第11話 最後の観測者【中編】―崩壊の境界―
夜が深くなっていた。
雨の止んだ空は鈍色に固まり、星ひとつ見えない。
世界が呼吸を忘れたような、張り詰めた沈黙。
その中で、私は机に向かっていた。
ペンを握る指は冷たく、紙の感触も曖昧だった。
目の前のノートには、震えた文字で無数の観測記録が並んでいる。
それらは、人の心を追い続けた軌跡。
救いに届かなかった者たちの記憶の断片だった。
私はその一つひとつを指でなぞった。
触れるたびに、微かな声が響く。
懺悔、祈り、嘆き。
どれも小さく、かすれている。
けれど、それが確かに“生きていた人間”の証だった。
「……まだ、見えているのか。」
声に出すと、棚の奥の《記録の瞳》がわずかに光を放った。
光は揺れ、空気が震え、
やがて部屋の中央に薄い人影が浮かび上がる。
◇
最初に現れたのは、灰色の法衣を纏った僧だった。
虚ろな瞳をこちらに向け、かすかに笑う。
「賢導師殿……あなたの教えを、信じていました。」
声は掠れていた。
それは《贖罪の燭台》を使った、あの僧侶の面影。
背後には燃える炎の影。
信仰に焼かれ、己の理想に呑まれていった男。
私は言葉を探したが、声は出なかった。
炎はやがて小さな光に変わり、
その中から別の姿が現れる。
スーツを着た男。
《金糸の帳簿》を抱えたまま、虚空を見上げていた。
「努力なんて、もう意味がない。
でも、帳簿だけは手放せなかった。」
世界が違っても、同じ“欲”が同じ結末を描く。
その背後には、ぼやけた街の灯が揺れていた。
濡れた舗道に滲む光、看板の明滅、
終わらない夜のざわめき――。
どこかで見たことのある景色。
けれど、それは過去でも未来でもない。
“今”という名の、もうひとつの世界だった。
「……君も、見えていたのか。」
私は小さく呟いた。
男は答えず、光に溶けるように消えていった。
◇
静寂が戻る。
だが空気の密度は変わっていた。
温度が上がり、時間がわずかに軋み始める。
観測と現実の境界が、曖昧になっていく。
棚の上の魔道具が、次々に微光を放ち始めた。
《無垢の鏡》が、うっすらと白い靄を生む。
《贖罪の燭台》が、揺れる炎を吐く。
《金糸の帳簿》が、薄い呼吸のようにページをめくる。
「やめろ……呼ぶな。」
私は立ち上がった。
足元が崩れるように感覚が歪む。
視界の中に、あの王女の姿が現れた。
◇
白い衣を纏い、静かにこちらを見ていた。
瞳は穏やかで、あの日と変わらぬままだった。
「あなたは、まだ見続けているのですね。」
「……もう、それしかできない。」
「そうですか。
でも、見つめることは救いの始まりでもあります。」
彼女の声は、雨のように優しかった。
だが、胸の奥を確実に抉っていく。
「私は、何も救えなかった。
彼らは皆、壊れていった。
私の作ったものが、壊した。」
「違います。」
王女は首を振った。
「あなたは“見届けた”のです。
壊れゆく者たちの中に、まだ人の形があると信じていた。
だからこそ、この場所は存在している。」
「……見届けるだけで、何が残る。」
「それでも、誰かの記録が残る。
あなたの記録が、次の誰かを照らすかもしれません。」
彼女は静かに微笑み、指先を伸ばした。
その手が私の頬に届く前に、空気が砕けた。
◇
雷鳴のような音が響く。
光が走り、幻影が砕け散る。
私は机に手をついた。
呼吸が乱れ、視界の端が揺れる。
観測の均衡が崩れている。
記録と現実、過去と現在――
それらが一つに混ざり合い始めていた。
だが、私はそれが恐ろしくなかった。
むしろ、この現象をどこかで“待っていた”気がした。
(……これが、限界なのか。
いや、これは兆しだ。)
胸の奥で、何かがゆっくりと脈を打った。
それは痛みではなく、静かな熱。
まるで血の代わりに“時”が流れ始めたようだった。
皮膚の下を、微かな光が走る。
血管ではない――魔術の回路が、内側で形を取り始めている。
「……クロノス。」
その名が、ふと唇から零れた。
名を呼んだ瞬間、胸の痛みが収まる。
それは呪いではなかった。
どこか懐かしく、帰る場所を見つけたような安堵に近かった。
(……これが、報いであると同時に、始まりでもあるのかもしれない。)
震える手で、ペンを取った。
ノートの端に、新しい一文を記す。
“干渉なき観測は、もはや無意味である。”
インクが滲み、文字が歪んだ。
それでも、その言葉は確かに“次”へ繋がっていた。
◇
指先に痛みが走る。
手を見ると、皮膚の下に淡い光が脈打っていた。
歯車のような模様が浮かび、すぐに消える。
頭の奥では、何かが回り続けている。
意識が引き伸ばされ、時間が途切れずに続いていく。
眠ることも、終えることもできない。
――まるで、すでに“時”の一部になってしまったようだ。
「……まだ、人間だ。私は。」
声を出すと、それが震えた。
乾いた喉から、血の味が広がる。
机の上のインク瓶が倒れ、黒い液が床を濡らす。
その染みが、まるで影のように広がっていった。
◇
部屋の奥から、微かな音がした。
それは、雨音に似ていた。
けれど外は晴れている。
ならばこの音は――、記録の彼方から届いた“誰かの涙”か。
私はその音を聞きながら、ゆっくりと目を閉じた。
遠い、遠い記憶の底で、
またひとつの物語が動き始めている気がした。
「……境界が、崩れ始めたな。」
その呟きが、静かな部屋に溶けた。
次の瞬間、すべての時計が同時に鳴り始める。
――カチリ、カチリ、カチリ。
止まっていた“時”が、再び動き出す音だった。




