第8話 無垢の鏡【前編】―雨の始まり―
雨が降っていた。
塔の鐘が鈍く鳴り、城下の灯が薄い水の膜に滲んで、すべての輪郭が曖昧になっていく。
空が、誰かの代わりに泣いているように思えた。
私は机に向かっていた。
蝋燭の火が、呼吸を潜めるように細く揺れている。
書きかけの術式が並んだ羊皮紙の上に、手を置いたまま動けなかった。
冷めた茶はもう香りを失い、指先の感覚だけが、ここにいる自分を確かめていた。
私の名は、もう記録には残っていない。
この国で「賢導師」と呼ばれ、人の心の理を探ってきたひとりの学者にすぎない。
人が壊れる前に救う方法を求めて、私は長く書物と術式に没頭していた。
けれど――ひとりの女性を救えなかった。
彼女の名は、もう思い出せない。
それでも、あの瞳だけは焼きついている。
静かな湖のように澄んでいて、痛みを抱えながらも、他人を思いやる光を宿していた。
◇
彼女は王女であり、同時に祈りを司る“城の聖女”だった。
雨を乞い、病を癒やし、貧しき民の手を取る。
誰よりも身分にとらわれず、誰にでも同じ目線で言葉をかける人だった。
その優しさが、やがて彼女の足元を掬うことになるとも知らずに。
王城は、善良を好まない。
まっすぐな光は、影を濃くする。
王位継承をめぐる派閥争い、金で動く商館、功績を奪い合う軍。
そんな濁った流れの中で、彼女の人気と純粋さは、誰かにとって邪魔だった。
噂は、驚くほど簡単に作られた。
御前で供されるはずの蜜酒の樽の底から、黒い粉が見つかった。
厨房の召使いが拷問にかけられ、「祈り手の命令だった」と口にした。
証拠と呼ぶにはあまりに粗末な作り話。
だが、物語はいつだって“分かりやすい悪”を求める。
王女が毒を盛った――それだけで民衆は動いた。
私は彼女の無実を訴え、王城の記録庫を洗い、矛盾を示した。
けれど、賢導師という立場は、政治の力には及ばない。
告発は王家の印で承認され、私は出入りを禁じられた。
彼女の名は、既に「悪女」として広場に貼り出されていた。
◇
処刑の日、空には一滴の雨もなかった。
風だけが吹き荒れ、乾いた音で旗を裂いていた。
民衆は広場を埋めつくし、誰かが「罰を」と叫ぶたびに、群衆の声が波のように膨らんだ。
彼女は縄の前に立ち、うつむかなかった。
誰も責めず、泣きもせず、ただ静かに前を見ていた。
その瞳が、私を見つけた気がした。
助けを求める目ではない。
――“あなたは見ていてください”
そんな穏やかな訴えが、確かにそこにあった。
私は最後の手段を試みた。
衛兵長に、彼女の魂を“検見”する術の許可を求めた。
それは記憶の奥を映すだけの術で、現実を変える力はない。
もしそれが許されれば、彼女の心の真実を人々に見せられると思った。
だが、衛兵長は首を振った。
「秩序を乱すな、賢導師。これは政治だ。」
縄が引かれ、群衆が沸いた。
叫びが、空に吸い込まれて消えた。
その静けさの中で、私は理解した。
――私は、救えなかった。
◇
彼女は“稀代の悪女”として記録に残った。
やがて噂は年代記となり、寓話となった。
城門の壁には「偽善者の最期」という落書きが残った。
善良は、悪意よりも早く忘れられる。
私は自室に戻り、机に突っ伏した。
蝋燭の火が小さく揺れ、息をするたびに消えそうになっていた。
――もし、心を写すことができれば。
――もし、あの場で、彼女の想いを、嘘のない形で見せることができたなら。
そう願ってやまなかった。
◇
私は、狂ったように魔道具の試作を始めた。
心を映す術式は、どれも危うい。
光が強すぎれば魂を焼き、弱すぎれば何も映らない。
理をひとつ間違えれば、心は現実を侵し始める。
私の手から生まれた幾つかの試作品は、人の悪意を“吸い取り”、それを鏡のように返した。
触れた者の心を蝕み、目の前の他人に憎しみを投影する。
それを止める術は、私にもなかった。
ある夜、私はひとつの器具を覗き込み、自分自身の中の“歪み”を見た。
焦り、怒り、後悔、そして――正義への執着。
それは、あの日広場で罵声を上げていた群衆の顔と、何も変わらなかった。
私は鏡を叩き割り、膝をついた。
床に散った破片が光を跳ね返し、その中に王女の瞳が映った気がした。
“あなたまで、壊れないで。”
幻聴だったのかもしれない。
けれど、その声が私を救った。
私はそれ以降、すべての術式に“安全の楔”を打ち込んだ。
映す力を、癒すための一点だけに絞る。
どんな絶望でも、覗いた者の心を“壊さない”ように。
その制約を、術の根に焼きつける。
代償に、造り手の精神は磨耗していったが――それでよかった。
彼女の優しさを思えば、痛みすら贅沢だった。
◇
願いはやがて、形になっていった。
私は術式を組み、素材を集め、何度も失敗した。
水晶の透明度、銀の純度、術文の線の角度――。
どれも彼女の瞳の“濁りのなさ”には届かなかった。
それでも、やめなかった。
彼女に届かなかった手を、次に来る誰かへ伸ばしたかった。
救えるかは分からない。
それでも、諦めたくなかった。
夜更け、雨音が強まるたびに誓いは濃くなった。
「人を救うことを、まだやめない。」
この言葉だけが、火を絶やさずにいてくれた。
◇
完成の夜、雨は再び降った。
蝋燭の炎が一度だけ大きく揺れ、空気が入れ替わる。
机の上に、一枚の鏡があった。
縁は月の金線のように淡く光り、面は静かな水面のように澄んでいる。
私は手を伸ばし、そっと縁に触れた。
銀は冷たく、けれど拒まなかった。
鏡全体が、ごく小さく呼吸をするように震えた。
淡い光が、鏡面の奥に生まれる。
そこに、微笑があった。
悲しみでも怒りでもない。
最後に見た、あの優しい微笑。
胸の奥に、冷たい熱が落ちていった。
それは救いではなく、赦しに似ていた。
――“あなたは見ていた。だから、ここからだ。”
そんな声が、確かに聞こえた気がした。
「……これで、もう誰も苦しまない。」
呟くと、炎がわずかに揺れた。
鏡は答えない。ただ、静かに光っていた。
私は鏡の縁に触れ、言葉にならない礼を胸の内で告げた。
これが、私の“救いへの旅路”の第一歩だった。




