第10話 金糸の帳簿【前編】―雨の取引―
雨が降っていた。
夜の東京は、アスファルトを鏡にして光っている。
街灯の滲む光、遠くで響く国電の音、ネオンのざらついた色。
濡れた街の息づかいは、人の焦りを飲み込むように静かだった。
この店――《クロノス》が姿を現すのは、いつもこういう夜だ。
誰かが涙を堪え、世界がその涙を空へ還すとき。
棚の奥で、《記録の瞳》が淡く光った。
黒曜石の球体の表面に、波紋のような揺れが走る。
“来訪者の記録”が、私の意識に流れ込む。
名は榊原修一。
三十五歳。商社勤務。
妻と娘がいる。
だが、心の奥は濁った金。
焦りと誇りが絡み合い、底には怯えが沈んでいる。
私は瞳の奥を覗き込む。
映像が滲み、過去の記憶が流れ出す。
――深夜のオフィス。
上司の笑い声。机の上の書類。
「お前の数字、今月もこれか? お情けだな。」
乾いた声が飛ぶ。
榊原は笑って頭を下げるが、背中に汗が張り付いている。
家庭では、妻の冷たい視線。
娘がピアノを弾く音が、妙に遠い。
「あなた、また昇進できなかったの?」
その一言に、彼の喉が詰まる。
胸の奥で、何かがゆっくりと軋んでいた。
寝室の隅、古びた鏡の前で自分の顔を見つめる。
「努力したって、報われねぇ……」
掠れた声が、夜に溶けた。
昇進を逃し、部下に追い抜かれ、
同僚は次々と上へ行く。
榊原はそれでも笑い、残業を続け、
机の引き出しには安定剤と煙草。
“普通”であることだけが彼の誇りだった。
だが今、その誇りさえも音を立てて崩れていく。
(……泣けない人間だな。)
雨が流すのは空の涙。
けれど、泣くことを忘れた者だけが、この店の扉を見つける。
◇
扉が軋み、鈴が鳴る。
湿った風と一緒に、スーツ姿の男が入ってきた。
肩に雨粒を光らせ、革靴の底で水音を響かせている。
「……変な店だな。」
榊原は店内を見回した。
古い時計、無数の瓶、埃をかぶった帳面。
どれも、どこか“生きている”ような気配を放っている。
私はカウンターの奥に座り、彼を静かに見つめた。
「……お探しのものは?」
「運だよ。」
榊原は口元を歪めて笑った。
「この世は実力よりタイミングだ。努力じゃ報われねえ。
……だから、運を買いに来た。」
その言葉に、私はゆっくりと棚の奥から一冊の帳簿を取り出した。
金色の糸で綴じられた古い本。
灯を吸い込むように、淡く光っている。
紙の端から、微かに金属の匂いがした。
「――《金糸の帳簿》。
名前と願いを書けば、“貸し”が返ります。
ただし、“借り”は必ずどこかで返るものです。」
榊原は目を細めた。
「取引か。……俺の得意分野だ。」
「取引とは、等価であることが条件です。
その意味を、忘れないように。」
私は帳簿を差し出した。
男の指が金糸に触れた瞬間、帳簿がかすかに震えた。
彼の瞳の奥に、一瞬だけ光が走る。
契約は、静かに結ばれた。
◇
榊原はカウンターの椅子に腰を下ろし、煙草に火を点けた。
白い煙が店内に流れ、雨音と混じってゆっくりと滞留する。
「……金を動かすのも、気持ちを動かすのも同じだ。
数字を積み上げるより、人を動かす方が早い。」
その口調には、薄い自信と疲労が混ざっていた。
成功する者の声ではなく、すでに追い詰められている者の声だ。
「努力は無駄ですか?」
私がそう問うと、彼は一瞬だけ笑った。
「“無駄”とは言わねえよ。
だが、努力した奴が報われるとは限らねえだろ。」
その笑みには皮肉と諦めがあった。
だが、その奥に“救われたい”という願いが、確かに見えた。
私はただ頷き、帳簿を閉じた。
「その答えは、あなた自身が書くことになるでしょう。」
榊原は煙を吐き、立ち上がった。
「いいね。博打みてえでワクワクするよ。」
「この帳簿は博打ではありません。
ただの“勘定”です。」
男は笑い、傘を肩にかけた。
「じゃあ、その勘定、ちょっと試してみるとするか。」
◇
扉が閉まり、鈴の音が消える。
店内には再び静けさが戻った。
棚の奥で《記録の瞳》がゆっくりと明滅を始める。
私は帳簿を見つめ、微かに目を閉じた。
頁の奥で、金糸がわずかに緩む音がした。
その瞬間、
“誰かの声”が、遠くから流れ込んできた。
――『昇進したい。』
文字にされぬままの願いが、帳簿の中に沈む。
金の光が滲み、部屋の温度が少しだけ下がる。
帳簿の魔力が動き出したのだ。
◇
夜が明け、雨は上がった。
私は椅子に腰を下ろしたまま、目を閉じる。
帳簿を通して、榊原の一日が見える。
いや、“感じる”といった方が正しい。
上司が急病で倒れ、榊原が代理を任された。
会議室の緊張、電話の音、背中の汗の匂い。
彼の心に走る興奮と焦燥が、帳簿の糸を震わせた。
(……こうして均衡は動く。)
帳簿の力は「最も効率の良い形」で貸し借りを整える。
彼の昇進は、他人の退職で補われた。
帳簿は、正確に世界を均等にする。
けれど、それを理解できる人間はほとんどいない。
それが、怖さだ。
私は帳簿の光を見つめながら、ゆっくりと息を吐いた。
(――いつも、ここまではうまくいく。)
昇進、賞賛、成功。
人は“報われた”と錯覚する。
だが、問題はいつだってここからだ。
欲が膨らむと、均衡は傾く。
そして、傾いた天秤は必ず誰かを押し潰す。
それを知っていながら、私は止めない。
観測者とは、見届ける者だからだ。
それでも、心のどこかで祈っている。
――今度こそ、誰も壊れませんように。
◇
私は灯を落とし、帳簿をそっと閉じた。
背表紙に指を当てると、微かな鼓動が伝わってくる。
それはまるで、生きているようだった。
「また一つ、均衡の灯が揺れたか。」
誰にともなく呟く。
帳簿の金糸が、一瞬だけ光を放つ。
それは祝福にも似ていたが、
どこかで、冷たい笑みのようにも見えた。
外では、また雨が降り始めていた。
水滴が窓を伝い、街の灯を歪める。
雨音の向こうで、誰かの人生がゆっくりと動き出していた。




