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第9話 贖罪の燭台【前編】―光を乞う者―


雨が降っていた。

冷たい霧を含んだ風が街の灯を曇らせ、石畳を濡らしている。

その音は、かつての王都の鐘の音にどこか似ていた。


だがここは、もうあの国ではない。

かつて“聖女の王国”と呼ばれた国は滅び、今は他国の属領として名だけを残している。

人々はその歴史を「呪われた鏡の物語」と呼んでいた。


私は古びた木の扉を押して、酒場に入った。

ランプの灯がゆらゆらと揺れている。

湿った空気の中で、樽の香りがかすかに甘く漂っていた。


カウンターの端で、老人たちが酒を片手に噂をしていた。


「……あの王、やっぱり最後は気が狂ったらしい。」

「真実を暴く鏡に、己の罪を見たんだとさ。」

「へっ、くだらねえ。あんなもん、もともと呪いの道具だ。」

「いや、聞いた話じゃ封印されたらしいぜ。

 砕かれた鏡は燃えもせず、光り続けてたって話だ。」


笑い声が上がる。

だが、私は笑えなかった。

手の中のグラスを見つめながら、わずかに指が震えていた。


(……あの鏡は、壊れていないのか。)


私は旅立つ前に、鏡の破片をひとつだけ持ち出した。

それは光を放たなくなり、ただの硝子のように沈黙している。

だが時折、雨の日だけ――微かに、心臓の鼓動のような脈を見せる。


まるで、まだ何かを見続けているように。



グラスの縁を指でなぞりながら、私は目を閉じた。

頭の奥で、王女の声が蘇る。


――「人は、どうして同じ過ちを繰り返すのでしょう。」


あの問いに、私はまだ答えられない。

鏡は人を救うために作った。

だが、使う者の心が歪めば、それは容易に“裁き”へと変わる。


あの国を壊したのは、鏡ではない。

心だ。

恐れと疑いと、他人を信じられない心。


(それでも、人は……)


兵士の顔が浮かぶ。

牢で鍵を外し、私に言った。


――「あなたが生きて、また誰かを救うなら、それが俺たちの祈りです。」


彼の妹の笑顔。

鏡を覗き、涙の中で安堵を見つけた少女。


そして、王女の瞳。

嘘のない光で、世界を見ようとした人。


彼女たちはもういない。

けれど、彼女たちの“祈り”だけが、まだ胸の奥で燃えていた。



私はグラスの酒を一息にあおり、静かに立ち上がった。

外では、また雨が強くなっている。

扉の外へ出ると、風が頬を打った。


夜の街灯がぼんやりと滲み、道端の水溜まりに光が揺れる。

どこかで鐘が鳴った。

その音が、遠い過去と現在をつなぐように響く。


私は懐から小さな帳面を取り出した。

旅の間に書き溜めた研究記録。

その最後のページに、新しい一行を書き加える。


『光をもって、人を赦す。』


筆先が震え、滲んだ文字の上に雨粒が落ちた。

それでも消えなかった。


(裁くのではなく、赦す光。

 過去を暴くのではなく、今を照らす炎。

 次こそ、それを形にしよう。)


私は手帳を閉じ、夜空を見上げた。

黒雲の隙間から、一瞬だけ稲光が走る。


その閃光に、私はかすかに笑った。


「王女よ……あなたが見たがった“光”を、今度こそ見つけてみせよう。」



それから数日後、私は郊外の古い修道院を訪ねた。

廃墟のように静まり返った回廊。

その片隅に、古びた祭壇と、割れた燭台がひとつ。


私はそれを見つめ、そっと手を伸ばした。


「火か……光か……あるいは赦しか。」


雨の滴が祭壇の上で弾ける。

その瞬間、割れた燭台の紅玉が、わずかに光を返した。


私は微笑んだ。


――それが、後に《贖罪の燭台》と呼ばれることになる、最初の灯だった。


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