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第6話 残響のペンダント【前編】―声の残る場所―


雨が降っていた。

街灯が滲み、車のライトが水の膜に反射して流れていく。

アスファルトの匂いと湿った空気が混じり合い、夜は不自然な静けさに包まれていた。


半年が経った。

紗季がいなくなってから。


彼女のSNSアカウントは、まだ消せずにいる。

最後の投稿には、旅行先で撮った写真と短い文章。

「また行こうね。」

その言葉が、今ではどうしようもなく空虚に見えた。


スクロールしても、何も更新されない。

コメント欄の下で、時間だけが固まっている。

それでも、夜になるとページを開いてしまう。


何度目かのルーティン。

惰性に近い行動だと分かっていても、止められなかった。


彼女はSNSが好きだった。

写真の構図やハッシュタグにこだわって、投稿前には必ず一度見せてきた。

「これ、どっちがいいと思う?」

その問いかけに、俺はいつも曖昧に頷いた。


あの頃は、彼女の明るさに救われていたんだと思う。

けれど、彼女がいなくなってから――その明るさは、ただの雑音のように感じる。

スクリーン越しの笑顔はもう何も返さない。



仕事は続けていた。

辞める理由も、続ける理由もなかった。

ただ、デザインという仕事は“形を残す”ことが目的で、

その行為そのものが、彼女を思い出させる。


気づけば、どの案件にも手が入らなくなった。

資料を開いても、頭が働かない。

色のバランスを考えようとしても、全部灰色に見えた。


「一ノ瀬、今日の修正、まだ?」

「……ああ。すみません。」


口先だけの返事。

実際には何も進んでいない。


上司が心配そうに声をかけてくれても、

同僚が飲みに誘ってくれても、全部、遠くの出来事のようだった。


家に帰っても、照明を点けずに机に突っ伏す。

空気が湿っていて、カーテンの隙間から街の光が滲んでいた。

そのままスマホを開き、彼女のSNSを眺める。


通知は何もない。

フォロー数も、コメントも、半年間、微動だにしていない。


「もう寝よう」

そう思いながらも、画面を閉じられなかった。


指が止まる。

画面の中の彼女が、笑っている。

その笑顔が、自分を責めているように見えた。



――そして、そのときだった。


画面が一瞬、ふっと明るくなった。

ディスプレイの隅に、メッセージ通知のマーク。


“紗季:また会えてうれしい”


見間違いだと思った。

まばたきをしても、文字は消えなかった。


喉が渇く。

手の震えが止まらない。

呼吸が浅くなり、心臓の音だけが耳の奥に響く。


「……紗季?」


声に出した瞬間、空気がわずかに揺れた。


その刹那――

耳の奥で、確かに声がした。


【優斗。】


……聞こえた。


スマホを強く握り締める。

画面には、何も表示されていない。

メッセージも通知も、すべて消えていた。


だが、間違いなかった。

確かに“呼ばれた”。

たった一度、名前を呼ぶあの声が。


部屋の中は静まり返っていた。

窓の外では、まだ雨が降り続いている。


俺は立ち上がった。

理由もなく、ただ動かなければいけない気がした。



夜の街は濡れていた。

傘を持つ気にもなれず、歩道をただ進む。

目的地もない。

頭の奥で、あの声の残響がこびりついて離れない。


――優斗。


その音だけが、現実と夢の境界を曖昧にする。


ふと、路地の奥に光が見えた。

暗闇の中で、古びた木の扉が一枚。

雨を吸った板が艶めき、

上に掲げられた小さな看板には、白い文字が刻まれていた。


「クロノス」


聞いたことのない名前だった。

だが、どこかで一度聞いたような、奇妙な既視感があった。


足が勝手に動く。

扉の前に立つと、雨音が遠ざかっていった。

そして――胸の奥に微かな錯覚。


【優斗。】


……もう一度、聞こえた。


冷たい取っ手を握る。

その金属の冷たさが現実だとわかっていても、

俺は扉を開けていた。


軋む音が、静かな夜に溶けていく。



店内は薄暗く、湿った香木の香りが漂っていた。

棚には古い時計や、用途の分からない器具が並んでいる。

時間が流れているのに、空間はまるで止まっているようだった。


「……いらっしゃい。」


低い声が響いた。

カウンターの奥には、黒いローブをまとった人物。

顔は影に沈み、性別も年齢もわからない。


「ここ……何の店ですか。」


自分の声が少し震えていた。


「あなたの“望み”に、かたちを与える場所です。」


その言葉が、胸の奥を揺らす。

何かを見透かされているような、不快で懐かしい感覚。


「俺は……もう一度、彼女の声が聞きたい。」


ローブの人物は静かに棚の奥へ手を伸ばし、

掌に収まる小さな黒いペンダントを取り出した。


「《残響のペンダント》。

 記録に残された声を再生する器具です。

 失われた声も、触れれば“再び聞こえる”でしょう。」


黒い石が淡く光る。

その揺らぎは、雨粒のように小さく震えていた。


「ただし、覚えておきなさい。

 この器具は、あなたの願いを叶えるものではありません。

 それは“残響”――過去の名残です。」


意味は理解できなかった。

けれど、胸の奥が熱くなる。

たった一度でもいい。もう一度、あの声が聞きたい。


「……いくらですか。」


「支払いは、すでに済んでいます。」


それだけを残し、店主は何も説明しなかった。


気づけば、ペンダントが俺の手の中にあった。

重さも、温度も、まるで生きているようだった。



家に戻り、机の上にペンダントを置く。

黒い石の中心に、かすかな光が宿っていた。

指先で触れた瞬間、胸の奥に震えが走る。


そして――


【……優斗?】


息が止まった。

たった一言。

それだけで、世界の音がすべて消えた。


「……紗季。」


涙が頬を伝った。


【また、会えたね。】


それきり、声は聞こえなかった。

けれど、その一瞬が永遠のように感じられた。



窓の外では、まだ雨が降っている。

静かな部屋の中で、ペンダントが淡く光を放っていた。


俺はその光を見つめながら、

胸の奥に残る“あの声”の余韻を反芻した。


たった一度の幻。

けれど、それが本物よりもリアルに感じられた。


その夜、久しぶりに眠れた。

夢の中でも、雨が降っていた。

そして、彼女の声が――

もう一度、聞こえた気がした。


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