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第11話 最後の観測者【前編】―終わりを知らぬ灯―


雨が、降らなくなっていた。

いつの間にか季節が変わり、

世界のどこにも、涙のような音が聞こえなくなった。


私は、古びた机に腰を下ろしていた。

指は痩せ、震え、紙の上で思うように動かない。

掌には、長年の魔力の残滓がこびりついている。

まるで血管の代わりに、古い呪式の線が走っているようだった。


棚の上では、かつての魔道具たちが静かに眠っている。

《無垢の鏡》。

《贖罪の燭台》。

《金糸の帳簿》。


そして、まだ名も形も定まらぬ試作の道具たち。

私は人を救うために作り、

そのたびに壊してきた。

光を灯しては消し、信じては裏切られた。

それでも、やめられなかった。


一つひとつの道具の中に、

私の願いが詰まっていた。

“誰かを救いたい”という、たったひとつの想い。

それだけを支えに、私はここまで生き延びてきた。


けれど、その結果がどうなったか――私はすべてを知っている。


誰も救えなかった。

癒そうとした者は、己の傷を見失い、

導こうとした者は、信仰に焼かれ、

欲を抑えようとした者は、逆にそれに飲まれた。


私が与えた道具は、どれも鏡だ。

そこに映るのは、使う者の“心”。

だが、人は自分の心を見ることを恐れる。

それを受け入れるより、壊してしまう方が早いのだ。


それでも――私は彼らを責める気にはなれなかった。

彼らの選択は、私自身の過去と同じだったからだ。



この店も、ずいぶん古くなった。

雨の日にしか現れないせいで、誰も訪れない季節が増えた。

棚の奥の《記録の瞳》は、もう光を失いつつある。

窓辺のカーテンは色を失い、木の床は乾いた音を立てる。

それでも私は、座り続けていた。


机の上の蝋燭の炎は小さく揺れ、

壁に伸びた影が老いた自分の輪郭をなぞっていく。

呼吸は浅く、肺の奥からは錆びたような音がする。

魔力を燃やしすぎた代償は、とうに肉体を蝕んでいた。

夜ごとに骨が軋み、記憶の断片が抜け落ちていく。

だが、“忘れたい”と思ったことは一度もない。



客が来るたびに、胸の奥で何かが動いた。

今度こそ、誰かが救われるかもしれない。

ほんの一瞬、そんな淡い期待を抱く。

だが、結果はいつも同じだった。


魔道具を渡すたびに、私は言葉を添えた。


「この道具は、願いを叶えるためのものではない。

 心を映す鏡だ。恐れずに、自分を見なさい。」


それでも、彼らは同じ道を辿る。

最初は感謝を、次に疑念を、最後には憎悪を向けて去っていく。

使う者が望みを叶えるたびに、

その先で必ず誰かが泣いていた。


「救うことが罪なら、私はどれほどの罪を重ねたのだろうな。」


小さく呟くと、部屋の隅で時計が鳴った。

――カチ、カチ、カチ。

その音が、心臓の鼓動のように重なって聞こえる。


私は、何度も自分の手を見つめた。

この手が、どれほどの人を堕としたのだろう。

だが、それでもやめられなかった。

“諦める”という言葉だけは、どうしても受け入れられなかった。



机の上には、古びたノートがある。

それは、かつての私の研究記録――

人の心を癒やす方法を探していた頃の手稿だ。


ページを開くと、

若い頃の自分の筆跡が浮かび上がる。

墨の匂いはすでに消え、

紙は黄ばみ、端は破れている。

それでも、書かれた文字はまだ鮮明だった。


“人は弱く、そして美しい。

 だからこそ、壊れる前に救わなければならない。”


その一文を見た瞬間、

胸の奥で何かが小さく鳴った。

――まだ終わっていない。

そんな囁きが、骨の隙間から漏れ出す。


「……それでも、信じているのか。」


私は目を閉じ、息を整えた。

老いた身体はもう限界に近い。

だが、心の奥にはまだ熱が残っていた。

それは信仰ではなく、意地のようなものだ。

“人は変われるはずだ”という、理屈にもならぬ確信。


その想いだけが、私をこの椅子に縛りつけていた。



夜が更け、部屋は冷え切っていた。

外は静まり返り、風の音すら聞こえない。

まるで世界そのものが、私の最期を見守っているかのようだった。


棚の上で、《記録の瞳》が一瞬だけ光った。

その中に、微かな人影が映る。

それは、かつての私だった。

まだ若く、希望を語っていた頃の私。

白衣を着て、魔道具の原型を描いている。

その背中は迷いもなく、恐れも知らない。


「……君は、まだ諦めていないのか。」


問いかけると、瞳の中の影が微笑んだ気がした。

そして、淡く消えた。



私は、震える手で新しい紙を取り出した。

インクをすくい、震える指で線を描く。

円、歯車、鍵、そして時の紋。

それは祈りであり、呪いでもあった。

これまでの全てを繋ぐように。

“人を観測し、導き、決して干渉しない”――そんな仕組みを。


机に広がるその図面は、どこかで見た魔法陣に似ていた。

だが、線は魔力の導管ではなく、記録の回路。

私自身の命脈を、少しずつ形にしていく。


「……そうか。

 救えないなら、せめて見届けよう。」


声が震えた。

だが、心の奥では確かな手応えがあった。

私が築いてきた“救えなかった全て”を、

この設計に還元できる気がした。


ペン先が止まり、インクがにじむ。

その瞬間、遠くで雷鳴が鳴った。


――何かが、目を覚まそうとしていた。


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