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第10話 金糸の帳簿【後編】―雨の勘定―


雨が降っていた。

窓を叩く細い音が、街の灯をぼやかしている。

昭和の夜、まだいくつものオフィスで残業の明かりが灯っていた。


榊原修一は、ビルの窓に映る自分を見つめた。

スーツの肩には雨染み、目の下には疲労の影。

それでも、その顔には奇妙な満足の色が浮かんでいた。


――会社の頂点に立つ。

それが、彼が帳簿へ最後に記した願いだった。



辞令が出たのは数日前。

営業本部長、取締役候補。

新聞には「若くして昇り詰めた男」として名が載った。


廊下を歩けば部下が頭を下げ、

会議室では彼の言葉ひとつで空気が変わる。

上司も得意先も、笑顔で握手を差し出した。


それでも、何かが少しずつ“ずれて”いた。


同僚であり親友だった男が別部署へ異動した。

「お前が部長なら安心だ」と笑っていたが、

その笑顔はどこか遠く、壁の向こうにあるようだった。


取引先の小さな会社が契約打ち切りを告げてきた。

下積み時代、彼を支えてくれた恩のある相手だった。

「うちには荷が重い」とだけ言い残し、静かに去っていった。


そして、妻から封筒が届いた。

離婚届と、娘の写真。

“あなたの努力を誇りに思っています。

 でも、もう笑えない日々に耐えられません。”


榊原はその手紙を何度も読み返した。

なぜこうなったのか、分からなかった。

誰も傷つけていない。ただ真面目に働き、努力しただけだ。

それなのに、みんな離れていく。


(……これが成功の代償か?)



その夜、帳簿を開いた。

金糸の縫い目が、雨の音に合わせて微かに震えている。

ページの奥で光が脈を打ち、

初めて見る“後半の頁”が、勝手に開いた。


そこには、細い筆跡でこう記されていた。


『貸しは必ず返る。

 報酬は、等しく“心の距離”で支払われる。』


榊原は息を呑んだ。

その下に金糸で、幾つもの名前が浮かび上がる。


――同僚・田島。

――取引先・三谷商事。

――妻・真弓、娘・美香。


金糸は淡く光り、

繋がっていた糸が、空気の中に溶けて消えた。


(……俺は貸しを受け取った。

 だから、返されたのか。)


榊原は椅子にもたれ、

胸の奥がゆっくりと冷えていくのを感じた。



翌日、会社の空気が変わっていた。

オフィスのざわめきがどこか他人事のように響き、

部下の声も遠い。

誰も彼の顔を正面から見なかった。


自分のデスクだけが、音のない空間に浮かんでいる。

壁の時計が、やけに大きく鳴っていた。


(これが、頂点か。)


窓の外では、雨に煙るビル群。

そのどれもが、同じ灰色に見えた。

出世を手にしても、喜びも恐れももう湧かなかった。

声をかけられても気づかない。

周囲の声は遠のき、

自分の存在だけが、異物のように残った。



月日は流れ、会社の空気も変わった。

若手が台頭し、彼の名は誰の口にも上らなくなった。

やがて部署の統合で、榊原は閑職へと追いやられる。

抵抗もできず、静かに会社を去った。


いくつかの転職を繰り返したが、どれも長くは続かない。

彼が入る職場では、なぜか人が次々と辞めていった。



そして今――。


彼はコンビニのレジに立っていた。

店の制服を着て、釣り銭を数えながら微笑む。

最後に行き着いたのは郊外の店。

夜勤、時給九百円。

制服の胸ポケットに、小さな帳簿を忍ばせている。


若い客がスマートフォンで決済を済ませ、

誰も彼を見ようとはしなかった。


ふとガラス越しに自分の顔を見た。

白髪が増え、頬がこけ、目の焦点が合わない。

(……老けたな。)

(……あの時、俺はどこで間違えた?)


分からない。

だがひとつだけ確かだった。


「――もう、この帳簿なしでは生きられない。」


呟きは、冷蔵庫のモーター音に吸い込まれた。



それでも帳簿を手放せなかった。

もう願い事もないはずなのに、

ページを開くだけで胸が落ち着く。


光は弱まり、金糸はほとんど色を失っている。


『新しい職場で認められたい。』


書いた翌日、オーナーが笑顔で話しかけてきた。

「榊原さん、仕事が丁寧で助かってるよ。」

その言葉だけで、一日が明るくなった。


だが数日後――。

オーナーは「娘夫婦のいる海外で暮らす」と言い残し、

店を別の経営者に譲って去った。


新しいオーナーは無表情で言った。

「前任者の方針は今日で終わりです。契約も見直します。」


榊原は静かに頭を下げた。

胸の奥に小さな痛みが生まれる。

けれど、それ以上の感情はなかった。


(また、消えたのか。)



それからも転職を繰り返した。

また願いを書き、また誰かを失った。

繋がることを願うほど、

彼の世界は静かにほどけていった。


願いは現実を変えるが、

そのたびに何かが削り取られていく。

繋がり、声、笑顔、記憶。

少しずつ、世界が薄れていった。


夜勤明け、駅のホームに立ちながら、

彼は帳簿を開いた。

もはやページは白紙に近い。

金糸は途切れ途切れで、

息をしているようにかすかに脈打っている。


『どうして、誰もいないんだろう。』


書きかけて、筆が止まった。

指先が震え、涙が一粒、紙の上に落ちた。

だが帳簿は、もう光らなかった。



クロノスの店。

棚の上で、《金糸の帳簿》が静かに閉じられている。

私は指先で表紙を撫でた。


「……榊原修一。

 まだ書き続けているのか。」


この帳簿は、誰も傷つけない。

ただ、“貸し”を返すたびに、繋がりをひとつずつほどいていく。

最後に残るのは、帳簿だけ。



窓の外では、雨が静かに降り続いている。

街の光が濡れた路面に滲み、

人々の影がゆらゆらと行き交う。


(人は孤独を恐れるが、

 それ以上に“誰かに見捨てられる自分”を恐れている。)


私は帳簿を棚に戻した。

金糸がかすかに震え、光を失っていく。


扉の外で、鈴の音が鳴る。


「……いらっしゃい。」


新しい足音が、夜の雨を踏みしめて近づいてくる。


外の雨は、静かで、どこまでも優しかった。

まるで――

すべてを失ってもなお、

それでも歩こうとする誰かの涙のように。


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