第10話 金糸の帳簿【後編】―雨の勘定―
雨が降っていた。
窓を叩く細い音が、街の灯をぼやかしている。
昭和の夜、まだいくつものオフィスで残業の明かりが灯っていた。
榊原修一は、ビルの窓に映る自分を見つめた。
スーツの肩には雨染み、目の下には疲労の影。
それでも、その顔には奇妙な満足の色が浮かんでいた。
――会社の頂点に立つ。
それが、彼が帳簿へ最後に記した願いだった。
◇
辞令が出たのは数日前。
営業本部長、取締役候補。
新聞には「若くして昇り詰めた男」として名が載った。
廊下を歩けば部下が頭を下げ、
会議室では彼の言葉ひとつで空気が変わる。
上司も得意先も、笑顔で握手を差し出した。
それでも、何かが少しずつ“ずれて”いた。
同僚であり親友だった男が別部署へ異動した。
「お前が部長なら安心だ」と笑っていたが、
その笑顔はどこか遠く、壁の向こうにあるようだった。
取引先の小さな会社が契約打ち切りを告げてきた。
下積み時代、彼を支えてくれた恩のある相手だった。
「うちには荷が重い」とだけ言い残し、静かに去っていった。
そして、妻から封筒が届いた。
離婚届と、娘の写真。
“あなたの努力を誇りに思っています。
でも、もう笑えない日々に耐えられません。”
榊原はその手紙を何度も読み返した。
なぜこうなったのか、分からなかった。
誰も傷つけていない。ただ真面目に働き、努力しただけだ。
それなのに、みんな離れていく。
(……これが成功の代償か?)
◇
その夜、帳簿を開いた。
金糸の縫い目が、雨の音に合わせて微かに震えている。
ページの奥で光が脈を打ち、
初めて見る“後半の頁”が、勝手に開いた。
そこには、細い筆跡でこう記されていた。
『貸しは必ず返る。
報酬は、等しく“心の距離”で支払われる。』
榊原は息を呑んだ。
その下に金糸で、幾つもの名前が浮かび上がる。
――同僚・田島。
――取引先・三谷商事。
――妻・真弓、娘・美香。
金糸は淡く光り、
繋がっていた糸が、空気の中に溶けて消えた。
(……俺は貸しを受け取った。
だから、返されたのか。)
榊原は椅子にもたれ、
胸の奥がゆっくりと冷えていくのを感じた。
◇
翌日、会社の空気が変わっていた。
オフィスのざわめきがどこか他人事のように響き、
部下の声も遠い。
誰も彼の顔を正面から見なかった。
自分のデスクだけが、音のない空間に浮かんでいる。
壁の時計が、やけに大きく鳴っていた。
(これが、頂点か。)
窓の外では、雨に煙るビル群。
そのどれもが、同じ灰色に見えた。
出世を手にしても、喜びも恐れももう湧かなかった。
声をかけられても気づかない。
周囲の声は遠のき、
自分の存在だけが、異物のように残った。
◇
月日は流れ、会社の空気も変わった。
若手が台頭し、彼の名は誰の口にも上らなくなった。
やがて部署の統合で、榊原は閑職へと追いやられる。
抵抗もできず、静かに会社を去った。
いくつかの転職を繰り返したが、どれも長くは続かない。
彼が入る職場では、なぜか人が次々と辞めていった。
◇
そして今――。
彼はコンビニのレジに立っていた。
店の制服を着て、釣り銭を数えながら微笑む。
最後に行き着いたのは郊外の店。
夜勤、時給九百円。
制服の胸ポケットに、小さな帳簿を忍ばせている。
若い客がスマートフォンで決済を済ませ、
誰も彼を見ようとはしなかった。
ふとガラス越しに自分の顔を見た。
白髪が増え、頬がこけ、目の焦点が合わない。
(……老けたな。)
(……あの時、俺はどこで間違えた?)
分からない。
だがひとつだけ確かだった。
「――もう、この帳簿なしでは生きられない。」
呟きは、冷蔵庫のモーター音に吸い込まれた。
◇
それでも帳簿を手放せなかった。
もう願い事もないはずなのに、
ページを開くだけで胸が落ち着く。
光は弱まり、金糸はほとんど色を失っている。
『新しい職場で認められたい。』
書いた翌日、オーナーが笑顔で話しかけてきた。
「榊原さん、仕事が丁寧で助かってるよ。」
その言葉だけで、一日が明るくなった。
だが数日後――。
オーナーは「娘夫婦のいる海外で暮らす」と言い残し、
店を別の経営者に譲って去った。
新しいオーナーは無表情で言った。
「前任者の方針は今日で終わりです。契約も見直します。」
榊原は静かに頭を下げた。
胸の奥に小さな痛みが生まれる。
けれど、それ以上の感情はなかった。
(また、消えたのか。)
◇
それからも転職を繰り返した。
また願いを書き、また誰かを失った。
繋がることを願うほど、
彼の世界は静かにほどけていった。
願いは現実を変えるが、
そのたびに何かが削り取られていく。
繋がり、声、笑顔、記憶。
少しずつ、世界が薄れていった。
夜勤明け、駅のホームに立ちながら、
彼は帳簿を開いた。
もはやページは白紙に近い。
金糸は途切れ途切れで、
息をしているようにかすかに脈打っている。
『どうして、誰もいないんだろう。』
書きかけて、筆が止まった。
指先が震え、涙が一粒、紙の上に落ちた。
だが帳簿は、もう光らなかった。
◇
クロノスの店。
棚の上で、《金糸の帳簿》が静かに閉じられている。
私は指先で表紙を撫でた。
「……榊原修一。
まだ書き続けているのか。」
この帳簿は、誰も傷つけない。
ただ、“貸し”を返すたびに、繋がりをひとつずつほどいていく。
最後に残るのは、帳簿だけ。
◇
窓の外では、雨が静かに降り続いている。
街の光が濡れた路面に滲み、
人々の影がゆらゆらと行き交う。
(人は孤独を恐れるが、
それ以上に“誰かに見捨てられる自分”を恐れている。)
私は帳簿を棚に戻した。
金糸がかすかに震え、光を失っていく。
扉の外で、鈴の音が鳴る。
「……いらっしゃい。」
新しい足音が、夜の雨を踏みしめて近づいてくる。
外の雨は、静かで、どこまでも優しかった。
まるで――
すべてを失ってもなお、
それでも歩こうとする誰かの涙のように。




