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第11話 最後の観測者【中編】―崩壊の境界―


夜が深くなっていた。

雨の止んだ空は鈍色に固まり、星ひとつ見えない。

世界が呼吸を忘れたような、張り詰めた沈黙。

その中で、私は机に向かっていた。


ペンを握る指は冷たく、紙の感触も曖昧だった。

目の前のノートには、震えた文字で無数の観測記録が並んでいる。

それらは、人の心を追い続けた軌跡。

救いに届かなかった者たちの記憶の断片だった。


私はその一つひとつを指でなぞった。

触れるたびに、微かな声が響く。

懺悔、祈り、嘆き。

どれも小さく、かすれている。

けれど、それが確かに“生きていた人間”の証だった。


「……まだ、見えているのか。」


声に出すと、棚の奥の《記録の瞳》がわずかに光を放った。

光は揺れ、空気が震え、

やがて部屋の中央に薄い人影が浮かび上がる。



最初に現れたのは、灰色の法衣を纏った僧だった。

虚ろな瞳をこちらに向け、かすかに笑う。


「賢導師殿……あなたの教えを、信じていました。」


声は掠れていた。

それは《贖罪の燭台》を使った、あの僧侶の面影。

背後には燃える炎の影。

信仰に焼かれ、己の理想に呑まれていった男。


私は言葉を探したが、声は出なかった。

炎はやがて小さな光に変わり、

その中から別の姿が現れる。


スーツを着た男。

《金糸の帳簿》を抱えたまま、虚空を見上げていた。


「努力なんて、もう意味がない。

 でも、帳簿だけは手放せなかった。」


世界が違っても、同じ“欲”が同じ結末を描く。

その背後には、ぼやけた街の灯が揺れていた。

濡れた舗道に滲む光、看板の明滅、

終わらない夜のざわめき――。

どこかで見たことのある景色。

けれど、それは過去でも未来でもない。

“今”という名の、もうひとつの世界だった。


「……君も、見えていたのか。」


私は小さく呟いた。

男は答えず、光に溶けるように消えていった。



静寂が戻る。

だが空気の密度は変わっていた。

温度が上がり、時間がわずかに軋み始める。

観測と現実の境界が、曖昧になっていく。


棚の上の魔道具が、次々に微光を放ち始めた。

《無垢の鏡》が、うっすらと白い靄を生む。

《贖罪の燭台》が、揺れる炎を吐く。

《金糸の帳簿》が、薄い呼吸のようにページをめくる。


「やめろ……呼ぶな。」


私は立ち上がった。

足元が崩れるように感覚が歪む。

視界の中に、あの王女の姿が現れた。



白い衣を纏い、静かにこちらを見ていた。

瞳は穏やかで、あの日と変わらぬままだった。


「あなたは、まだ見続けているのですね。」


「……もう、それしかできない。」


「そうですか。

 でも、見つめることは救いの始まりでもあります。」


彼女の声は、雨のように優しかった。

だが、胸の奥を確実に抉っていく。


「私は、何も救えなかった。

 彼らは皆、壊れていった。

 私の作ったものが、壊した。」


「違います。」


王女は首を振った。


「あなたは“見届けた”のです。

 壊れゆく者たちの中に、まだ人の形があると信じていた。

 だからこそ、この場所は存在している。」


「……見届けるだけで、何が残る。」


「それでも、誰かの記録が残る。

 あなたの記録が、次の誰かを照らすかもしれません。」


彼女は静かに微笑み、指先を伸ばした。

その手が私の頬に届く前に、空気が砕けた。



雷鳴のような音が響く。

光が走り、幻影が砕け散る。

私は机に手をついた。

呼吸が乱れ、視界の端が揺れる。


観測の均衡が崩れている。

記録と現実、過去と現在――

それらが一つに混ざり合い始めていた。

だが、私はそれが恐ろしくなかった。

むしろ、この現象をどこかで“待っていた”気がした。


(……これが、限界なのか。

 いや、これは兆しだ。)


胸の奥で、何かがゆっくりと脈を打った。

それは痛みではなく、静かな熱。

まるで血の代わりに“時”が流れ始めたようだった。

皮膚の下を、微かな光が走る。

血管ではない――魔術の回路が、内側で形を取り始めている。


「……クロノス。」


その名が、ふと唇から零れた。

名を呼んだ瞬間、胸の痛みが収まる。

それは呪いではなかった。

どこか懐かしく、帰る場所を見つけたような安堵に近かった。


(……これが、報いであると同時に、始まりでもあるのかもしれない。)


震える手で、ペンを取った。

ノートの端に、新しい一文を記す。


“干渉なき観測は、もはや無意味である。”


インクが滲み、文字が歪んだ。

それでも、その言葉は確かに“次”へ繋がっていた。



指先に痛みが走る。

手を見ると、皮膚の下に淡い光が脈打っていた。

歯車のような模様が浮かび、すぐに消える。

頭の奥では、何かが回り続けている。

意識が引き伸ばされ、時間が途切れずに続いていく。

眠ることも、終えることもできない。

――まるで、すでに“時”の一部になってしまったようだ。


「……まだ、人間だ。私は。」


声を出すと、それが震えた。

乾いた喉から、血の味が広がる。

机の上のインク瓶が倒れ、黒い液が床を濡らす。

その染みが、まるで影のように広がっていった。



部屋の奥から、微かな音がした。

それは、雨音に似ていた。

けれど外は晴れている。

ならばこの音は――、記録の彼方から届いた“誰かの涙”か。


私はその音を聞きながら、ゆっくりと目を閉じた。

遠い、遠い記憶の底で、

またひとつの物語が動き始めている気がした。


「……境界が、崩れ始めたな。」


その呟きが、静かな部屋に溶けた。

次の瞬間、すべての時計が同時に鳴り始める。

――カチリ、カチリ、カチリ。


止まっていた“時”が、再び動き出す音だった。


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