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第11話 最後の観測者【後編】―観測の果て―


雨が、再び降り始めた。

どれほど待ち望んだ音だったろう。

世界が、やっと息をしているように思えた。


机の上の《記録の瞳》が、ぼんやりと光を返す。

それはまるで、心臓の鼓動のようだった。

いつの間にか、私の命とこの道具の境界は曖昧になっていた。


窓の外には、薄い白の雨。

空から降る筋が、古い街並みをゆっくりと撫でていく。

そのひとすじひとすじが、まるで“過去の記録”のように見えた。


私は、深く息を吸い込んだ。

肺の奥で血の泡が弾け、鈍い痛みが走る。

身体はとうに限界を超えている。

肉は削げ、骨は軋み、手のひらはひび割れている。

皮膚の下で、時の歯車がきしむ音がした。

“人”でありながら、“時”に食われているような感覚。



目の奥が熱を帯び、視界の端が揺れる。

壁の上を、かつて記した記録たちが流れ始めた。

まるで誰かが、私の記憶を再生しているかのように。


兵士の影。

僧侶の祈り。

王女の瞳。


彼らの幻影が部屋に満ち、薄く重なり合って、まるで亡霊のように漂っていた。

それぞれが、かつての記録を蘇らせている。

私はひとり、椅子に腰を下ろしたままそれを見つめた。


最初に現れたのは、牢の暗がりの中で見た兵士の影だった。

妹を救われ、命を懸けて私を逃がしたあの男。

その声が、雨の底から滲むように届く。


――「あなたが生きて、また誰かを救うなら、それが俺たちの祈りです。」


続いて、炎の中から僧侶の姿が浮かんだ。

贖罪の灯を掲げ、信じた道を曲げずに歩いた男。

その声は、揺れる火のように穏やかで、しかし確かだった。


――「賢導師殿、どうか火を絶やさぬよう。」


最後に、光の残滓の向こうで、ひとりの女性が微笑んだ。

あの王女だった。

静かな湖のような瞳が、ただ問いを宿している。


――「人は、どうして同じ過ちを繰り返すのでしょう。」


彼らの声が響くたびに、

過去と現在、希望と絶望の境界がわずかに揺らいだ。


かつて救えなかった声たちが、今も私を呼んでいる。

それは罰であり、贈り物でもあった。



私は机に手をつき、深く息を吐いた。

手の甲の血管が浮き出ている。

一つひとつが、時の管に繋がっているように見えた。

魔道具を作るたび、少しずつ私の中の何かが削られていった。

“観測者”という名の皮を被りながら、

実際には――私は“罪の記録者”に過ぎなかったのかもしれない。


「……私は、どこまで行けば赦されるのだろう。」


言葉にした瞬間、胸が痛んだ。

赦しを乞う相手など、もうどこにもいない。

だが、それでも、問いは浮かんでしまう。


誰も救えなかった。

けれど、誰一人、見捨てたこともなかった。

それだけは、確かだった。



《記録の瞳》の光が強まる。

その中に、いくつもの映像が揺らめく。

笑い、泣き、崩れ落ちる人々。

そして、私自身。

若き日の私が、筆を握り、祈るように術式を描いている。


「……君は、まだ諦めていないのか。」


問いかけると、幻の中の私がこちらを見た。

その目は、絶望でも後悔でもなく、ただ“信念”の色をしていた。

その瞳が、何よりも痛かった。



雷鳴が落ちた。

光が走り、机の上の図面が震える。

紙がめくれ、散乱したインクが床を濡らした。

外では風が吹き荒れ、扉が軋む。


観測の均衡が崩れている。

記録と現実、過去と現在――

それらが一つに混ざり合い始めていた。


空気が歪み、天井から光の線が垂れ下がる。

それはまるで、時間の裂け目。

そこから、いくつもの“声”が漏れ出す。


泣き声、笑い声、懺悔、祈り。

無数の記録が、一斉に私へ流れ込む。

痛みと記憶が交錯し、意識が焼けつく。


「……これが、報いなのか。」


誰に問うでもなく呟く。

《記録の瞳》が明滅し、その光が私の胸に吸い込まれた。

胸骨の奥で、何かが鼓動を打つ。

私の“時”が、別の“時”に侵食されていく。


(……まだ終われないのか。

 この身体が朽ちても、観測は続くのか。)


自嘲のような笑みがこぼれる。

そして、私は静かにペンを取った。


震える指で、ノートの端に新たな言葉を記す。


“干渉なき観測は、もはや無意味である。”


書いた瞬間、胸の奥で何かが“ひび割れた”。

それは痛みではなく、

人間としての心が、別の理へと軋み始める音だった。



部屋の奥から、微かな音がした。

それは、雨音に似ていた。

けれど外は晴れている。

ならばこの音は――、記録の彼方から届いた“誰かの涙”か。


私はその音を聞きながら、ゆっくりと目を閉じた。

遠い、遠い記憶の底で、

またひとつの物語が動き始めている気がした。


「……境界が、崩れ始めたな。」


その呟きが、静かな部屋に溶けた。

次の瞬間、すべての時計が同時に鳴り始める。


――カチリ、カチリ、カチリ。


止まっていた“時”が、再び動き出す音だった。



私は、椅子にもたれた。

もう身体はほとんど感覚を失っていた。

だが、胸の奥の一点――そこだけが熱を持っていた。

心臓ではない。

《記録の瞳》が吸い込まれた場所。


そこから、淡い光が滲んでいた。

血の代わりに、光が脈を打っている。


「……救えぬなら、せめて記録しよう。」


声が掠れ、静かに空気へ溶ける。

この言葉が“誰か”の記録へ繋がるなら、

それでいいと思った。



雨は、ゆっくりと止みつつあった。

けれど私の耳には、まだその音が残っている。

それはもう外の雨ではない。

人の心が流す“最後の涙”の音だった。


私は机の上に新しい設計図を広げた。

線が歪み、震える手がそれをなぞる。

中心に描かれるのは――歯車の紋。

だが、まだ形にはなっていない。

これは、未完成のまま残される“願いの構造”。


(いつか、この続きを描ける者が現れるだろうか。)


目を閉じ、静かに息を吐いた。

世界は静まり返っている。

針の音だけが、時を刻んでいた。


――その針の音が、次の物語を呼んでいた。


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