第6話 残響のペンダント【前編】―声の残る場所―
雨が降っていた。
街灯が滲み、車のライトが水の膜に反射して流れていく。
アスファルトの匂いと湿った空気が混じり合い、夜は不自然な静けさに包まれていた。
半年が経った。
紗季がいなくなってから。
彼女のSNSアカウントは、まだ消せずにいる。
最後の投稿には、旅行先で撮った写真と短い文章。
「また行こうね。」
その言葉が、今ではどうしようもなく空虚に見えた。
スクロールしても、何も更新されない。
コメント欄の下で、時間だけが固まっている。
それでも、夜になるとページを開いてしまう。
何度目かのルーティン。
惰性に近い行動だと分かっていても、止められなかった。
彼女はSNSが好きだった。
写真の構図やハッシュタグにこだわって、投稿前には必ず一度見せてきた。
「これ、どっちがいいと思う?」
その問いかけに、俺はいつも曖昧に頷いた。
あの頃は、彼女の明るさに救われていたんだと思う。
けれど、彼女がいなくなってから――その明るさは、ただの雑音のように感じる。
スクリーン越しの笑顔はもう何も返さない。
◇
仕事は続けていた。
辞める理由も、続ける理由もなかった。
ただ、デザインという仕事は“形を残す”ことが目的で、
その行為そのものが、彼女を思い出させる。
気づけば、どの案件にも手が入らなくなった。
資料を開いても、頭が働かない。
色のバランスを考えようとしても、全部灰色に見えた。
「一ノ瀬、今日の修正、まだ?」
「……ああ。すみません。」
口先だけの返事。
実際には何も進んでいない。
上司が心配そうに声をかけてくれても、
同僚が飲みに誘ってくれても、全部、遠くの出来事のようだった。
家に帰っても、照明を点けずに机に突っ伏す。
空気が湿っていて、カーテンの隙間から街の光が滲んでいた。
そのままスマホを開き、彼女のSNSを眺める。
通知は何もない。
フォロー数も、コメントも、半年間、微動だにしていない。
「もう寝よう」
そう思いながらも、画面を閉じられなかった。
指が止まる。
画面の中の彼女が、笑っている。
その笑顔が、自分を責めているように見えた。
◇
――そして、そのときだった。
画面が一瞬、ふっと明るくなった。
ディスプレイの隅に、メッセージ通知のマーク。
“紗季:また会えてうれしい”
見間違いだと思った。
まばたきをしても、文字は消えなかった。
喉が渇く。
手の震えが止まらない。
呼吸が浅くなり、心臓の音だけが耳の奥に響く。
「……紗季?」
声に出した瞬間、空気がわずかに揺れた。
その刹那――
耳の奥で、確かに声がした。
【優斗。】
……聞こえた。
スマホを強く握り締める。
画面には、何も表示されていない。
メッセージも通知も、すべて消えていた。
だが、間違いなかった。
確かに“呼ばれた”。
たった一度、名前を呼ぶあの声が。
部屋の中は静まり返っていた。
窓の外では、まだ雨が降り続いている。
俺は立ち上がった。
理由もなく、ただ動かなければいけない気がした。
◇
夜の街は濡れていた。
傘を持つ気にもなれず、歩道をただ進む。
目的地もない。
頭の奥で、あの声の残響がこびりついて離れない。
――優斗。
その音だけが、現実と夢の境界を曖昧にする。
ふと、路地の奥に光が見えた。
暗闇の中で、古びた木の扉が一枚。
雨を吸った板が艶めき、
上に掲げられた小さな看板には、白い文字が刻まれていた。
「クロノス」
聞いたことのない名前だった。
だが、どこかで一度聞いたような、奇妙な既視感があった。
足が勝手に動く。
扉の前に立つと、雨音が遠ざかっていった。
そして――胸の奥に微かな錯覚。
【優斗。】
……もう一度、聞こえた。
冷たい取っ手を握る。
その金属の冷たさが現実だとわかっていても、
俺は扉を開けていた。
軋む音が、静かな夜に溶けていく。
◇
店内は薄暗く、湿った香木の香りが漂っていた。
棚には古い時計や、用途の分からない器具が並んでいる。
時間が流れているのに、空間はまるで止まっているようだった。
「……いらっしゃい。」
低い声が響いた。
カウンターの奥には、黒いローブをまとった人物。
顔は影に沈み、性別も年齢もわからない。
「ここ……何の店ですか。」
自分の声が少し震えていた。
「あなたの“望み”に、かたちを与える場所です。」
その言葉が、胸の奥を揺らす。
何かを見透かされているような、不快で懐かしい感覚。
「俺は……もう一度、彼女の声が聞きたい。」
ローブの人物は静かに棚の奥へ手を伸ばし、
掌に収まる小さな黒いペンダントを取り出した。
「《残響のペンダント》。
記録に残された声を再生する器具です。
失われた声も、触れれば“再び聞こえる”でしょう。」
黒い石が淡く光る。
その揺らぎは、雨粒のように小さく震えていた。
「ただし、覚えておきなさい。
この器具は、あなたの願いを叶えるものではありません。
それは“残響”――過去の名残です。」
意味は理解できなかった。
けれど、胸の奥が熱くなる。
たった一度でもいい。もう一度、あの声が聞きたい。
「……いくらですか。」
「支払いは、すでに済んでいます。」
それだけを残し、店主は何も説明しなかった。
気づけば、ペンダントが俺の手の中にあった。
重さも、温度も、まるで生きているようだった。
◇
家に戻り、机の上にペンダントを置く。
黒い石の中心に、かすかな光が宿っていた。
指先で触れた瞬間、胸の奥に震えが走る。
そして――
【……優斗?】
息が止まった。
たった一言。
それだけで、世界の音がすべて消えた。
「……紗季。」
涙が頬を伝った。
【また、会えたね。】
それきり、声は聞こえなかった。
けれど、その一瞬が永遠のように感じられた。
◇
窓の外では、まだ雨が降っている。
静かな部屋の中で、ペンダントが淡く光を放っていた。
俺はその光を見つめながら、
胸の奥に残る“あの声”の余韻を反芻した。
たった一度の幻。
けれど、それが本物よりもリアルに感じられた。
その夜、久しぶりに眠れた。
夢の中でも、雨が降っていた。
そして、彼女の声が――
もう一度、聞こえた気がした。




