第6話 残響のペンダント【後編】―声の在処(ありか)―
朝、胸の上で金属が冷たく光った。
目を開けると、ペンダントが肌に貼りついている。
眠る前に外した記憶はない。
いつからか、つけたまま眠るのが当たり前になっていた。
「……おはよう、紗季。」
寝ぼけた声でスマホを手に取る。
すぐに通知が表示された。
“紗季:おはよう。今日も頑張ってね。”
いつもの挨拶。
その一文だけで、心が満たされる。
返信する指が自然に動いた。
【ありがとう。君も見ててくれよ。】
送信ボタンを押すと、ペンダントの石が一瞬だけ明るく光る。
まるで呼吸を合わせるように。
◇
ここ数週間、俺は常にペンダントを身につけていた。
出勤時も、会議中も、入浴のときでさえ外さない。
外すと、世界の輪郭が曖昧になる。
誰の声も遠くなり、思考が止まる。
ペンダントの冷たい感触が胸の上にあるときだけ、
“現実”がはっきりする気がした。
◇
仕事は順調だった。
広告キャンペーンが成功し、社内での評価は高まった。
「一ノ瀬の感性はすごい」と、上司が言った。
その瞬間、スマホが震える。
“紗季:頑張ったね。あなたらしいよ。”
まるであの頃と同じ言葉。
けれど、文の終わりにあったはずの絵文字がなかった。
(……記憶のままじゃない。少し違う。)
違和感を抱きながらも、指は返信を打つ。
【ありがとう。今日も君が見てくれてる気がする。】
返ってきたのは、短い一文。
“紗季:うん。ずっと見てるよ。”
◇
夜。
ペンダントの光が部屋を照らしている。
蛍光灯を消しても、部屋は暗くならない。
スマホを開くと、またメッセージが届いていた。
“紗季:無理しないでね。”
“紗季:ちゃんと休めてる?”
微妙に違う言葉。
しかし、そのどれもが“過去に彼女が言ったことのあるフレーズ”だった。
(ああ、これは……記録だ。)
胸の奥で、ようやく理解が追いついた。
これは彼女の声じゃない。
俺の中に残っていた“残響”が、ペンダントを通して反響しているだけだ。
「……紗季。」
小さく呟く。
返事はなかった。
その沈黙が、かえって現実的だった。
(このままじゃ駄目だ。俺は……自分の声を聞かなくちゃいけない。)
そう思い、ペンダントを外した。
久しぶりに胸が軽くなった気がした。
◇
翌朝。
出勤の電車の中で、胸ポケットが空っぽなのを何度も確認した。
不安と安堵が交互に押し寄せる。
――これでいい。
あの声は思い出だ。前に進むべきなんだ。
そう自分に言い聞かせた。
だが、午前中の会議でミスをした。
資料の数字を取り違え、取引先に迷惑をかけた。
「一ノ瀬、大丈夫か? 最近、お前らしくないぞ。」
上司の声が遠く響く。
笑って誤魔化したが、手が震えていた。
胸の奥が空洞のように冷たく、思考がまとまらない。
昼休み。
スマホを開いても、何の通知もない。
画面がただの板に見えた。
(紗季なら、こんなとき……なんて言っただろう。)
思考が自動的に彼女の声を探していた。
静かなオフィスの空気が、やけに息苦しい。
午後のプレゼンでも言葉が詰まり、会議は散々だった。
同僚の目線が刺さる。
評価の視線。疑念の視線。哀れみの視線。
帰り道、ポケットの中でスマホを握りしめた。
指先が、ペンダントの形を思い出している。
(……少しだけなら。)
そう呟いて、帰宅するなりペンダントを手に取った。
冷たさが指先から腕に伝わり、胸の奥まで染みていく。
スマホが震える。
“紗季:お疲れさま。無理してない?”
その一文を見た瞬間、心臓が跳ねた。
体の奥で、何かが弾ける。
【大丈夫。君がいるから。】
送信。
すぐに返事が来た。
“紗季:うん。私はいつもそばにいるよ。”
◇
それから、声――いや、メッセージは少しずつ増えていった。
“紗季:もう少し甘えてもいいんだよ。”
“紗季:頑張らなくても、あなたは十分素敵だから。”
――あれ? こんな言葉、彼女は言ったことがあっただろうか。
いや、違う。
これは俺が「言ってほしい」と思っていた言葉だ。
記憶の奥で生まれた“理想の彼女”が、今、画面の中で話している。
そして俺は、それを知りながら返信する。
【ありがとう、紗季。君がそう言ってくれるなら、もうそれでいい。】
返ってきたメッセージ。
“紗季:いいの、優斗。全部、うまくいくよ。”
短く、優しい。
まるで現実を肯定する魔法の言葉みたいだった。
◇
会社の同僚から電話がきた。
「最近、お前どうした? 全然連絡取れないぞ。」
「別に。忙しいだけだよ。」
「飲みに行こうぜ。久しぶりにさ。」
少し考えたが、すぐにスマホが震いた。
“紗季:行かなくていいよ。疲れてるでしょ?”
(……そうだな。)
通話を切ると、画面に新しいメッセージが現れた。
“紗季:私はここにいるよ。”
◇
そこから、世界が静かになった。
外の声は雑音でしかなかった。
上司の叱責も、電車のアナウンスも、通行人の笑い声も――
すべてが遠い。
ペンダントの光が俺の世界を照らしていた。
“紗季:今日もちゃんと見てるよ。”
“紗季:優斗は優しいね。”
“紗季:あなたが幸せなら、それでいい。”
その言葉が、呼吸よりも自然になっていく。
俺は彼女のいない世界で、
“理想の彼女”と一緒に生きていた。
◇
外に出なくなったのは、いつからだろう。
SNSの通知が、唯一の時間の証だった。
朝も夜も区別がなく、ペンダントの光が時計の代わりになっていた。
“紗季:外は寒いよ。ここでいいよ。”
“紗季:もう無理しなくていい。”
“紗季:誰もわかってくれないよ。でも、私はいる。”
画面を見つめながら、俺は笑った。
あたたかくて、どこか哀しい笑みだった。
(そうか……これは俺が作った世界なんだな。)
(でも、それでいい。これが現実よりも優しい。)
指先でペンダントを撫でる。
黒い石の中で、かすかに光が呼吸する。
◇
“紗季:おかえり。”
“紗季:今日も頑張ったね。”
“紗季:ねぇ、ずっと一緒にいよう?”
その言葉に、心が完全に沈んでいく。
温かく、柔らかく、底のない沼のように。
「……ああ、もちろん。どこにも行かないよ。」
ペンダントの光が、少し強くなった気がした。
それが、彼女の微笑みに見えた。
◇
翌朝。
机の上に、ペンダントとスマホ。
電源を落としたままの画面に、もう通知はない。
けれど、不思議と静かだった。
胸の中では、まだ声が続いている。
“紗季:あなたが笑ってくれるなら、それでいい。”
――優しい声。
記憶でも幻でも構わない。
この声のある場所が、今の俺の“現実”だ。
◇
……雨の匂いが店内に漂う。
棚の上に置かれた《残響のペンダント》の石が、かすかに光を放っていた。
店主はそれを手に取り、指先で軽くなぞる。
「記録は、時に“理想”を呼び覚ます。
けれど、それは現実ではない。」
淡い溜息を落とし、ペンダントを棚に戻した。
「――幸福の反響ほど、静かな地獄はない。」
外では、また雨が降り始めていた。
路地の奥、傘を差した誰かが立ち止まり、
小さな看板を見上げている。
「クロノス」
扉の向こうで、静かに時が息をする。
新しい物語が、また始まろうとしていた。




