。
あらゆる感情が、溶けて混ざっていく。
「お願い……消えてよ……」
その言葉は、祈りでも懇願でもなかった。
ただ、空気に溶けて消えた。
◇
翌朝、警察が彼女の部屋に入ったとき、
中はほとんど真っ黒に塗りつぶされていたという。
ノートも壁も、床も。
窓さえも、ペンのインクで覆われていた。
そして、机の上には真っ白なページが一冊だけ残されていた。
そこには、一行だけ書かれていた。
――“私はもう、すべてを忘れた。”
◇
……雨の匂いがする。
店の奥、棚の上に新しい本が一冊置かれていた。
古びた背表紙には、青黒い羽の印が刻まれている。
私は手に取り、静かにページを開いた。
そこには、無数の文字がびっしりと書かれていた。
同じ言葉が延々と繰り返されている。
“私は正しい。私は悪くない。”
途中で文字が乱れ、滲み、
やがて真っ黒なインクの塊に変わっていく。
私は指でその跡をなぞり、静かに閉じた。
「……また、一人、記録が増えましたね。」
声に感情はなかった。
ただ、ほんの少しだけ、胸の奥に鈍い痛みが残る。
この《記憶の羽ペン》は、人を傷つけることはない。
ただ、見たくない真実を覆い隠すだけだ。
その代償として――
人は、自分が“何者であるか”を失う。
棚の上の羽ペンが微かに光った。
ペン先から、かすかに黒い雫が落ちる。
それは、雨音のように静かだった。
私は呟いた。
「忘れることで救われるなら、
この世界に苦しむ者はいないはずなんですがね。」
その言葉は、誰に向けたわけでもない。
ただ、店の空気に溶けていった。
外では、相変わらず雨が降っている。
灰色の空の下、誰かがまた傘を差し、
路地裏の小さな看板に目を留める。
「クロノス」
その文字を見上げた人影が、
ゆっくりと扉に手をかけた。
新しい物語が始まる。
それが、また誰かの終わりであるとも知らずに――。




