第12話 クロノスの誕生【中編】―揺らぎの灯火―
雨は夜のあいだ降り続き、
朝になっても止む気配はなかった。
水の幕が世界を包み、街全体が静かにぼやけている。
私は机の前に座ったまま、ひと晩中描き続けた図面を見つめていた。
線が震え、歪み、しかしどれも均整を保とうと必死に寄り添っている。
それはまるで、
“崩れ落ちる前にどうにか形を残そうとする私自身”のようだった。
紙の中央では、歯車の紋が淡く光っていた。
「……少し、形になってきたな。」
声を出した瞬間、胸の奥に熱が灯る。
熱は血ではなく、光のように静かで柔らかい。
私は気づかないふりをした。
身体の内側で何かが変わり始めていることに。
◇
朝を迎えたというのに、部屋の灯は落ちなかった。
魔道具の光が勝手に脈動し、
棚の奥では古い時計が、自ら針を動かし始めていた。
「……久しぶりに、調子がいい。」
呟いたその瞬間、
自分の声が妙に若く、よく通ることに気づいた。
寝不足のはずなのに、疲れが抜けている。
腰の痛みも、肩の重さも、消えてしまっていた。
だがそれを“異変”だとは思わなかった。
むしろ――
長年作り続けてきた魔道具が
ようやく完成に近づいているという高揚感。
人生の最期の火が、最後にもう一度強く燃えることがあると
どこかで聞いたことがあった。
私はそれを、
「魔道具師としての最後の力が戻ってきたのだ」
と、都合よく解釈した。
胸の奥に宿る光は、
それを裏付ける“祝福”のように思えた。
◇
《記録の瞳》がゆっくりと回転する。
本来、外部の刺激がなければ動くはずのない道具だ。
だが今は、まるで自分の意志で周囲を見回しているようだった。
「……お前も、分かっているのか。」
球体は脈打つたびに明滅し、
その光が部屋の図面や魔道具に反射して、淡い残響を落とす。
部屋全体が、生きているようだった。
否――
“店が目覚めてきている”と、私は思った。
長く使われなかった歯車に油が差され、
錆びていた棚が再び声を持ち、
ひとりでにページが捲れる書物が息を取り戻す。
それらの現象は、本来であれば恐るべき徴候だ。
だが私は、まったく疑わなかった。
(クロノスが……完成に近づいているのだ。)
そう信じて疑わなかった。
期待と喜びと、長い絶望の末にようやく灯った小さな祈り。
それらが私の判断を狂わせていた。
◇
昼過ぎになると、指先の震えがなくなった。
昨夜まで震えていた手が、まるで別人のように安定している。
筆が滑るように紙を走り、
魔力の流れが、これまでにないほど静かに整っていく。
「……やはり、間違ってなかったんだ。」
私は思った。
魔道具師としての生涯が、
今ようやく報われようとしているのだと。
図面に描いた線は、
まるで自分の意思を持つかのように
勝手に収束していく。
私はその様子を見ながら、
胸が震えるほどの感動を覚えていた。
だがその裏で、確実に“別の変化”が起こっていた。
◇
夕刻、外出しようと立ち上がった瞬間。
視界がふっと白く霞んだ。
焦点が合わない。
まるで自分が自分の身体から半歩遅れてついていっているような奇妙な感覚。
壁の時計を見た。
針が、私と同じタイミングで脈を打っていた。
「……妙なタイミングで動くやつだ。」
軽口を叩きながら、
その異様さに気づくべきだった。
だが私は笑った。
(魔道具が呼吸している。
これほど喜ばしいことはない。)
本当は――
“私が時計と同調を始めていた”のだということに。
◇
夜、雨は小康状態になった。
私は机に戻り、図面の続きを描いた。
線の重なりは複雑を極め、
まるで“世界の骨格”そのものを描いているようだった。
指先が紙に触れると、
まるでそこから血ではなく光が流れ出すような感覚があった。
「……もう少しだ。」
声が震えた。
だがそれは恐怖ではなく、期待の震えだった。
長い人生のすべてが、ここへ収束しつつある。
王女の祈りも、兵士の涙も、僧侶の炎も、
救えなかった人々の声も――
すべてをこの魔道具に託すことができる。
それが、“救い”だと信じた。
それが、“贖罪”であると信じた。
それが、“私の最後の役目”だと信じた。
私は気づいていなかった。
店が動き始めているのではない。
魔道具が目覚めているのでもない。
――変わり始めていたのは、私自身だった。
◇
それでも私は、満ちていた。
心は軽く、身体は冴え、
長年味わったことのないほどの集中力が湧き上がっていた。
「……もう少し。
あと少しで、終わる。
終わったら――あとは魔道具が、
この世界と未来の誰かを救ってくれる。」
そう信じて疑わなかった。
自分がその道具の一部になりつつあることを、
ほんの欠片も疑わなかった。
その夜、店の時計は一斉に動き始めた。
――カチリ、カチリ、カチリ。
それは、祝福の拍手のように聞こえた。
私は嬉しかった。
ほんとうに、心の底から嬉しかった。
まさかそれが、
“人としての最終段階に近づいた音”だとは考えもしなかった。




