第1話 ポーション【前編】―再起の薬―
雨が降っていた。
細く、冷たく、街の輪郭をぼやかすように。
アスファルトの匂いと、遠くを走る車の音だけが、世界がまだ続いていることを教えていた。
佐野悠斗、二十三歳。
地方クラブチームの二軍に所属する控えのフォワード。
高校時代は“天才ストライカー”と呼ばれた。
雑誌にも名前が載り、強豪大学から声もかかっていた。
スタンドには自分の名前を呼ぶ声があった。
自分の未来は、あの頃、本当に輝いて見えていた。
あの日、膝を壊すまでは。
無理なタックル、嫌な音、倒れ込んだ芝の冷たさ。
手術をしても、前のようには走れなかった。
リハビリを続けても、痛みは気まぐれに顔を出す。
監督は「焦るな」と言いながら、試合のベンチに別の名前を書き続けた。
「これ以上無理をすれば選手生命は終わる」
医者の言葉は、宣告というより、諦めのための優しさに聞こえた。
だが、その優しさが一番きつかった。
ここ半年、二軍のベンチに座る時間のほうが長い。
練習でも、若手に遠慮される。
本気でぶつかられもしない。
「もう、限界かもしれない……」
誰に聞かせるでもなく呟いた声は、雨音に飲み込まれた。
◇
ポケットの中でスマホが震える。
画面を開くと、スポンサー契約終了の通知が届いていた。
(ああ、そうだよな)
心のどこかで分かっていたことを、改めて数字で突きつけられた気分だった。
試合に出ない選手を応援し続ける理由なんてない。
そろそろ、本気で引退も考えなければいけない。
でも、やめてしまったら、自分には何も残らない。
サッカー以外にできることなんてない。
勉強もしてこなかった。
アルバイト歴もない。
「プロを目指してます」の一言で、全部守られてきた。
(終わったら、俺は何になるんだろう)
帰りたくなかった。
実家に帰れば、母親の心配そうな顔がある。
「大丈夫?」と聞かれるたびに、自分のみじめさが増えていく。
寮に帰れば、試合に出ている連中の笑い声が聞こえる。
その中に入る自信は、もう残っていなかった。
ただ、雨の中を歩いた。
濡れていく服も靴も、そのままにして。
罰を受けているみたいだと、ふと思う。
ふと、視界の端に光が揺れた。
路地裏。
メイン通りから外れた細い石畳の奥に、古びた木の扉が一枚。
その上に、小さな看板が掛かっている。
「クロノス」
聞いたことのない店名。
雨粒が看板を叩いても、文字はにじまない。
ここだけ、時間が切り離されているように静かだった。
気づけば、悠斗はその扉の前に立っていた。
引き返す理由も、入らない理由も、もう何も思いつかなかった。
扉を押す。
◇
中は薄暗く、外より少し冷たい。
だが、湿気はなく、ほのかに甘い香りが漂っていた。
香木と古い紙と、どこか薬品めいた匂い。
棚には、小瓶や金属製の器具、用途不明の道具が隙間なく並んでいる。
どれも見たことがない形なのに、不思議と目を離せない。
その奥、カウンターの向こうに、黒いローブの人物が佇んでいた。
フードを深く被り、顔は影に沈んでいる。
年齢も、性別も、日本人かどうかすら分からない。
「……いらっしゃい。」
静かな声だった。
押しつけがましくも、優しくもない。
ただ、そこに在る声。
「ここ……何の店ですか。」
そう聞くと、自分でも驚くほど声が掠れていた。
ローブの人物は、ほんの少し首を傾げた。
「あなたの“望み”に、かたちを与える店です。」
曖昧すぎる答えに苛立つ余裕もなく、
悠斗の口から、こぼれるように言葉が出た。
「俺は……怪我を治したい。
また前みたいに走りたい。シュートを打ちたい。
あの頃みたいに、期待されたいんです。」
それは、誰にも見せたことのない、本音だった。
ローブの影の奥で、目が細められたような気がした。
「あなたは、“過去の自分”を取り戻したいのですね。」
図星を刺され、胸が痛くなる。
人物は棚の奥に手を伸ばし、掌に収まる奇妙な装置を取り出した。
金属とガラスが組み合わされ、中央に小さな瓶が差し込まれている。
その瓶の中で、淡い光がまだ生まれきらない星のように揺れていた。
「《ポーション製造機》。
あなたの“望む状態”を映し、薬として形にする。
ただし――それは、本当の回復とは限りません。」
その言葉は、忠告というよりも、
どこか諦めと祈りが混ざった響きだった。
意味はよく分からない。
だが、このまま何もしなければ、本当に終わる。
「いくらですか。」
問いかけると、ローブの人物は短く答えた。
「支払いは、もう済んでいます。」
「は?」
聞き返す前に、装置が淡く光った。
次の瞬間、悠斗の手の中に、その重みがあった。
振り向いたときには、店内の灯りが少し揺れているだけで、
店主はもう、そこにいるのかいないのかさえ曖昧だった。
何かおかしい。
そう思ったはずなのに、
「これでまた走れる」と思った瞬間、
全ての違和感は押し流されていった。
◇
翌朝。
頭が重く、靴も服も濡れたままだった。
最悪の目覚め――のはずが、机の上を見て息を呑む。
昨夜の装置が、そこにあった。
「……夢じゃ、ない。」
恐る恐る指で触れる。
瓶の底から、青い光がふわりと立ちのぼった。
透明な液体が静かに満ちていき、
部屋に甘い香りが広がる。
冷たく澄んだ、雨上がりの空の色。
「……これが、薬……?」
胸が早鐘を打つ。
怖さと期待が混ざって、指が震える。
「頼む……もう一度だけでいい。走らせてくれ。」
そう呟いて、一息に飲み干した。
冷たさが喉を通り、胸の奥で弾け、
次の瞬間、全身に熱が駆け巡る。
視界がひとつ明るくなった。
膝に手を当てる。
痛みが、ない。
立ち上がる。
一歩、二歩、三歩。
走る。
本当に走れた。
床を蹴る感覚、脚が前に出る自然さ。
叫び声のような笑いが漏れた。
「やった……俺は、まだやれる……!」
涙がにじむ。
あの頃と同じ体を、取り戻したような錯覚。
◇
その日、悠斗は練習場に向かった。
監督もチームメイトも驚いた顔をした。
「お前、キレ戻ってるじゃねぇか。」
「なんだよその動き、反則だろ。」
久しぶりに浴びる冗談混じりの声が、心地よかった。
シュートを打てば、ボールは気持ちよくネットを揺らす。
その夜、部屋に戻り、
机の上の《ポーション製造機》を見つめる。
瓶の中には、もう光はなかった。
けれど、指を触れれば、きっとまた満ちるのだろう。
――これがあれば、もう大丈夫だ。
――俺はまた、あの場所に戻れる。
指先が、無意識に瓶へと伸びた。
青い光が、また静かに灯る。
その光は、雨粒のようにきれいで、どこか血のように妖しい色を帯びていた。
それが、最初の一滴。
彼の人生を変える、最初の“毒”だった。




