第9話 贖罪の燭台【前編】―光を乞う者―
雨が降っていた。
冷たい霧を含んだ風が街の灯を曇らせ、石畳を濡らしている。
その音は、かつての王都の鐘の音にどこか似ていた。
だがここは、もうあの国ではない。
かつて“聖女の王国”と呼ばれた国は滅び、今は他国の属領として名だけを残している。
人々はその歴史を「呪われた鏡の物語」と呼んでいた。
私は古びた木の扉を押して、酒場に入った。
ランプの灯がゆらゆらと揺れている。
湿った空気の中で、樽の香りがかすかに甘く漂っていた。
カウンターの端で、老人たちが酒を片手に噂をしていた。
「……あの王、やっぱり最後は気が狂ったらしい。」
「真実を暴く鏡に、己の罪を見たんだとさ。」
「へっ、くだらねえ。あんなもん、もともと呪いの道具だ。」
「いや、聞いた話じゃ封印されたらしいぜ。
砕かれた鏡は燃えもせず、光り続けてたって話だ。」
笑い声が上がる。
だが、私は笑えなかった。
手の中のグラスを見つめながら、わずかに指が震えていた。
(……あの鏡は、壊れていないのか。)
私は旅立つ前に、鏡の破片をひとつだけ持ち出した。
それは光を放たなくなり、ただの硝子のように沈黙している。
だが時折、雨の日だけ――微かに、心臓の鼓動のような脈を見せる。
まるで、まだ何かを見続けているように。
◇
グラスの縁を指でなぞりながら、私は目を閉じた。
頭の奥で、王女の声が蘇る。
――「人は、どうして同じ過ちを繰り返すのでしょう。」
あの問いに、私はまだ答えられない。
鏡は人を救うために作った。
だが、使う者の心が歪めば、それは容易に“裁き”へと変わる。
あの国を壊したのは、鏡ではない。
心だ。
恐れと疑いと、他人を信じられない心。
(それでも、人は……)
兵士の顔が浮かぶ。
牢で鍵を外し、私に言った。
――「あなたが生きて、また誰かを救うなら、それが俺たちの祈りです。」
彼の妹の笑顔。
鏡を覗き、涙の中で安堵を見つけた少女。
そして、王女の瞳。
嘘のない光で、世界を見ようとした人。
彼女たちはもういない。
けれど、彼女たちの“祈り”だけが、まだ胸の奥で燃えていた。
◇
私はグラスの酒を一息にあおり、静かに立ち上がった。
外では、また雨が強くなっている。
扉の外へ出ると、風が頬を打った。
夜の街灯がぼんやりと滲み、道端の水溜まりに光が揺れる。
どこかで鐘が鳴った。
その音が、遠い過去と現在をつなぐように響く。
私は懐から小さな帳面を取り出した。
旅の間に書き溜めた研究記録。
その最後のページに、新しい一行を書き加える。
『光をもって、人を赦す。』
筆先が震え、滲んだ文字の上に雨粒が落ちた。
それでも消えなかった。
(裁くのではなく、赦す光。
過去を暴くのではなく、今を照らす炎。
次こそ、それを形にしよう。)
私は手帳を閉じ、夜空を見上げた。
黒雲の隙間から、一瞬だけ稲光が走る。
その閃光に、私はかすかに笑った。
「王女よ……あなたが見たがった“光”を、今度こそ見つけてみせよう。」
◇
それから数日後、私は郊外の古い修道院を訪ねた。
廃墟のように静まり返った回廊。
その片隅に、古びた祭壇と、割れた燭台がひとつ。
私はそれを見つめ、そっと手を伸ばした。
「火か……光か……あるいは赦しか。」
雨の滴が祭壇の上で弾ける。
その瞬間、割れた燭台の紅玉が、わずかに光を返した。
私は微笑んだ。
――それが、後に《贖罪の燭台》と呼ばれることになる、最初の灯だった。




