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第2話 記憶の羽ペン【後編】―書かれなかった現実―


雨の音で目が覚めた。

部屋は薄暗く、カーテンの隙間から差し込む朝の光が灰色に濁っている。

机の上には、黒く染まった《記憶の羽ペン》とノート。

ページの端は擦り切れ、ところどころインクが滲んでいた。


高梨すみれは、ぼんやりとそれを見つめていた。

昨夜、自分が何を書いたのか、はっきりと思い出せない。

ただ、胸の奥がひどく重い。

息を吸うたびに、何かが削れていくような痛みがあった。


「……全部、悪い夢だったらいいのに。」


けれど、スマホを開けば通知が溢れている。

SNSには、大学名と自分の名前を並べた記事がいくつも出ていた。


《学生による研究データ改ざん》

《学歴詐称疑惑》


コメント欄には知らない顔が並び、誰もが“真実”を語っていた。

彼らは私を断罪し、嘲り、憐れんでいた。


(違う……私はそんなことしてない……)


そう思っても、誰も信じてはくれない。

それどころか、私自身が何をしたのかも、もう確信が持てなかった。



パソコンを開いてみても、記録が変わっている。

書いたはずのレポートが、別の文体に置き換えられていた。

指先が震えた。

ファイルを開けば開くほど、知らない自分が書いた文章が溢れてくる。

「こんなの、私じゃない……」


叫んだ声が狭い部屋に響き、壁に跳ね返った。

耳の奥にこだまする“私”の声が、他人のように聞こえる。


(おかしい。どこで間違えたの……?)


頭の奥がずきずきと痛む。

思い出そうとすればするほど、記憶が砂のように崩れ落ちていった。

まるで、何者かに書き換えられているように。



夕方、母親から電話が来た。

「すみれ……どういうこと?ニュースになってるわよ。」


何も答えられなかった。

口を開けば、全部崩れてしまう気がした。


「ねえ、あなた、本当なの?お願い、嘘だって言って。」

その声を聞いた瞬間、喉の奥で何かが弾けた。


「うるさい……! 私は悪くない! 全部、間違ってるのよ!」


自分でも驚くほどの大声だった。

電話の向こうで母が何か言った気がしたが、もう聞こえなかった。

通話を切る。

部屋に静寂が落ちた。


机の上の羽ペンが、青く光った。


――書けばいい。


その声は、もう自分のものなのか分からなかった。

震える手でペンを握る。


“私は正しい。みんなが間違っている。”

“私は努力してきた。だから、報われるべきだ。”


インクが滲み、手の甲まで黒く染まる。

だが、止められない。

書くたびに、現実が遠ざかっていく。

それが快感だった。


“私は評価されている。

 私を責める人なんていない。”


涙が頬を伝う。

それが悲しみなのか安堵なのかも分からない。



日が暮れても、彼女は書き続けた。

ノートのページが尽き、メモ帳に移り、壁にまで文字を書いた。

“間違いじゃない”

“私は悪くない”

“世界が嘘をついている”


書くたびに呼吸が荒くなり、インクの匂いが肺に染みつく。

指は黒く、爪の隙間までインクが入り込み、血のように乾いた。


「私が間違ってるわけない……

 こんなに頑張ってきたのに……」


独り言は次第に早口になり、笑いに変わった。

鏡に映る自分が、ひどく滑稽に見える。

髪は乱れ、顔は青白く、唇がひび割れている。

それでも筆は止まらない。


(消さなきゃ。全部、消さなきゃ。)


外ではまた雨が降り始めた。

雷の光が部屋を一瞬照らすたび、壁に書かれた黒い文字が浮かび上がる。

“嘘つき”“赦されるべき人間”“真実の私”――

それらの文字が混じり合い、黒い渦になって部屋を覆い尽くした。


ペンの光が、どんどん強くなる。

青から、紫、そして漆黒へ。


「全部、書き換えればいいのよ。

 現実なんて、どうせ誰も見ていない!」


笑い声が部屋に響く。

それは確かに自分の声なのに、もう他人のようだった。



いつの間にか夜が明けていた。

雨は止む気配がない。

床は紙くずで埋まり、壁は黒い文字で覆われている。

窓の外が灰色にぼやけて見える。


スマホが鳴っていた。

大学からの通知。

「退学処分に関するご連絡」


(ああ、やっぱり……)


文字を見ているだけで、視界が滲む。

心臓の鼓動が耳の奥で反響する。

全部、終わった。


でも、それでも、まだ消えない。

胸の奥に残る小さな声が囁く。


――書けば、消せる。


私はノートを探した。

どこにもない。

代わりに、白い壁に手をついた。

指が勝手に動いた。

インクのついた指先で、“私は間違っていない”と書いた。


壁が黒く染まっていく。

涙も、汗も、インクも区別がつかなくなった。

あらゆる感情が、溶けて混ざっていく。


「お願い……消えてよ……」


その言葉は、祈りでも懇願でもなかった。

ただ、空気に溶けて消えた。



翌朝、警察が彼女の部屋に入ったとき、

中はほとんど真っ黒に塗りつぶされていたという。

ノートも壁も、床も。

窓さえも、ペンのインクで覆われていた。


そして、机の上には真っ白なページが一冊だけ残されていた。


そこには、一行だけ書かれていた。


――“私はもう、すべてを忘れた。”




……雨の匂いがする。

店の奥、棚の上に新しい本が一冊置かれていた。

古びた背表紙には、青黒い羽の印が刻まれている。


私は手に取り、静かにページを開いた。


そこには、無数の文字がびっしりと書かれていた。

同じ言葉が延々と繰り返されている。


“私は正しい。私は悪くない。”


途中で文字が乱れ、滲み、

やがて真っ黒なインクの塊に変わっていく。


私は指でその跡をなぞり、静かに閉じた。


「……また、一人、記録が増えましたね。」


声に感情はなかった。

ただ、ほんの少しだけ、胸の奥に鈍い痛みが残る。


この《記憶の羽ペン》は、人を傷つけることはない。

ただ、見たくない真実を覆い隠すだけだ。

その代償として――

人は、自分が“何者であるか”を失う。


棚の上の羽ペンが微かに光った。

ペン先から、かすかに黒い雫が落ちる。

それは、雨音のように静かだった。


私は呟いた。


「忘れることで救われるなら、

 この世界に苦しむ者はいないはずなんですがね。」


その言葉は、誰に向けたわけでもない。

ただ、店の空気に溶けていった。


外では、相変わらず雨が降っている。

灰色の空の下、誰かがまた傘を差し、

路地裏の小さな看板に目を留める。


「クロノス」


その文字を見上げた人影が、

ゆっくりと扉に手をかけた。


新しい物語が始まる。

それが、また誰かの終わりであるとも知らずに――。

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