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第1話 ポーション【後編】―沈む光の中で―

雨が降っていた。

壁を伝う水音が、まるで心臓の鼓動のように一定のリズムを刻んでいた。

部屋は暗く、カーテンは閉じきっている。

湿った空気に、金属と薬品の匂いが混じる。


机の上の《ポーション製造機》が、ぼんやりと光っていた。

小さな瓶が幾つも並び、その中には青、緑、そして金――

どれも似ているようで、微妙に違う色を放っている。


瓶の底には泡が沸き、ゆっくりと上昇しては弾けた。

その瞬間、部屋全体に甘い香りが広がる。

最初の頃は、その香りを嗅ぐだけで希望を感じた。

今では、ただ焦燥を刺激する匂いにしか思えない。


「もう少しだけでいい。あと一歩……」


震える手で瓶を掴む。

指先に力が入らない。

何度も瓶を落とし、床は乾いた液体の跡で黒ずんでいた。

それでも、手は自然と瓶へ伸びる。

それがもう、呼吸と同じだった。


瓶の栓を開けると、

鼻の奥を焼くような香りが広がる。

かつての澄んだ青は濁り、

金色に近い褐色が、どろりと揺れていた。


「……これで、もう一度やり直せる。」


そう呟きながら、一息に飲み干す。

舌に絡みつくような甘さと苦さ。

喉を通るたびに、熱が身体を駆け抜けていく。

世界が一瞬、白く弾けた。



気づけば、スタジアムに立っていた。

夜の空気が澄み、照明が肌を刺すように眩しい。

何万という観客が俺の名を叫んでいる。


「佐野!」「頼むぞ!」「お前ならできる!」


ボールが足元に転がる。

踏み出す。走る。

蹴る瞬間、時間が止まったように静かになる。


ゴールネットが揺れる。

歓声が爆発する。

仲間が抱きつき、カメラが光る。


「努力は裏切りません。」


マイクに向かってそう言う。

言葉の重みも、意味も感じない。

だが観客は泣き、喝采を上げる。

その波に飲み込まれる感覚が、全身を震わせた。


「……これだ、これでいい。」


この瞬間のために生きている。

そう信じたかった。



時間が止まったように感じた。

いつまでも続く歓声。

しかし、ふと違和感が生まれた。


観客が動かない。

笑っているのに、誰も瞬きをしていない。

誰も口を開けていないのに、歓声が響き続けている。


ピッチの端に、黒い鏡のようなものが立っていた。

反射した光が、まっすぐこちらを刺す。

その中に、自分の姿が映っていた。


顔色は青白く、唇は乾いてひび割れている。

頬はこけ、目の下には深い隈。

ユニフォームの袖から覗く腕は骨のように細い。


鏡の中の俺が、にやりと笑った。


「……誰だ、こいつ。」


声が震えた。

返事はなかった。

ただ、鏡の中の男が一歩、こちらに近づいた。


その瞬間、スタジアムが溶けた。

観客席が崩れ、光が滲み、芝生が床に変わった。

歓声が雨音に変わる。



目を開けると、部屋にいた。

机の上には空の瓶が積まれ、

床には割れたガラスの破片が散らばっている。

壁には擦ったような跡、

爪で引っかいた痕がいくつも残っていた。


呼吸が浅い。

喉が焼けるように痛い。

鏡に映る自分は、ほとんど別人だった。


「……俺、何やってんだ……」


そう呟いても、声はかすれて消えた。

頭の奥で、まだ歓声が鳴っている。

耳の奥で、拍手が響いている。


身体の中を何かが這うような感覚があった。

心臓が脈を打つたび、光が瞼の裏で点滅する。


――まだだ。

――もう一度。


頭の中で、声が囁く。

それが自分のものかどうかも分からない。


机の上の《ポーション製造機》がまた光り始めた。

青く、金に、赤に。

泡が立ち、瓶が満ちていく。


「……あと一度だけだ。」


言い訳のように呟いて、

再び瓶を手に取った。

血の混じった指先で栓を抜き、液体を口に含む。


味はもう、何も感じなかった。



また、スタジアム。

照明がまぶしく、風が頬を切る。

何度目の試合か分からない。

だが、誰も動かない観客の顔は変わらない。


走る。

蹴る。

決める。

笑う。


それだけ。

永遠に続く、勝利の瞬間。


けれど、その笑顔が次第に崩れていく。

顔が溶け、観客が形を失い、

声だけが無限に反響する。


「佐野!」「佐野!」「佐野!」


自分の名が反響し、やがて悲鳴のように響く。

耳を塞いでも止まらない。


「やめろ……やめろ……」


叫んでも、誰もいない。

ピッチは闇に飲まれ、

自分の足元さえ見えなくなっていく。


倒れた。

膝をつくと、芝の感触ではなく、

冷たい床の感触が伝わった。



目を開ける。

雨の音。

濁った光。


床の上には、空の瓶が転がっていた。

指先は痙攣している。

呼吸のたびに胸が軋む。

身体が冷えていくのを感じた。


それでも、頭の中では、

まだスタジアムの歓声が響いている。


――勝った。

――俺は勝ったんだ。


その言葉が、どこか遠くから聞こえた。

まるで誰かが代わりに喋っているみたいだった。


机の上の装置が、

最後の光を吐き出すように点滅した。

瓶の中で、金色の泡がゆっくりと弾け、

消えていった。



そして――


雨の匂いの中、静かな声が響いた。


「幻覚ポーション。自分の望む現実を作り出す器……」


黒いローブを纏った人物――店主は、

棚の奥に置かれた小瓶を指先で撫でた。

その中には、かすかな金の光が揺れている。


「夢の中で勝ち続けることを選んだか。

 ……それもまた、“幸福”のかたちかもしれませんね。」


声は静かで、どこか遠い。

観測者としての無慈悲さと、

ほんのわずかな哀れみが混じっていた。


「人は救われたいと願いながら、

 結局、自ら幻を選ぶ。

 魔道具は、それを映す鏡にすぎません。」


指先の光が消え、瓶の中の泡が完全に止まった。

棚の上には、他の無数の魔道具が整然と並んでいる。

どれも、誰かの選んだ現実の残響だった。


店主は小さく息を吐き、

カウンターの上の古い時計に視線を落とした。

針はゆっくりと進み続けている。


「……また、ひとつ終わりましたね。」


その言葉と同時に、

外で雷鳴が鳴り、雨音が強くなる。

路地裏の看板――「クロノス」の文字に水滴が落ちて弾けた。


扉の外では、また誰かが立ち止まっている。

悩みを抱え、雨に打たれながら。


店主は顔を上げ、静かに言った。


「ようこそ、クロノスへ。

 あなたの“望み”を、お聞かせください。」



外では、まだ雨が降り続いていた。

現実を洗い流すことも、

誰かの罪を清めることもできない、

ただの雨だった。


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