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第8話 無垢の鏡【前編】―雨の始まり―


雨が降っていた。

塔の鐘が鈍く鳴り、城下の灯が薄い水の膜に滲んで、すべての輪郭が曖昧になっていく。

空が、誰かの代わりに泣いているように思えた。


私は机に向かっていた。

蝋燭の火が、呼吸を潜めるように細く揺れている。

書きかけの術式が並んだ羊皮紙の上に、手を置いたまま動けなかった。

冷めた茶はもう香りを失い、指先の感覚だけが、ここにいる自分を確かめていた。


私の名は、もう記録には残っていない。

この国で「賢導師」と呼ばれ、人の心の理を探ってきたひとりの学者にすぎない。

人が壊れる前に救う方法を求めて、私は長く書物と術式に没頭していた。

けれど――ひとりの女性を救えなかった。


彼女の名は、もう思い出せない。

それでも、あの瞳だけは焼きついている。

静かな湖のように澄んでいて、痛みを抱えながらも、他人を思いやる光を宿していた。



彼女は王女であり、同時に祈りを司る“城の聖女”だった。

雨を乞い、病を癒やし、貧しき民の手を取る。

誰よりも身分にとらわれず、誰にでも同じ目線で言葉をかける人だった。

その優しさが、やがて彼女の足元を掬うことになるとも知らずに。


王城は、善良を好まない。

まっすぐな光は、影を濃くする。

王位継承をめぐる派閥争い、金で動く商館、功績を奪い合う軍。

そんな濁った流れの中で、彼女の人気と純粋さは、誰かにとって邪魔だった。


噂は、驚くほど簡単に作られた。

御前で供されるはずの蜜酒の樽の底から、黒い粉が見つかった。

厨房の召使いが拷問にかけられ、「祈り手の命令だった」と口にした。

証拠と呼ぶにはあまりに粗末な作り話。

だが、物語はいつだって“分かりやすい悪”を求める。

王女が毒を盛った――それだけで民衆は動いた。


私は彼女の無実を訴え、王城の記録庫を洗い、矛盾を示した。

けれど、賢導師という立場は、政治の力には及ばない。

告発は王家の印で承認され、私は出入りを禁じられた。

彼女の名は、既に「悪女」として広場に貼り出されていた。



処刑の日、空には一滴の雨もなかった。

風だけが吹き荒れ、乾いた音で旗を裂いていた。

民衆は広場を埋めつくし、誰かが「罰を」と叫ぶたびに、群衆の声が波のように膨らんだ。


彼女は縄の前に立ち、うつむかなかった。

誰も責めず、泣きもせず、ただ静かに前を見ていた。

その瞳が、私を見つけた気がした。

助けを求める目ではない。

――“あなたは見ていてください”

そんな穏やかな訴えが、確かにそこにあった。


私は最後の手段を試みた。

衛兵長に、彼女の魂を“検見あらため”する術の許可を求めた。

それは記憶の奥を映すだけの術で、現実を変える力はない。

もしそれが許されれば、彼女の心の真実を人々に見せられると思った。

だが、衛兵長は首を振った。


「秩序を乱すな、賢導師。これは政治だ。」


縄が引かれ、群衆が沸いた。

叫びが、空に吸い込まれて消えた。

その静けさの中で、私は理解した。


――私は、救えなかった。



彼女は“稀代の悪女”として記録に残った。

やがて噂は年代記となり、寓話となった。

城門の壁には「偽善者の最期」という落書きが残った。

善良は、悪意よりも早く忘れられる。


私は自室に戻り、机に突っ伏した。

蝋燭の火が小さく揺れ、息をするたびに消えそうになっていた。


――もし、心を写すことができれば。

――もし、あの場で、彼女の想いを、嘘のない形で見せることができたなら。


そう願ってやまなかった。



私は、狂ったように魔道具の試作を始めた。

心を映す術式は、どれも危うい。

光が強すぎれば魂を焼き、弱すぎれば何も映らない。

理をひとつ間違えれば、心は現実を侵し始める。


私の手から生まれた幾つかの試作品は、人の悪意を“吸い取り”、それを鏡のように返した。

触れた者の心を蝕み、目の前の他人に憎しみを投影する。

それを止める術は、私にもなかった。


ある夜、私はひとつの器具を覗き込み、自分自身の中の“歪み”を見た。

焦り、怒り、後悔、そして――正義への執着。

それは、あの日広場で罵声を上げていた群衆の顔と、何も変わらなかった。


私は鏡を叩き割り、膝をついた。

床に散った破片が光を跳ね返し、その中に王女の瞳が映った気がした。


“あなたまで、壊れないで。”


幻聴だったのかもしれない。

けれど、その声が私を救った。


私はそれ以降、すべての術式に“安全のくさび”を打ち込んだ。

映す力を、癒すための一点だけに絞る。

どんな絶望でも、覗いた者の心を“壊さない”ように。

その制約を、術の根に焼きつける。

代償に、造り手の精神は磨耗していったが――それでよかった。

彼女の優しさを思えば、痛みすら贅沢だった。



願いはやがて、形になっていった。

私は術式を組み、素材を集め、何度も失敗した。

水晶の透明度、銀の純度、術文の線の角度――。

どれも彼女の瞳の“濁りのなさ”には届かなかった。


それでも、やめなかった。

彼女に届かなかった手を、次に来る誰かへ伸ばしたかった。

救えるかは分からない。

それでも、諦めたくなかった。


夜更け、雨音が強まるたびに誓いは濃くなった。

「人を救うことを、まだやめない。」

この言葉だけが、火を絶やさずにいてくれた。



完成の夜、雨は再び降った。

蝋燭の炎が一度だけ大きく揺れ、空気が入れ替わる。

机の上に、一枚の鏡があった。

縁は月の金線のように淡く光り、面は静かな水面のように澄んでいる。


私は手を伸ばし、そっと縁に触れた。

銀は冷たく、けれど拒まなかった。

鏡全体が、ごく小さく呼吸をするように震えた。


淡い光が、鏡面の奥に生まれる。

そこに、微笑があった。

悲しみでも怒りでもない。

最後に見た、あの優しい微笑。


胸の奥に、冷たい熱が落ちていった。

それは救いではなく、赦しに似ていた。

――“あなたは見ていた。だから、ここからだ。”

そんな声が、確かに聞こえた気がした。


「……これで、もう誰も苦しまない。」


呟くと、炎がわずかに揺れた。

鏡は答えない。ただ、静かに光っていた。


私は鏡の縁に触れ、言葉にならない礼を胸の内で告げた。

これが、私の“救いへの旅路”の第一歩だった。


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