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第8話 無垢の鏡【後編】―雨の果て―


雨が戻ってきた。

それは季節の雨ではなく、空が悲しみの重さに耐えかねて流す涙のようだった。


机の上の《無垢の鏡》が淡く光っている。

あの日から、鏡の曇りは消えなかった。

布で拭いても、術式を重ねても、そこに沈むのは人の影のようだった。


私はその曇りを見つめながら、王女の声を思い出していた。


――「人は、どうして同じ過ちを繰り返すのでしょう。」


その声が雨音に混じって聞こえた気がした。

私は思わず鏡の前に座る。

冷たい縁に指をかけた瞬間、耳の奥に微かな囁きが落ちた。


【まだ終わっていません。】


それは確かに“彼女”に似ていた。

だがどこか硬く、焦りの響きを帯びていた。


「……お前は、誰だ。」


返事はない。

ただ、鏡の奥の光が脈打つように明滅した。

まるで心臓の鼓動のようで、私は息を呑んだ。



《無垢の鏡》の噂は、やがて王城へと届いた。

「真実を映す鏡」――

罪の真偽を暴き、裏切りを見抜く奇跡の道具として。


皮肉にも、それを最も欲したのは、かつて王女を処刑へ追いやった王たちだった。


召使いが夜中に現れ、「陛下が賢導師を呼んでおられる」と告げた。

私は分かっていた。

彼らが救いなど求めていないことを。

それでも足は止まらなかった。


(……どうせ、あの国の雨はもう止まらない。)


そう思いながら、鏡を抱えて城へ向かった。



玉座の間には、金の灯がいくつも揺れていた。

王は老い、瞳の奥に恐れを宿していた。

左右には貴族、軍人、聖職者。

衣の擦れる音だけが空気を震わせている。


「賢導師よ、その鏡は真実を映すのか。」


「ええ。ただし、映るのは“己の心”です。」


「ならば、これで疑惑を晴らせる。

 誰が忠義を尽くし、誰が偽りを抱くか、

 この鏡が明かすのだな?」


私は黙った。

忠告は無意味だ。

――彼らは心ではなく、罪を探している。



最初に鏡を覗いたのは、王の側近のひとりだった。

王への反逆を疑われていた将。

鏡の奥に映ったのは、彼が幼い娘を抱き上げる姿だった。


「……陛下、この者は私を裏切ってはおりません。」

王が呟く。

広間がざわめいた。


続けて財務官が鏡を覗くと、

映ったのは民に施しを与える姿。

「民のために尽くす忠臣だ」と称えられた。


奇跡だった。

人は涙し、王は笑った。

その場にいた者すべてが、この鏡こそ“神の裁き”だと信じた。


だが私は、その映像が心の“真実”ではなく、

“信じたい姿”を写していると気づいていた。

鏡は癒やすために作った。

裁くためではない。


それでも、誰も耳を貸さなかった。

王は笑いながら命じた。


「では次は、この国を導く我が身こそ映してみよう。」



鏡の前に立つ王。

その手が縁に触れた瞬間、

空気が変わった。


王の影が伸び、鏡の奥で歪む。

そこに映ったのは、王冠を戴く黒い影。

歪んだ笑みを浮かべ、民の屍の上で玉座に座る姿だった。


「……なんだ、これは。」


王の声が震える。

「違う、これは偽りだ!」


だが鏡は否定しない。

ただ淡い光を放ちながら、王の顔を映し続けていた。


「やめろ……見るな、見るなあああ!」


王の叫びが玉座の間に響く。

彼は胸を押さえ、崩れ落ちた。


重い冠が床に落ち、乾いた音を立てる。

静寂。

誰も動けなかった。


鏡は割れていない。

だが、王の姿はもう映していなかった。



「呪詛の術を使った罪」――

私はその言葉で捕らえられた。

牢の中、鎖の冷たさが皮膚に食い込む。


だが、驚きも怒りも湧かなかった。

「人は、見たいものしか見ない」

王女の言葉が、今になって胸の奥で響いていた。



夜更け、足音がした。

ひとりの兵士が、牢の前に立っていた。

若いが、その目には迷いがなかった。


「……お前が、あの鏡を作った人か。」


「そうだ。何の用だ。」


兵士は短く息を吐いた。

「俺の妹は、あなたに救われた。覚えてるか?

 恋人を失って、死にたがっていた娘だ。」


思い出した。

あの夜、鏡を覗いて涙を流し、

「彼は私を責めていなかった」と微笑んだ少女。


「……お前の妹が。」


兵士は頷いた。

「城の腐りきった連中のことも知ってる。

 でも、あなたは違う。

 妹を救ってくれた人を、俺は見捨てられない。」


彼は腰の鍵を外し、鉄格子を開けた。


「行け。朝になれば処刑だ。」


私は言葉を失った。

「お前は、命を捨てるつもりか?」


兵士は笑った。

「いいえ。あなたが生きて、また誰かを救うなら、

 それが俺たちの“祈り”です。」


胸の奥で、何かが震えた。

「……そうか。ありがとう。」


兵士はうなずき、背を向けた。

「雨が強くなる。急げ。」



城を出たとき、空は泣いていた。

街は静まり返り、人々は王の死を神の裁きだと囁いた。

私は振り返らず、歩き続けた。


懐の中には、小さな鏡の破片。

逃げる前、兵士が「持っていけ」と渡してくれた。


掌の中でそれは、かすかに光を放っていた。

割れてもなお、心臓のように脈打っている。


(……これで終わりじゃない。)


王女の微笑が、雨の中に浮かんだ。

“あなたは見ていてください”

そう告げたあの日の瞳が、まだ消えない。


私は歩きながら呟いた。

「見ていたよ。そして、見てしまった。

 この国が、彼女を殺した理由を。」



夜が深まる。

崖の上の小屋にたどり着くと、

私は破片を机に置き、火を灯した。


鏡の欠片が光を返し、

壁に彼女の輪郭が一瞬だけ浮かんだ。


「……これでは、まだ救いにはならないな。」


呟きながら紙を広げ、筆を取る。

新しい術式の線を描き始めた。

心を壊すのではなく、

“癒す”ための仕組みを探したかった。


筆が震え、雨音が窓を叩く。

その音が、王女の涙のように聞こえた。


「もう少しだけ……もう少しだけでいい。」



外では、再び雨が強くなる。

雷鳴の中、海の向こうに光が走る。


私は筆を止め、窓の外を見た。

遠くの空に、かすかな虹が浮かんでいた。


それは、

王女が祈った“再生”の印のようにも見えた。


私は静かに頭を垂れた。


「――どうか、今度こそ、誰かを救えますように。」


雨は止まない。

だが、その雨はもう、悲しみではなかった。


それが、後に“クロノス”という名へと繋がる、

最初の祈りの雨だった。

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