表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
30/32

第10話 金糸の帳簿【中編】―欲の均衡―


雨が上がって数日後。

私は帳簿の光が再び脈打つのを感じていた。

金糸の震えは、淡いが確かだった。

それは“次の願い”が書かれた合図だ。


――榊原修一。

“成功”という名の螺旋に、また一歩足を踏み入れたのだ。



榊原は、狭い社宅の机の上に帳簿を広げていた。

部屋には煙草とインクの匂いがこもっている。

窓の外では、商店街のシャッターが一斉に下りる音がした。

蛍光灯がちらつき、隣室のテレビからはニュースの声。

「高度成長」「経済回復」――そんな言葉が、彼の耳に遠く響く。


『大きな契約を取りたい。』


その一文を書いた瞬間、金糸がわずかに緩む。

光が部屋の空気を震わせ、壁に映る影が揺れた。


その夜、榊原は奇跡のような電話を受ける。

競合相手の企業が突然契約を辞退したという。

翌朝には取引が正式に決まり、彼の会社は莫大な利益を得た。


同僚は榊原の背中を叩き、上司は笑顔で握手した。


「運が味方してるな、榊原。」


榊原はその言葉に満面の笑みで応えた。

翌日から、彼の働き方は一変した。


朝一番に会社に入り、

昨晩の残務を誰よりも早く片付け、

部下の誤った見積もりをこっそり修正し、

上司の机に置かれた資料の不足分を先回りして補った。


「この数字、危ないですよ。僕の方で調整しておきました。」

「助かるよ榊原、君がいると会議が早く終わる。」


昼休みには新人の営業に声をかけ、

コーヒーを奢りながらアドバイスをした。


「焦るな、信頼ってのは一日にして成らずだ。」


その笑顔に嘘はなかった。

彼は確かに善意をもって動いていた。

自分が役に立てることが、心から嬉しかったのだ。


しかし、彼の内側で静かに何かが膨らんでいった。

“自分がいなければ回らない”という実感。

その甘い錯覚は、やがて自尊の肥大へと変わっていく。



帳簿を通して、その熱が伝わってくる。

私はカウンターの上で頁をなぞり、光を見つめた。

その光は以前よりも濃く、赤みを帯びている。


(……まだ均衡は取れている。だが、限界は近い。)


帳簿は貸しと借りを精密に釣り合わせる。

だが、使う者の欲が肥大すれば、釣り合いは一気に崩れる。


――いつも、ここからだ。

成功の光が、次第に影を呼び寄せる。



ある晩、榊原は妻と向き合っていた。

テーブルの上には、娘の描いた家族の絵。

笑っている三人の中で、自分の顔だけが塗りつぶされていた。


「最近、家にいないわね。」


妻の声には、疲労と冷たさが混ざっている。


「仕事だよ。今は大事な時期なんだ。」


「娘がピアノの発表会、見に来てほしいって。」


「……後で埋め合わせする。」


妻はもう何も言わなかった。

ただ、灰皿の上で煙草の灰が静かに落ちた。

その“後で”は、決して来なかった。



彼の仕事は順調だった。

クライアントの重役は笑顔で名刺を差し出し、

社内では“次期部長候補”と噂された。

榊原は、周囲の言葉をすべて“当然”と受け止め始めていた。


「お前がいると安心するよ。」

「君は他とは違う、努力の質が違う。」


そんな声が、まるで麻薬のように彼の血を巡る。

人を救い、助け、優しく振る舞う――

それが、彼自身の優越の証に変わっていく。


「困ってるなら、俺がやろう。」

「任せておけ。俺は誰よりも早く動ける。」


そのたびに、周囲の感謝が彼を満たした。

だがその感謝が、自分の正しさを保証する“燃料”になっていた。


帳簿の光が強まる。

金糸が鼓動のように脈を打ち、机の木目が微かに震えた。

私は唇を引き結び、視線を落とした。


(……やはりだ。光が濃くなるほど、影は深く沈む。)



夜、榊原は帳簿を開いた。

部屋の中には冷めた味噌汁とインスタントコーヒー。

台所のカレンダーには、赤いマル印で娘の誕生日が囲われている。

だが、そこに行くことはなかった。


『誰も俺を疑わないようにしたい。』


金糸がまた震える。

その夜から、彼の言葉は周囲の信頼を得るようになった。

部下は彼を“理想の上司”と呼び、上層部も彼を頼った。


「榊原さんがいると現場が締まりますね。」

「あなたが課長なら安心だ。」


会議室で交わされるその言葉が、

かつての「お疲れさま」よりも甘く響いた。


だが、その分だけ、彼を支えていた者たちの声が消えていった。

妻は静かに家を出ていき、娘の笑い声は途絶えた。



夜、帳簿の中に人影が差す。

頁の奥に、榊原の妻と娘の輪郭がぼんやりと浮かび上がった。

笑っている――だが、その目に光はない。


「……また、か。」


私は小さく呟いた。

帳簿は“世界の均衡”を整える。

榊原が得た幸福の裏で、別の場所に喪失が生まれる。


人はそれを偶然と呼ぶ。

だが、私は知っている。

帳簿は公平だ。

それゆえに、残酷なのだ。



雨が再び降り出した夜。

榊原は酒に酔い、帳簿を開いた。

ペンの先が震えている。

机の上には離婚届。

灰皿には吸い殻が山のように積まれていた。


「どうして誰も、俺を理解しないんだ……」


酒と煙にまみれた声が、部屋の闇に沈む。

彼はペンを取り、歪んだ笑みを浮かべながら書いた。


『俺を妬む奴らがいなくなればいい。』


金糸が小さく脈打つ。

微かな音を立てて、帳簿の頁が揺れた。


翌日、同僚のひとりが交通事故で入院し、

もうひとりは不祥事の責任を取らされて退職した。


「偶然だろう。」


榊原は鏡に向かって呟いた。

だが、鏡の中の顔は笑っていなかった。



帳簿の光は濁り、赤黒く染まり始めていた。

まるで焦げついた金のように、重い輝きだった。

私はその色を見て、唇を噛んだ。


(……人は、均衡の代償を知らない。)


榊原が成功すればするほど、

どこかで“等しい失われ方”が起こる。

帳簿は世界の貸し借りを均す。

だが、それは“幸福の総量”を一定にすることではない。


榊原が上へ上がるほど、誰かが沈む。

そして、彼が気づかぬうちに――沈むのは彼自身になる。


(……まだ、持ち直せる。

 だが、ここを越えればもう戻れない。)



夜の帳簿が、ゆっくりと光を閉じていく。

金糸の震えが止まる。

まるで、一時の安堵を与えるように。


私は静かにその光を見送りながら呟いた。


「人は“借り”を自覚できない。

 それが一番の借金だ。」


窓の外で雷が鳴る。

昭和の街が、一瞬だけ白く光に包まれた。

ネオンの影が滲み、雨が音を失う。


私はゆっくりと帳簿を閉じた。

――榊原修一の“均衡”は、崩壊の直前にある。


それでも私は祈っていた。


“せめて、最後の一行だけは間違えませんように”と。


外では、また雨が降り始めた。

誰かの涙が、静かに世界へ戻されていくように。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ