第10話 金糸の帳簿【中編】―欲の均衡―
雨が上がって数日後。
私は帳簿の光が再び脈打つのを感じていた。
金糸の震えは、淡いが確かだった。
それは“次の願い”が書かれた合図だ。
――榊原修一。
“成功”という名の螺旋に、また一歩足を踏み入れたのだ。
◇
榊原は、狭い社宅の机の上に帳簿を広げていた。
部屋には煙草とインクの匂いがこもっている。
窓の外では、商店街のシャッターが一斉に下りる音がした。
蛍光灯がちらつき、隣室のテレビからはニュースの声。
「高度成長」「経済回復」――そんな言葉が、彼の耳に遠く響く。
『大きな契約を取りたい。』
その一文を書いた瞬間、金糸がわずかに緩む。
光が部屋の空気を震わせ、壁に映る影が揺れた。
その夜、榊原は奇跡のような電話を受ける。
競合相手の企業が突然契約を辞退したという。
翌朝には取引が正式に決まり、彼の会社は莫大な利益を得た。
同僚は榊原の背中を叩き、上司は笑顔で握手した。
「運が味方してるな、榊原。」
榊原はその言葉に満面の笑みで応えた。
翌日から、彼の働き方は一変した。
朝一番に会社に入り、
昨晩の残務を誰よりも早く片付け、
部下の誤った見積もりをこっそり修正し、
上司の机に置かれた資料の不足分を先回りして補った。
「この数字、危ないですよ。僕の方で調整しておきました。」
「助かるよ榊原、君がいると会議が早く終わる。」
昼休みには新人の営業に声をかけ、
コーヒーを奢りながらアドバイスをした。
「焦るな、信頼ってのは一日にして成らずだ。」
その笑顔に嘘はなかった。
彼は確かに善意をもって動いていた。
自分が役に立てることが、心から嬉しかったのだ。
しかし、彼の内側で静かに何かが膨らんでいった。
“自分がいなければ回らない”という実感。
その甘い錯覚は、やがて自尊の肥大へと変わっていく。
◇
帳簿を通して、その熱が伝わってくる。
私はカウンターの上で頁をなぞり、光を見つめた。
その光は以前よりも濃く、赤みを帯びている。
(……まだ均衡は取れている。だが、限界は近い。)
帳簿は貸しと借りを精密に釣り合わせる。
だが、使う者の欲が肥大すれば、釣り合いは一気に崩れる。
――いつも、ここからだ。
成功の光が、次第に影を呼び寄せる。
◇
ある晩、榊原は妻と向き合っていた。
テーブルの上には、娘の描いた家族の絵。
笑っている三人の中で、自分の顔だけが塗りつぶされていた。
「最近、家にいないわね。」
妻の声には、疲労と冷たさが混ざっている。
「仕事だよ。今は大事な時期なんだ。」
「娘がピアノの発表会、見に来てほしいって。」
「……後で埋め合わせする。」
妻はもう何も言わなかった。
ただ、灰皿の上で煙草の灰が静かに落ちた。
その“後で”は、決して来なかった。
◇
彼の仕事は順調だった。
クライアントの重役は笑顔で名刺を差し出し、
社内では“次期部長候補”と噂された。
榊原は、周囲の言葉をすべて“当然”と受け止め始めていた。
「お前がいると安心するよ。」
「君は他とは違う、努力の質が違う。」
そんな声が、まるで麻薬のように彼の血を巡る。
人を救い、助け、優しく振る舞う――
それが、彼自身の優越の証に変わっていく。
「困ってるなら、俺がやろう。」
「任せておけ。俺は誰よりも早く動ける。」
そのたびに、周囲の感謝が彼を満たした。
だがその感謝が、自分の正しさを保証する“燃料”になっていた。
帳簿の光が強まる。
金糸が鼓動のように脈を打ち、机の木目が微かに震えた。
私は唇を引き結び、視線を落とした。
(……やはりだ。光が濃くなるほど、影は深く沈む。)
◇
夜、榊原は帳簿を開いた。
部屋の中には冷めた味噌汁とインスタントコーヒー。
台所のカレンダーには、赤いマル印で娘の誕生日が囲われている。
だが、そこに行くことはなかった。
『誰も俺を疑わないようにしたい。』
金糸がまた震える。
その夜から、彼の言葉は周囲の信頼を得るようになった。
部下は彼を“理想の上司”と呼び、上層部も彼を頼った。
「榊原さんがいると現場が締まりますね。」
「あなたが課長なら安心だ。」
会議室で交わされるその言葉が、
かつての「お疲れさま」よりも甘く響いた。
だが、その分だけ、彼を支えていた者たちの声が消えていった。
妻は静かに家を出ていき、娘の笑い声は途絶えた。
◇
夜、帳簿の中に人影が差す。
頁の奥に、榊原の妻と娘の輪郭がぼんやりと浮かび上がった。
笑っている――だが、その目に光はない。
「……また、か。」
私は小さく呟いた。
帳簿は“世界の均衡”を整える。
榊原が得た幸福の裏で、別の場所に喪失が生まれる。
人はそれを偶然と呼ぶ。
だが、私は知っている。
帳簿は公平だ。
それゆえに、残酷なのだ。
◇
雨が再び降り出した夜。
榊原は酒に酔い、帳簿を開いた。
ペンの先が震えている。
机の上には離婚届。
灰皿には吸い殻が山のように積まれていた。
「どうして誰も、俺を理解しないんだ……」
酒と煙にまみれた声が、部屋の闇に沈む。
彼はペンを取り、歪んだ笑みを浮かべながら書いた。
『俺を妬む奴らがいなくなればいい。』
金糸が小さく脈打つ。
微かな音を立てて、帳簿の頁が揺れた。
翌日、同僚のひとりが交通事故で入院し、
もうひとりは不祥事の責任を取らされて退職した。
「偶然だろう。」
榊原は鏡に向かって呟いた。
だが、鏡の中の顔は笑っていなかった。
◇
帳簿の光は濁り、赤黒く染まり始めていた。
まるで焦げついた金のように、重い輝きだった。
私はその色を見て、唇を噛んだ。
(……人は、均衡の代償を知らない。)
榊原が成功すればするほど、
どこかで“等しい失われ方”が起こる。
帳簿は世界の貸し借りを均す。
だが、それは“幸福の総量”を一定にすることではない。
榊原が上へ上がるほど、誰かが沈む。
そして、彼が気づかぬうちに――沈むのは彼自身になる。
(……まだ、持ち直せる。
だが、ここを越えればもう戻れない。)
◇
夜の帳簿が、ゆっくりと光を閉じていく。
金糸の震えが止まる。
まるで、一時の安堵を与えるように。
私は静かにその光を見送りながら呟いた。
「人は“借り”を自覚できない。
それが一番の借金だ。」
窓の外で雷が鳴る。
昭和の街が、一瞬だけ白く光に包まれた。
ネオンの影が滲み、雨が音を失う。
私はゆっくりと帳簿を閉じた。
――榊原修一の“均衡”は、崩壊の直前にある。
それでも私は祈っていた。
“せめて、最後の一行だけは間違えませんように”と。
外では、また雨が降り始めた。
誰かの涙が、静かに世界へ戻されていくように。




