第11話 最後の観測者【後編】―観測の果て―
雨が、再び降り始めた。
どれほど待ち望んだ音だったろう。
世界が、やっと息をしているように思えた。
机の上の《記録の瞳》が、ぼんやりと光を返す。
それはまるで、心臓の鼓動のようだった。
いつの間にか、私の命とこの道具の境界は曖昧になっていた。
窓の外には、薄い白の雨。
空から降る筋が、古い街並みをゆっくりと撫でていく。
そのひとすじひとすじが、まるで“過去の記録”のように見えた。
私は、深く息を吸い込んだ。
肺の奥で血の泡が弾け、鈍い痛みが走る。
身体はとうに限界を超えている。
肉は削げ、骨は軋み、手のひらはひび割れている。
皮膚の下で、時の歯車がきしむ音がした。
“人”でありながら、“時”に食われているような感覚。
◇
目の奥が熱を帯び、視界の端が揺れる。
壁の上を、かつて記した記録たちが流れ始めた。
まるで誰かが、私の記憶を再生しているかのように。
兵士の影。
僧侶の祈り。
王女の瞳。
彼らの幻影が部屋に満ち、薄く重なり合って、まるで亡霊のように漂っていた。
それぞれが、かつての記録を蘇らせている。
私はひとり、椅子に腰を下ろしたままそれを見つめた。
最初に現れたのは、牢の暗がりの中で見た兵士の影だった。
妹を救われ、命を懸けて私を逃がしたあの男。
その声が、雨の底から滲むように届く。
――「あなたが生きて、また誰かを救うなら、それが俺たちの祈りです。」
続いて、炎の中から僧侶の姿が浮かんだ。
贖罪の灯を掲げ、信じた道を曲げずに歩いた男。
その声は、揺れる火のように穏やかで、しかし確かだった。
――「賢導師殿、どうか火を絶やさぬよう。」
最後に、光の残滓の向こうで、ひとりの女性が微笑んだ。
あの王女だった。
静かな湖のような瞳が、ただ問いを宿している。
――「人は、どうして同じ過ちを繰り返すのでしょう。」
彼らの声が響くたびに、
過去と現在、希望と絶望の境界がわずかに揺らいだ。
かつて救えなかった声たちが、今も私を呼んでいる。
それは罰であり、贈り物でもあった。
◇
私は机に手をつき、深く息を吐いた。
手の甲の血管が浮き出ている。
一つひとつが、時の管に繋がっているように見えた。
魔道具を作るたび、少しずつ私の中の何かが削られていった。
“観測者”という名の皮を被りながら、
実際には――私は“罪の記録者”に過ぎなかったのかもしれない。
「……私は、どこまで行けば赦されるのだろう。」
言葉にした瞬間、胸が痛んだ。
赦しを乞う相手など、もうどこにもいない。
だが、それでも、問いは浮かんでしまう。
誰も救えなかった。
けれど、誰一人、見捨てたこともなかった。
それだけは、確かだった。
◇
《記録の瞳》の光が強まる。
その中に、いくつもの映像が揺らめく。
笑い、泣き、崩れ落ちる人々。
そして、私自身。
若き日の私が、筆を握り、祈るように術式を描いている。
「……君は、まだ諦めていないのか。」
問いかけると、幻の中の私がこちらを見た。
その目は、絶望でも後悔でもなく、ただ“信念”の色をしていた。
その瞳が、何よりも痛かった。
◇
雷鳴が落ちた。
光が走り、机の上の図面が震える。
紙がめくれ、散乱したインクが床を濡らした。
外では風が吹き荒れ、扉が軋む。
観測の均衡が崩れている。
記録と現実、過去と現在――
それらが一つに混ざり合い始めていた。
空気が歪み、天井から光の線が垂れ下がる。
それはまるで、時間の裂け目。
そこから、いくつもの“声”が漏れ出す。
泣き声、笑い声、懺悔、祈り。
無数の記録が、一斉に私へ流れ込む。
痛みと記憶が交錯し、意識が焼けつく。
「……これが、報いなのか。」
誰に問うでもなく呟く。
《記録の瞳》が明滅し、その光が私の胸に吸い込まれた。
胸骨の奥で、何かが鼓動を打つ。
私の“時”が、別の“時”に侵食されていく。
(……まだ終われないのか。
この身体が朽ちても、観測は続くのか。)
自嘲のような笑みがこぼれる。
そして、私は静かにペンを取った。
震える指で、ノートの端に新たな言葉を記す。
“干渉なき観測は、もはや無意味である。”
書いた瞬間、胸の奥で何かが“ひび割れた”。
それは痛みではなく、
人間としての心が、別の理へと軋み始める音だった。
◇
部屋の奥から、微かな音がした。
それは、雨音に似ていた。
けれど外は晴れている。
ならばこの音は――、記録の彼方から届いた“誰かの涙”か。
私はその音を聞きながら、ゆっくりと目を閉じた。
遠い、遠い記憶の底で、
またひとつの物語が動き始めている気がした。
「……境界が、崩れ始めたな。」
その呟きが、静かな部屋に溶けた。
次の瞬間、すべての時計が同時に鳴り始める。
――カチリ、カチリ、カチリ。
止まっていた“時”が、再び動き出す音だった。
◇
私は、椅子にもたれた。
もう身体はほとんど感覚を失っていた。
だが、胸の奥の一点――そこだけが熱を持っていた。
心臓ではない。
《記録の瞳》が吸い込まれた場所。
そこから、淡い光が滲んでいた。
血の代わりに、光が脈を打っている。
「……救えぬなら、せめて記録しよう。」
声が掠れ、静かに空気へ溶ける。
この言葉が“誰か”の記録へ繋がるなら、
それでいいと思った。
◇
雨は、ゆっくりと止みつつあった。
けれど私の耳には、まだその音が残っている。
それはもう外の雨ではない。
人の心が流す“最後の涙”の音だった。
私は机の上に新しい設計図を広げた。
線が歪み、震える手がそれをなぞる。
中心に描かれるのは――歯車の紋。
だが、まだ形にはなっていない。
これは、未完成のまま残される“願いの構造”。
(いつか、この続きを描ける者が現れるだろうか。)
目を閉じ、静かに息を吐いた。
世界は静まり返っている。
針の音だけが、時を刻んでいた。
――その針の音が、次の物語を呼んでいた。




