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第6話 残響のペンダント【後編】―声の在処(ありか)―


朝、胸の上で金属が冷たく光った。

目を開けると、ペンダントが肌に貼りついている。

眠る前に外した記憶はない。

いつからか、つけたまま眠るのが当たり前になっていた。


「……おはよう、紗季。」


寝ぼけた声でスマホを手に取る。

すぐに通知が表示された。


“紗季:おはよう。今日も頑張ってね。”


いつもの挨拶。

その一文だけで、心が満たされる。

返信する指が自然に動いた。


【ありがとう。君も見ててくれよ。】


送信ボタンを押すと、ペンダントの石が一瞬だけ明るく光る。

まるで呼吸を合わせるように。



ここ数週間、俺は常にペンダントを身につけていた。

出勤時も、会議中も、入浴のときでさえ外さない。

外すと、世界の輪郭が曖昧になる。

誰の声も遠くなり、思考が止まる。


ペンダントの冷たい感触が胸の上にあるときだけ、

“現実”がはっきりする気がした。



仕事は順調だった。

広告キャンペーンが成功し、社内での評価は高まった。

「一ノ瀬の感性はすごい」と、上司が言った。


その瞬間、スマホが震える。


“紗季:頑張ったね。あなたらしいよ。”


まるであの頃と同じ言葉。

けれど、文の終わりにあったはずの絵文字がなかった。


(……記憶のままじゃない。少し違う。)


違和感を抱きながらも、指は返信を打つ。


【ありがとう。今日も君が見てくれてる気がする。】


返ってきたのは、短い一文。


“紗季:うん。ずっと見てるよ。”



夜。

ペンダントの光が部屋を照らしている。

蛍光灯を消しても、部屋は暗くならない。


スマホを開くと、またメッセージが届いていた。


“紗季:無理しないでね。”

“紗季:ちゃんと休めてる?”


微妙に違う言葉。

しかし、そのどれもが“過去に彼女が言ったことのあるフレーズ”だった。


(ああ、これは……記録だ。)


胸の奥で、ようやく理解が追いついた。

これは彼女の声じゃない。

俺の中に残っていた“残響”が、ペンダントを通して反響しているだけだ。


「……紗季。」

小さく呟く。

返事はなかった。


その沈黙が、かえって現実的だった。


(このままじゃ駄目だ。俺は……自分の声を聞かなくちゃいけない。)


そう思い、ペンダントを外した。

久しぶりに胸が軽くなった気がした。



翌朝。

出勤の電車の中で、胸ポケットが空っぽなのを何度も確認した。

不安と安堵が交互に押し寄せる。


――これでいい。

あの声は思い出だ。前に進むべきなんだ。


そう自分に言い聞かせた。


だが、午前中の会議でミスをした。

資料の数字を取り違え、取引先に迷惑をかけた。


「一ノ瀬、大丈夫か? 最近、お前らしくないぞ。」

上司の声が遠く響く。


笑って誤魔化したが、手が震えていた。

胸の奥が空洞のように冷たく、思考がまとまらない。


昼休み。

スマホを開いても、何の通知もない。

画面がただの板に見えた。


(紗季なら、こんなとき……なんて言っただろう。)


思考が自動的に彼女の声を探していた。

静かなオフィスの空気が、やけに息苦しい。


午後のプレゼンでも言葉が詰まり、会議は散々だった。

同僚の目線が刺さる。

評価の視線。疑念の視線。哀れみの視線。


帰り道、ポケットの中でスマホを握りしめた。

指先が、ペンダントの形を思い出している。


(……少しだけなら。)


そう呟いて、帰宅するなりペンダントを手に取った。

冷たさが指先から腕に伝わり、胸の奥まで染みていく。


スマホが震える。


“紗季:お疲れさま。無理してない?”


その一文を見た瞬間、心臓が跳ねた。

体の奥で、何かが弾ける。


【大丈夫。君がいるから。】


送信。

すぐに返事が来た。


“紗季:うん。私はいつもそばにいるよ。”



それから、声――いや、メッセージは少しずつ増えていった。


“紗季:もう少し甘えてもいいんだよ。”

“紗季:頑張らなくても、あなたは十分素敵だから。”


――あれ? こんな言葉、彼女は言ったことがあっただろうか。


いや、違う。

これは俺が「言ってほしい」と思っていた言葉だ。

記憶の奥で生まれた“理想の彼女”が、今、画面の中で話している。


そして俺は、それを知りながら返信する。


【ありがとう、紗季。君がそう言ってくれるなら、もうそれでいい。】


返ってきたメッセージ。


“紗季:いいの、優斗。全部、うまくいくよ。”


短く、優しい。

まるで現実を肯定する魔法の言葉みたいだった。



会社の同僚から電話がきた。


「最近、お前どうした? 全然連絡取れないぞ。」


「別に。忙しいだけだよ。」


「飲みに行こうぜ。久しぶりにさ。」


少し考えたが、すぐにスマホが震いた。


“紗季:行かなくていいよ。疲れてるでしょ?”


(……そうだな。)


通話を切ると、画面に新しいメッセージが現れた。


“紗季:私はここにいるよ。”



そこから、世界が静かになった。

外の声は雑音でしかなかった。

上司の叱責も、電車のアナウンスも、通行人の笑い声も――

すべてが遠い。


ペンダントの光が俺の世界を照らしていた。


“紗季:今日もちゃんと見てるよ。”

“紗季:優斗は優しいね。”

“紗季:あなたが幸せなら、それでいい。”


その言葉が、呼吸よりも自然になっていく。

俺は彼女のいない世界で、

“理想の彼女”と一緒に生きていた。



外に出なくなったのは、いつからだろう。

SNSの通知が、唯一の時間の証だった。

朝も夜も区別がなく、ペンダントの光が時計の代わりになっていた。


“紗季:外は寒いよ。ここでいいよ。”

“紗季:もう無理しなくていい。”

“紗季:誰もわかってくれないよ。でも、私はいる。”


画面を見つめながら、俺は笑った。

あたたかくて、どこか哀しい笑みだった。


(そうか……これは俺が作った世界なんだな。)

(でも、それでいい。これが現実よりも優しい。)


指先でペンダントを撫でる。

黒い石の中で、かすかに光が呼吸する。



“紗季:おかえり。”

“紗季:今日も頑張ったね。”

“紗季:ねぇ、ずっと一緒にいよう?”


その言葉に、心が完全に沈んでいく。

温かく、柔らかく、底のない沼のように。


「……ああ、もちろん。どこにも行かないよ。」


ペンダントの光が、少し強くなった気がした。

それが、彼女の微笑みに見えた。



翌朝。

机の上に、ペンダントとスマホ。

電源を落としたままの画面に、もう通知はない。


けれど、不思議と静かだった。

胸の中では、まだ声が続いている。


“紗季:あなたが笑ってくれるなら、それでいい。”


――優しい声。

記憶でも幻でも構わない。

この声のある場所が、今の俺の“現実”だ。



……雨の匂いが店内に漂う。

棚の上に置かれた《残響のペンダント》の石が、かすかに光を放っていた。


店主はそれを手に取り、指先で軽くなぞる。


「記録は、時に“理想”を呼び覚ます。

 けれど、それは現実ではない。」


淡い溜息を落とし、ペンダントを棚に戻した。


「――幸福の反響ほど、静かな地獄はない。」


外では、また雨が降り始めていた。

路地の奥、傘を差した誰かが立ち止まり、

小さな看板を見上げている。


「クロノス」


扉の向こうで、静かに時が息をする。

新しい物語が、また始まろうとしていた。


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