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第12話 クロノスの誕生【後編】―最初の灯火―


雨は、夜半になっていきなり強くなった。

静寂を貫く水の音が、店の壁を叩き、

まるで“見えない何かがここへ近づいてくる”ように聞こえた。


私は机の前に座り、

広げた設計図の中央をじっと見つめていた。


歯車の紋が、鼓動するように淡い光を発している。


「……完成まで、もう少しだ。」


胸の奥が熱を帯びた。

けれどそれは病の熱ではなく、

使命に背を押されるような、奇妙な昂揚感だった。



指先を紙に這わせると、

そこから“光”が伝わった気がした。


血管を流れるのが血ではなく光だと錯覚するほど、

身体の奥で何かが脈動している。


肩の痛みも、年齢の重みも、

ここ数日でどこかへ消えてしまった。


その代わり、奇妙な静けさが漂っていた。


――生の匂いが薄れていく静けさ。


だが私は、その違和感を歓迎していた。


(……これが、魔道具が完成に近づいた“兆し”なのだ。)


むしろ、人間である自分の限界が消えつつあることに、

安堵すら覚えていた。


「ようやく……ここまで来たのだな。」


こぼれた声は、

自分のものとは思えぬほど澄んでいた。



《記録の瞳》が、またひとつ光を放つ。

その瞬間、部屋の空気がわずかに揺れる。


机に散らばる古い術式図が、

誰かに指でなぞられたように浮き上がり、

互いに重なって新たな形を描いていく。


「……手伝ってくれるのか?」


呟くと、球体は小さく脈打った。

返事のようでもあり、

単に私の心臓と同調しただけのようでもあった。


いずれにせよ、

魔道具と私の境界は曖昧になり始めていた。


私はそれを、迷いなく“喜び”だと受け止めていた。



深夜。

雨が壁を叩く規則が変わった。


まるで、

“どこか別の世界の雨”のリズムを思い出したかのような、

懐かしさを伴った違和感。


私は椅子を引いて立ち上がる。

足裏が床に触れるたび、微かな金属音が響いた。


「……古い床だ。」


そう思ったが、音は私の歩調に正確すぎた。


床鳴りではない。

私の身体の内部――

そこから響く“歯車の音”だった。


だが、気づかぬふりをした。

いや、むしろそれを“正しい兆し”として受け止めた。


(魔道具が完成に近づけば、

 術式と自分の思考が同調して当然だ。)


迷いは、どこにもなかった。



机に戻り、

私は最後の図形を描き始めた。


意識がやけに軽い。

睡魔も疲れも、身体の重みもどこにもなかった。


筆を走らせるたび、

背後で時計の針が一斉に動く音がする。


――カチリ。

――カチリ。

――カチリ。


時計たちが私を祝福している。

私は本気でそう信じていた。


だが針の音は、

“私自身の変質”に合わせて鳴っていただけだった。


気づくべき本人は、すでに人の感覚を失いかけていた。



雨脚が急に弱まったとき、

私は最後の線を描き終えた。


紙の上の歯車紋が、

ゆっくり呼吸するように光を帯びる。


「……できた。」


こぼれた言葉と同時に、

胸の奥の光がゆっくり脈を刻んだ。


長年探し続け、

失敗し、

破滅を見届けてきた魔道具作りが――

ようやくひとつの終わりへ辿り着いた。


「これで……私の役目も、終わる。」


そう思った。


この魔道具クロノスさえあれば、

私が消えたとしても、

世界のどこかで誰かが記録を残し、

いつか遠い未来で救いに繋がるかもしれない。


誰かが“救われるきっかけ”となる未来。

私はそれを、この魔道具に託した。


「ようやく……終わる。」


ここまでだ。

身体も、もう限界だ。


私は椅子にもたれ――息をゆっくり吐いた。


……す、………


な、…………かっ………………


……お………………


……う…………………………


………じょ………………………


……………さ……………………


胸の奥が、冷たく沈んだ。


色が消え、世界が遠のいていく。


……あの時……

どうして……

もっと……早く……………。


……わたしはいつも……

間に……合わない……………。


……ゆるさなくて……いい……………。

ただ……もう一度…………。

どこかで…………。


…………………………


………………………



音がない。

色もない。

底へゆっくり沈んでいく闇。


……カチ。


…カチ…カチ……


――カチ、カチ、カチ、カチ。


すべての時計が逆回転を始めた。


設計図が光を放ち、

棚が震え、

空気が裂ける。


強烈な光――。


次の瞬間、

肺へ“新しい空気”が流れ込んだ。


「……っ、は……ッ……!」


跳ねるように息が戻る。


心臓が脈を打ち、

乾いた指先に血が走り、

切れていた神経が繋がる。


蘇った――。


そしてすぐ、さらなる異変。


皺が消え、肌が張り、

背筋が伸び、視界が澄む。


若返っている。


だが次の瞬間には、老いる。


髪が白くなり、骨が軋み、

皮膚が乾き、息が細くなる。


若返りと老化。

その往復が、波のように続く。


(……私は……もう……“人”の時間にいない……。)


恐怖より先に理解が追いついた。


クロノスの術式に触れすぎた私は、

身体ではなく“時間”そのものが私を形作り始めていた。


喜びとも絶望ともつかぬ感情が胸の奥で膨らむ。



私は、ゆっくり机の上へ手を伸ばした。


《記録の瞳》が――どこにもない。


棚にも、床にも、影すら残っていない。


「……どこへ……?」


呟いた瞬間、視界が震える。


視野の奥――

世界の“記録”が静かに流れていた。


過去の客の影。

魔道具の脈動。

まだ言葉を持たぬ未来の揺らぎ。


ゆっくりと、目へ触れる。


そこにあったのは、

もう“人の目”ではなかった。


「……そうか。」


《記録の瞳》は消えたのではない。

私の目そのものに変わったのだ。


私は椅子に沈み、

呼吸も、まばたきも、鼓動すら不要の身体で

ただ静かに世界を見つめた。


喜びか、絶望か――

判断のつかない感情が胸を満たす。


「……救えぬなら……せめて観測しよう。」


それは祈りでも願いでもない。

“選択”だった。


針の音が一つずつ整っていく。


――カチリ。

――カチリ。

――カチリ。


私はこの場所から動く必要がない。

ここに座ったまま、

あらゆる“時”を感じ、

人々の行く末を見守れる。


それは呪いであり、

同時に“願いの成就”でもあった。



扉の外で、かすかな足音がした。


新しい“時”がやって来る。


私はもう、

瞬きも呼吸も必要としない身体で、

そっと扉へ視線を向けた。


そして――


「……ようこそ、クロノスへ。」


静かに、世界の針が時を刻み始めた。


外には、

どこか懐かしい雨が

やさしく降り続けていた。


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