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第1話 ポーション【前編】―再起の薬―


雨が降っていた。

細く、冷たく、街の輪郭をぼやかすように。

アスファルトの匂いと、遠くを走る車の音だけが、世界がまだ続いていることを教えていた。


佐野悠斗さのゆうと、二十三歳。

地方クラブチームの二軍に所属する控えのフォワード。


高校時代は“天才ストライカー”と呼ばれた。

雑誌にも名前が載り、強豪大学から声もかかっていた。

スタンドには自分の名前を呼ぶ声があった。

自分の未来は、あの頃、本当に輝いて見えていた。


あの日、膝を壊すまでは。


無理なタックル、嫌な音、倒れ込んだ芝の冷たさ。

手術をしても、前のようには走れなかった。

リハビリを続けても、痛みは気まぐれに顔を出す。

監督は「焦るな」と言いながら、試合のベンチに別の名前を書き続けた。


「これ以上無理をすれば選手生命は終わる」


医者の言葉は、宣告というより、諦めのための優しさに聞こえた。

だが、その優しさが一番きつかった。


ここ半年、二軍のベンチに座る時間のほうが長い。

練習でも、若手に遠慮される。

本気でぶつかられもしない。


「もう、限界かもしれない……」


誰に聞かせるでもなく呟いた声は、雨音に飲み込まれた。



ポケットの中でスマホが震える。

画面を開くと、スポンサー契約終了の通知が届いていた。


(ああ、そうだよな)


心のどこかで分かっていたことを、改めて数字で突きつけられた気分だった。

試合に出ない選手を応援し続ける理由なんてない。


そろそろ、本気で引退も考えなければいけない。

でも、やめてしまったら、自分には何も残らない。


サッカー以外にできることなんてない。

勉強もしてこなかった。

アルバイト歴もない。

「プロを目指してます」の一言で、全部守られてきた。


(終わったら、俺は何になるんだろう)


帰りたくなかった。

実家に帰れば、母親の心配そうな顔がある。

「大丈夫?」と聞かれるたびに、自分のみじめさが増えていく。


寮に帰れば、試合に出ている連中の笑い声が聞こえる。

その中に入る自信は、もう残っていなかった。


ただ、雨の中を歩いた。

濡れていく服も靴も、そのままにして。

罰を受けているみたいだと、ふと思う。


ふと、視界の端に光が揺れた。


路地裏。

メイン通りから外れた細い石畳の奥に、古びた木の扉が一枚。

その上に、小さな看板が掛かっている。


「クロノス」


聞いたことのない店名。

雨粒が看板を叩いても、文字はにじまない。


ここだけ、時間が切り離されているように静かだった。


気づけば、悠斗はその扉の前に立っていた。

引き返す理由も、入らない理由も、もう何も思いつかなかった。


扉を押す。



中は薄暗く、外より少し冷たい。

だが、湿気はなく、ほのかに甘い香りが漂っていた。

香木と古い紙と、どこか薬品めいた匂い。


棚には、小瓶や金属製の器具、用途不明の道具が隙間なく並んでいる。

どれも見たことがない形なのに、不思議と目を離せない。


その奥、カウンターの向こうに、黒いローブの人物が佇んでいた。

フードを深く被り、顔は影に沈んでいる。

年齢も、性別も、日本人かどうかすら分からない。


「……いらっしゃい。」


静かな声だった。

押しつけがましくも、優しくもない。

ただ、そこに在る声。


「ここ……何の店ですか。」


そう聞くと、自分でも驚くほど声が掠れていた。


ローブの人物は、ほんの少し首を傾げた。


「あなたの“望み”に、かたちを与える店です。」


曖昧すぎる答えに苛立つ余裕もなく、

悠斗の口から、こぼれるように言葉が出た。


「俺は……怪我を治したい。

 また前みたいに走りたい。シュートを打ちたい。

 あの頃みたいに、期待されたいんです。」


それは、誰にも見せたことのない、本音だった。


ローブの影の奥で、目が細められたような気がした。


「あなたは、“過去の自分”を取り戻したいのですね。」


図星を刺され、胸が痛くなる。


人物は棚の奥に手を伸ばし、掌に収まる奇妙な装置を取り出した。


金属とガラスが組み合わされ、中央に小さな瓶が差し込まれている。

その瓶の中で、淡い光がまだ生まれきらない星のように揺れていた。


「《ポーション製造機》。

 あなたの“望む状態”を映し、薬として形にする。

 ただし――それは、本当の回復とは限りません。」


その言葉は、忠告というよりも、

どこか諦めと祈りが混ざった響きだった。


意味はよく分からない。

だが、このまま何もしなければ、本当に終わる。


「いくらですか。」


問いかけると、ローブの人物は短く答えた。


「支払いは、もう済んでいます。」


「は?」


聞き返す前に、装置が淡く光った。

次の瞬間、悠斗の手の中に、その重みがあった。


振り向いたときには、店内の灯りが少し揺れているだけで、

店主はもう、そこにいるのかいないのかさえ曖昧だった。


何かおかしい。

そう思ったはずなのに、

「これでまた走れる」と思った瞬間、

全ての違和感は押し流されていった。



翌朝。


頭が重く、靴も服も濡れたままだった。

最悪の目覚め――のはずが、机の上を見て息を呑む。


昨夜の装置が、そこにあった。


「……夢じゃ、ない。」


恐る恐る指で触れる。


瓶の底から、青い光がふわりと立ちのぼった。

透明な液体が静かに満ちていき、

部屋に甘い香りが広がる。


冷たく澄んだ、雨上がりの空の色。


「……これが、薬……?」


胸が早鐘を打つ。

怖さと期待が混ざって、指が震える。


「頼む……もう一度だけでいい。走らせてくれ。」


そう呟いて、一息に飲み干した。


冷たさが喉を通り、胸の奥で弾け、

次の瞬間、全身に熱が駆け巡る。


視界がひとつ明るくなった。

膝に手を当てる。

痛みが、ない。


立ち上がる。

一歩、二歩、三歩。

走る。


本当に走れた。


床を蹴る感覚、脚が前に出る自然さ。

叫び声のような笑いが漏れた。


「やった……俺は、まだやれる……!」


涙がにじむ。

あの頃と同じ体を、取り戻したような錯覚。



その日、悠斗は練習場に向かった。

監督もチームメイトも驚いた顔をした。


「お前、キレ戻ってるじゃねぇか。」

「なんだよその動き、反則だろ。」


久しぶりに浴びる冗談混じりの声が、心地よかった。

シュートを打てば、ボールは気持ちよくネットを揺らす。


その夜、部屋に戻り、

机の上の《ポーション製造機》を見つめる。


瓶の中には、もう光はなかった。

けれど、指を触れれば、きっとまた満ちるのだろう。


――これがあれば、もう大丈夫だ。

――俺はまた、あの場所に戻れる。


指先が、無意識に瓶へと伸びた。


青い光が、また静かに灯る。

その光は、雨粒のようにきれいで、どこか血のように妖しい色を帯びていた。


それが、最初の一滴。

彼の人生を変える、最初の“毒”だった。

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