第1話 ポーション【後編】―沈む光の中で―
雨が降っていた。
壁を伝う水音が、まるで心臓の鼓動のように一定のリズムを刻んでいた。
部屋は暗く、カーテンは閉じきっている。
湿った空気に、金属と薬品の匂いが混じる。
机の上の《ポーション製造機》が、ぼんやりと光っていた。
小さな瓶が幾つも並び、その中には青、緑、そして金――
どれも似ているようで、微妙に違う色を放っている。
瓶の底には泡が沸き、ゆっくりと上昇しては弾けた。
その瞬間、部屋全体に甘い香りが広がる。
最初の頃は、その香りを嗅ぐだけで希望を感じた。
今では、ただ焦燥を刺激する匂いにしか思えない。
「もう少しだけでいい。あと一歩……」
震える手で瓶を掴む。
指先に力が入らない。
何度も瓶を落とし、床は乾いた液体の跡で黒ずんでいた。
それでも、手は自然と瓶へ伸びる。
それがもう、呼吸と同じだった。
瓶の栓を開けると、
鼻の奥を焼くような香りが広がる。
かつての澄んだ青は濁り、
金色に近い褐色が、どろりと揺れていた。
「……これで、もう一度やり直せる。」
そう呟きながら、一息に飲み干す。
舌に絡みつくような甘さと苦さ。
喉を通るたびに、熱が身体を駆け抜けていく。
世界が一瞬、白く弾けた。
◇
気づけば、スタジアムに立っていた。
夜の空気が澄み、照明が肌を刺すように眩しい。
何万という観客が俺の名を叫んでいる。
「佐野!」「頼むぞ!」「お前ならできる!」
ボールが足元に転がる。
踏み出す。走る。
蹴る瞬間、時間が止まったように静かになる。
ゴールネットが揺れる。
歓声が爆発する。
仲間が抱きつき、カメラが光る。
「努力は裏切りません。」
マイクに向かってそう言う。
言葉の重みも、意味も感じない。
だが観客は泣き、喝采を上げる。
その波に飲み込まれる感覚が、全身を震わせた。
「……これだ、これでいい。」
この瞬間のために生きている。
そう信じたかった。
◇
時間が止まったように感じた。
いつまでも続く歓声。
しかし、ふと違和感が生まれた。
観客が動かない。
笑っているのに、誰も瞬きをしていない。
誰も口を開けていないのに、歓声が響き続けている。
ピッチの端に、黒い鏡のようなものが立っていた。
反射した光が、まっすぐこちらを刺す。
その中に、自分の姿が映っていた。
顔色は青白く、唇は乾いてひび割れている。
頬はこけ、目の下には深い隈。
ユニフォームの袖から覗く腕は骨のように細い。
鏡の中の俺が、にやりと笑った。
「……誰だ、こいつ。」
声が震えた。
返事はなかった。
ただ、鏡の中の男が一歩、こちらに近づいた。
その瞬間、スタジアムが溶けた。
観客席が崩れ、光が滲み、芝生が床に変わった。
歓声が雨音に変わる。
◇
目を開けると、部屋にいた。
机の上には空の瓶が積まれ、
床には割れたガラスの破片が散らばっている。
壁には擦ったような跡、
爪で引っかいた痕がいくつも残っていた。
呼吸が浅い。
喉が焼けるように痛い。
鏡に映る自分は、ほとんど別人だった。
「……俺、何やってんだ……」
そう呟いても、声はかすれて消えた。
頭の奥で、まだ歓声が鳴っている。
耳の奥で、拍手が響いている。
身体の中を何かが這うような感覚があった。
心臓が脈を打つたび、光が瞼の裏で点滅する。
――まだだ。
――もう一度。
頭の中で、声が囁く。
それが自分のものかどうかも分からない。
机の上の《ポーション製造機》がまた光り始めた。
青く、金に、赤に。
泡が立ち、瓶が満ちていく。
「……あと一度だけだ。」
言い訳のように呟いて、
再び瓶を手に取った。
血の混じった指先で栓を抜き、液体を口に含む。
味はもう、何も感じなかった。
◇
また、スタジアム。
照明がまぶしく、風が頬を切る。
何度目の試合か分からない。
だが、誰も動かない観客の顔は変わらない。
走る。
蹴る。
決める。
笑う。
それだけ。
永遠に続く、勝利の瞬間。
けれど、その笑顔が次第に崩れていく。
顔が溶け、観客が形を失い、
声だけが無限に反響する。
「佐野!」「佐野!」「佐野!」
自分の名が反響し、やがて悲鳴のように響く。
耳を塞いでも止まらない。
「やめろ……やめろ……」
叫んでも、誰もいない。
ピッチは闇に飲まれ、
自分の足元さえ見えなくなっていく。
倒れた。
膝をつくと、芝の感触ではなく、
冷たい床の感触が伝わった。
◇
目を開ける。
雨の音。
濁った光。
床の上には、空の瓶が転がっていた。
指先は痙攣している。
呼吸のたびに胸が軋む。
身体が冷えていくのを感じた。
それでも、頭の中では、
まだスタジアムの歓声が響いている。
――勝った。
――俺は勝ったんだ。
その言葉が、どこか遠くから聞こえた。
まるで誰かが代わりに喋っているみたいだった。
机の上の装置が、
最後の光を吐き出すように点滅した。
瓶の中で、金色の泡がゆっくりと弾け、
消えていった。
◇
そして――
雨の匂いの中、静かな声が響いた。
「幻覚ポーション。自分の望む現実を作り出す器……」
黒いローブを纏った人物――店主は、
棚の奥に置かれた小瓶を指先で撫でた。
その中には、かすかな金の光が揺れている。
「夢の中で勝ち続けることを選んだか。
……それもまた、“幸福”のかたちかもしれませんね。」
声は静かで、どこか遠い。
観測者としての無慈悲さと、
ほんのわずかな哀れみが混じっていた。
「人は救われたいと願いながら、
結局、自ら幻を選ぶ。
魔道具は、それを映す鏡にすぎません。」
指先の光が消え、瓶の中の泡が完全に止まった。
棚の上には、他の無数の魔道具が整然と並んでいる。
どれも、誰かの選んだ現実の残響だった。
店主は小さく息を吐き、
カウンターの上の古い時計に視線を落とした。
針はゆっくりと進み続けている。
「……また、ひとつ終わりましたね。」
その言葉と同時に、
外で雷鳴が鳴り、雨音が強くなる。
路地裏の看板――「クロノス」の文字に水滴が落ちて弾けた。
扉の外では、また誰かが立ち止まっている。
悩みを抱え、雨に打たれながら。
店主は顔を上げ、静かに言った。
「ようこそ、クロノスへ。
あなたの“望み”を、お聞かせください。」
◇
外では、まだ雨が降り続いていた。
現実を洗い流すことも、
誰かの罪を清めることもできない、
ただの雨だった。




