第8話 無垢の鏡【後編】―雨の果て―
雨が戻ってきた。
それは季節の雨ではなく、空が悲しみの重さに耐えかねて流す涙のようだった。
机の上の《無垢の鏡》が淡く光っている。
あの日から、鏡の曇りは消えなかった。
布で拭いても、術式を重ねても、そこに沈むのは人の影のようだった。
私はその曇りを見つめながら、王女の声を思い出していた。
――「人は、どうして同じ過ちを繰り返すのでしょう。」
その声が雨音に混じって聞こえた気がした。
私は思わず鏡の前に座る。
冷たい縁に指をかけた瞬間、耳の奥に微かな囁きが落ちた。
【まだ終わっていません。】
それは確かに“彼女”に似ていた。
だがどこか硬く、焦りの響きを帯びていた。
「……お前は、誰だ。」
返事はない。
ただ、鏡の奥の光が脈打つように明滅した。
まるで心臓の鼓動のようで、私は息を呑んだ。
◇
《無垢の鏡》の噂は、やがて王城へと届いた。
「真実を映す鏡」――
罪の真偽を暴き、裏切りを見抜く奇跡の道具として。
皮肉にも、それを最も欲したのは、かつて王女を処刑へ追いやった王たちだった。
召使いが夜中に現れ、「陛下が賢導師を呼んでおられる」と告げた。
私は分かっていた。
彼らが救いなど求めていないことを。
それでも足は止まらなかった。
(……どうせ、あの国の雨はもう止まらない。)
そう思いながら、鏡を抱えて城へ向かった。
◇
玉座の間には、金の灯がいくつも揺れていた。
王は老い、瞳の奥に恐れを宿していた。
左右には貴族、軍人、聖職者。
衣の擦れる音だけが空気を震わせている。
「賢導師よ、その鏡は真実を映すのか。」
「ええ。ただし、映るのは“己の心”です。」
「ならば、これで疑惑を晴らせる。
誰が忠義を尽くし、誰が偽りを抱くか、
この鏡が明かすのだな?」
私は黙った。
忠告は無意味だ。
――彼らは心ではなく、罪を探している。
◇
最初に鏡を覗いたのは、王の側近のひとりだった。
王への反逆を疑われていた将。
鏡の奥に映ったのは、彼が幼い娘を抱き上げる姿だった。
「……陛下、この者は私を裏切ってはおりません。」
王が呟く。
広間がざわめいた。
続けて財務官が鏡を覗くと、
映ったのは民に施しを与える姿。
「民のために尽くす忠臣だ」と称えられた。
奇跡だった。
人は涙し、王は笑った。
その場にいた者すべてが、この鏡こそ“神の裁き”だと信じた。
だが私は、その映像が心の“真実”ではなく、
“信じたい姿”を写していると気づいていた。
鏡は癒やすために作った。
裁くためではない。
それでも、誰も耳を貸さなかった。
王は笑いながら命じた。
「では次は、この国を導く我が身こそ映してみよう。」
◇
鏡の前に立つ王。
その手が縁に触れた瞬間、
空気が変わった。
王の影が伸び、鏡の奥で歪む。
そこに映ったのは、王冠を戴く黒い影。
歪んだ笑みを浮かべ、民の屍の上で玉座に座る姿だった。
「……なんだ、これは。」
王の声が震える。
「違う、これは偽りだ!」
だが鏡は否定しない。
ただ淡い光を放ちながら、王の顔を映し続けていた。
「やめろ……見るな、見るなあああ!」
王の叫びが玉座の間に響く。
彼は胸を押さえ、崩れ落ちた。
重い冠が床に落ち、乾いた音を立てる。
静寂。
誰も動けなかった。
鏡は割れていない。
だが、王の姿はもう映していなかった。
◇
「呪詛の術を使った罪」――
私はその言葉で捕らえられた。
牢の中、鎖の冷たさが皮膚に食い込む。
だが、驚きも怒りも湧かなかった。
「人は、見たいものしか見ない」
王女の言葉が、今になって胸の奥で響いていた。
◇
夜更け、足音がした。
ひとりの兵士が、牢の前に立っていた。
若いが、その目には迷いがなかった。
「……お前が、あの鏡を作った人か。」
「そうだ。何の用だ。」
兵士は短く息を吐いた。
「俺の妹は、あなたに救われた。覚えてるか?
恋人を失って、死にたがっていた娘だ。」
思い出した。
あの夜、鏡を覗いて涙を流し、
「彼は私を責めていなかった」と微笑んだ少女。
「……お前の妹が。」
兵士は頷いた。
「城の腐りきった連中のことも知ってる。
でも、あなたは違う。
妹を救ってくれた人を、俺は見捨てられない。」
彼は腰の鍵を外し、鉄格子を開けた。
「行け。朝になれば処刑だ。」
私は言葉を失った。
「お前は、命を捨てるつもりか?」
兵士は笑った。
「いいえ。あなたが生きて、また誰かを救うなら、
それが俺たちの“祈り”です。」
胸の奥で、何かが震えた。
「……そうか。ありがとう。」
兵士はうなずき、背を向けた。
「雨が強くなる。急げ。」
◇
城を出たとき、空は泣いていた。
街は静まり返り、人々は王の死を神の裁きだと囁いた。
私は振り返らず、歩き続けた。
懐の中には、小さな鏡の破片。
逃げる前、兵士が「持っていけ」と渡してくれた。
掌の中でそれは、かすかに光を放っていた。
割れてもなお、心臓のように脈打っている。
(……これで終わりじゃない。)
王女の微笑が、雨の中に浮かんだ。
“あなたは見ていてください”
そう告げたあの日の瞳が、まだ消えない。
私は歩きながら呟いた。
「見ていたよ。そして、見てしまった。
この国が、彼女を殺した理由を。」
◇
夜が深まる。
崖の上の小屋にたどり着くと、
私は破片を机に置き、火を灯した。
鏡の欠片が光を返し、
壁に彼女の輪郭が一瞬だけ浮かんだ。
「……これでは、まだ救いにはならないな。」
呟きながら紙を広げ、筆を取る。
新しい術式の線を描き始めた。
心を壊すのではなく、
“癒す”ための仕組みを探したかった。
筆が震え、雨音が窓を叩く。
その音が、王女の涙のように聞こえた。
「もう少しだけ……もう少しだけでいい。」
◇
外では、再び雨が強くなる。
雷鳴の中、海の向こうに光が走る。
私は筆を止め、窓の外を見た。
遠くの空に、かすかな虹が浮かんでいた。
それは、
王女が祈った“再生”の印のようにも見えた。
私は静かに頭を垂れた。
「――どうか、今度こそ、誰かを救えますように。」
雨は止まない。
だが、その雨はもう、悲しみではなかった。
それが、後に“クロノス”という名へと繋がる、
最初の祈りの雨だった。




