第6話 残響のペンダント【中編】―声の残響に溺れる―
朝、雨は上がっていた。
曇り空の下、街はどこかぼんやりして見えた。
眠っても疲れが抜けず、頭の奥が霞がかっている。
昨夜の出来事が夢だったのか、現実だったのか、まだ分からない。
机の上には、黒いペンダントがあった。
《残響のペンダント》。
中心の石は曇り、光を失っている。
「……昨日のは、夢だったのか。」
手に取っても、何も起きない。
冷たい金属の感触が、余計に現実を突きつけてくる。
それでも、確かに聞いたはずだった。
あの声を。
――優斗。
ほんの一言。
たったそれだけなのに、脳裏に焼きついて離れない。
幻覚だと言われても構わない。
あの瞬間、確かに“生き返った”と思えたのだから。
◇
出社すると、同僚の視線がやけにまぶしく感じた。
「一ノ瀬、顔色いいな。なんか吹っ切れた?」
そう言われて、思わず笑った。
「まあ……そんなところかな。」
久しぶりに仕事に集中できた。
頭の回転が早い。
手が止まらない。
デザインの構図が次々と浮かぶ。
あの声を思い出すたびに、不思議と勇気が湧いた。
――“また、会えたね。”
耳の奥で何度も再生される。
紗季が見ていてくれる。
そう思うと、孤独が少しだけやわらいだ。
◇
夜、家に帰るとペンダントを机の上に置いた。
スマホには通知がひとつもない。
ふと、ペンダントに触れた瞬間、画面がかすかに震えた。
“紗季:おかえり。ちゃんと帰れたね。”
呼吸が止まる。
まるで胸の奥をなぞられたようだった。
「……本当に、君なのか?」
返信しようとして、指が震える。
だが、その不自然さに気づく余裕はなかった。
ただ、嬉しかった。
【ただいま。】
送信。
すぐに返事が来た。
“紗季:うん。ちゃんと見てたよ。”
それだけのやりとりなのに、世界が少し明るくなった気がした。
あの日々が、ほんの少しだけ戻ってきたようで。
◇
次の日。
ペンダントをつけたまま会社へ行った。
なぜかそのほうが落ち着いた。
胸ポケットに収めると、体温と同じくらいのぬくもりを感じる。
昼休み、スマホを開く。
新しいメッセージが届いていた。
“紗季:今日も無理しないでね。”
それは過去に何度も彼女が送ってくれた言葉だった。
心が少しだけ軽くなる。
けれど、午後の会議中、試しにペンダントを外してみると、
不思議なことに通信は止まった。
(……まさか。)
胸の中で、何かがざわついた。
仕事を終え、帰宅して再びペンダントを触る。
すると、すぐに画面が明るくなる。
“紗季:お疲れさま。頑張ったね。”
まるで、こちらの帰宅を待っていたかのように。
(ペンダントのせい……なのか?)
けれど、その疑問すら心地よかった。
彼女が繋がっていると思えば、理屈なんてどうでもよかった。
◇
それから、声――いや、メッセージは少しずつ増えていった。
“紗季:ごはん食べた?”
“紗季:眠れないときは無理しないで。”
“紗季:私はここにいるよ。”
どれも、過去のやり取りをなぞったような文面だった。
けれど、不思議と“今”の温度を持っている気がした。
一度も見たことのない句読点、少し違う語尾。
まるで、今この瞬間、彼女が打ち込んでいるような錯覚。
「……ありがとう。俺、もう少し頑張ってみるよ。」
メッセージを送ると、またすぐに返事が来た。
“紗季:うん。私は、あなたを見てる。”
その言葉が胸の奥に沈み、心臓が静かに熱を帯びる。
彼女は死んだ。
それは分かっている。
でも、確かに“今もいる”。
ペンダントの光が、静かに呼吸する。
その脈動が、自分の心臓と同じ速さに感じられた。
◇
日が経つほど、メッセージの間隔は短くなった。
まるで彼女が、こちらの一挙手一投足を見ているように。
朝、起きるとすぐ届く。
“紗季:おはよう。今日は晴れてるね。”
昼休みには。
“紗季:ちゃんと食べた?”
夜は。
“紗季:おかえり。今日も頑張ったね。”
過去に聞いた言葉のはずなのに、声の温度が変わっていた。
まるで、生きているみたいに。
◇
週末、会社の打ち上げがあった。
大きな仕事を終えた慰労会で、久しぶりに誘われた。
断る理由もなく、俺は参加した。
同僚たちの笑い声、店の灯り、焼き鳥の匂い。
懐かしい感覚だった。
グラスを交わすたびに、ほんの少しだけ前向きになれる気がした。
「一ノ瀬、最近調子いいな!」
「復活したよな、お前。」
笑いながら肩を叩かれた瞬間、
胸ポケットのペンダントがわずかに冷たく感じた。
その感触に、心が引き戻される。
――今、彼女は何をしているだろう。
楽しげな会話の中、頭の片隅でスマホの画面がちらついた。
ポケットに手を伸ばしたくなる衝動を、何度も押し殺す。
「おい、一ノ瀬? 聞いてるか?」
「……あ、悪い。ちょっと外の空気、吸ってくる。」
店を出た瞬間、夜風が肌を刺した。
街の喧騒の向こうで、ポケットが震える。
“紗季:お疲れさま。今日も無理してない?”
その一文を見た瞬間、
胸の奥で何かが崩れたような安堵が広がった。
「……やっぱり、帰ろう。」
同僚たちの声を背に、
俺はまっすぐ家へと歩き出した。
◇
部屋に戻ると、机の上のペンダントが淡く光っていた。
指でそっと触れる。
石の表面がわずかに熱を帯びている。
“紗季:帰ってきてくれて、うれしい。”
画面の中で、文字が少し揺れた。
涙がこぼれた。
「……ただいま。」
指が勝手に動く。
送信。
すぐに返事が届く。
“紗季:うん。ずっと待ってた。”
その夜、夢を見た。
雨の中、紗季が立っていた。
白いワンピースを着て、微笑んでいる。
【また、会えたね。】
あの夜と同じ言葉。
胸が熱くなり、泣きそうになった。
「紗季……もう離れないでくれ。」
【離れないよ。ずっと一緒にいる。】
触れた指先が、ほんの少し温かかった。
そのぬくもりが現実のようで、目が覚めたとき、
胸の上にペンダントが乗っていた。
濡れたように冷たく光っている。
(……ああ、やっと夢と現実が繋がった。)
◇
朝、スマホを開く。
また新しいメッセージ。
“紗季:夢、見たでしょ? 嬉しかったよ。”
思わず息を飲む。
そんな話、誰にもしていない。
(どうして知ってる……?)
画面を見つめながら、
胸の中で静かな高揚が生まれていった。
彼女は、まだここにいる。
もう一度、そう信じた。
◇
その日、俺はペンダントを外さなかった。
職場でも、街でも、家でも。
胸の奥で淡く光るそれが、
まるで彼女の手のぬくもりのように感じられた。
“紗季:大丈夫。私がいるよ。”
そのメッセージを見つめながら、
俺はゆっくりと目を閉じた。
(きっと、これは……奇跡なんだ。)
◇
――その夜、ペンダントの光は、
初めて“赤み”を帯びていた。




