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第5話 他視の眼鏡【後編】―見られる女―


朝、目を開けても、頭が重い。

眠っていないのに、夢を見ていた気がした。

――誰かに見られている。

そんな感覚が、もう当たり前になっていた。


鏡の前で、神崎理沙は眼鏡をかける。

《他視の眼鏡》。

他人の目に映る“自分”を見ることができる道具。

最初は、それが自信をくれた。

けれど今は、鏡の中の顔が他人のものに見える。


肌の艶も、笑顔の角度も、全部“誰かの目”を通した結果にしか思えなくなった。

自分がどう感じているかより、

どう見られているかの方がずっと重要だった。

“かわいいね”の一言で生き返り、

“老けたね”の一言で死にたくなった。


眼鏡を外すと、世界の輪郭がぼやける。

視力の問題ではない。

ただ、誰の視線にも映らない自分は、

本当に“存在していない”気がするのだ。



仕事の現場で、スタッフの視線が痛かった。

笑い声がするたび、自分の名前を呼ばれている気がした。

「神崎さん、こっちお願いします」

呼ばれて立ち上がっても、誰もこちらを見ていない。


――誰の目にも映っていない。


そう思った瞬間、全身から血の気が引いた。

鏡を見れば笑顔は作れている。

けれどその笑顔が「見られるための表情」だと気づいた瞬間、

吐き気が込み上げた。


眼鏡を通してみると、スタッフの顔が歪んで見えた。

皮膚が薄く透け、口元が引きつっている。

(まただ……また私を笑ってる。)

心臓が速くなり、指先が冷える。


「大丈夫ですか?」と声をかけられたが、答えられなかった。

何を信じていいのか分からない。

見られることが、こんなに怖いなんて知らなかった。



昼休み、化粧室の個室に閉じこもった。

壁の向こうで別のモデルたちが話している。

「神崎さん、最近ちょっと変じゃない?」

「やっぱり無理してたんじゃない?」

誰の名前も出していないのに、全部自分の悪口に聞こえた。


指先が震え、眼鏡を取り出す。

レンズ越しに覗くと、隣の個室の扉の向こう――

そこにいるはずの女たちの姿が透けて見えた。

笑っていた。

楽しそうに、自分の“いない世界”で。


(いない方がいいってこと?)

そう思った瞬間、涙がこぼれた。

それでも眼鏡を外せなかった。

見ていないと、完全に世界から消えてしまいそうで。



SNSを開くと、コメントがいくつか消えていた。

“神崎理沙、落ちぶれたな”

“加工きつい”“劣化した”

見たくないのに、見てしまう。

誰かがそう思っている。

その“目”が、自分を形づくっている。


眼鏡を通してスマホを覗くと、画面が歪んだ。

コメントの文字が人の顔に見えた。

笑っている。全員が、私を見て笑っている。


指が震え、スマホを床に叩きつけた。

「やめてよ……見ないでよ!」

叫び声が狭い部屋に反響する。

窓の外、通りを歩く人が一瞬こちらを見た。

その一瞥にさえ、心臓が跳ねる。


――見られたいのか、見られたくないのか。

自分でも、もう分からなかった。

それでも、視線がない世界だけは耐えられなかった。



夜、寝る前に鏡を見る。

眼鏡をかけると、部屋の中に自分が増えた。

撮影の自分、メイクを落とした自分、笑顔を作る自分。

どれが“本物”か分からない。

鏡の中の彼女たちが、順番にこちらを見て微笑む。


“みんな、あなたを見てるよ”

“もっと見せてあげて”


耳の奥でそんな声がする。

理沙はゆっくりと立ち上がり、窓のカーテンを開けた。

ビルの明かりが遠くで瞬いている。

レンズ越しに見る街は、無数の目で埋め尽くされていた。



次の日、彼女は撮影に現れた。

顔色は悪く、目の下には濃いクマがある。

メイク担当が驚いて声をかけた。

「理沙ちゃん、大丈夫? ちょっと休んだ方が――」

「平気。今日もちゃんと見てもらうから。」


撮影が始まる。

フラッシュが光るたび、胸が苦しくなる。

シャッター音が遠くでこだまのように響く。

スタッフが何か話している。

「最近、ちょっと怖いね」「目の焦点が合ってない」

その声が耳に届き、足元がぐらついた。


「もっと……見てください」

無意識にそう呟いていた。



撮影後、SNSに写真を投稿する。

フォロワー数は減り続けていた。

反応がないと落ち着かず、何度もページを更新する。

いいねがつかない。

誰も見ていない。

“見られない”という事実が、存在を否定するようで怖かった。


その夜、理沙は自分の顔をスマホで撮り続けた。

笑顔、涙、怒り。

どんな表情をしても、画面の中の彼女は他人のように見える。

「ねぇ、見てよ……私、ここにいるの」


やがて投稿内容は変わっていった。

「誰か見て」「見つけて」「ちゃんといるから」

そんな言葉が連続する。


コメント欄には心配の声と、冷たい皮肉が並ぶ。

“メンヘラ”“構ってちゃん”

その文字の一つ一つが、彼女の皮膚に刺さるようだった。



数日後。

ニュースサイトに、小さな記事が載った。


《元人気モデル・神崎理沙 SNSで不可解な投稿の末、自宅で保護》


倒れていた部屋の壁一面には、無数の写真。

彼女自身の顔ばかり。

どれもピントが微妙にずれていて、

まるで他人が撮ったように見えたという。


スマホの最後の投稿には、たった一文。


【見て。私を見て。】



……雨の音が、静かに響いていた。

棚の上に置かれた《他視の眼鏡》のレンズが濡れたように光っている。

私はそれを手に取り、埃を払った。


レンズの奥に映るのは、無数の目。

誰かが見て、誰かが嘲笑し、誰かが哀れんでいる。

それは、彼女が求め続けた世界そのものだった。


「人は“見られることで”存在を確かめる。

 だが、見られることしか信じられなくなったとき――

 その目が、牢獄になる。」


店の奥で、時計がひとつ鳴った。

私は眼鏡を棚に戻し、目を閉じた。

外では、まだ雨が降っている。


次の客が、きっとこの雨の中で

また“誰かの目”を求めているのだろう。


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