第5話 他視の眼鏡【後編】―見られる女―
朝、目を開けても、頭が重い。
眠っていないのに、夢を見ていた気がした。
――誰かに見られている。
そんな感覚が、もう当たり前になっていた。
鏡の前で、神崎理沙は眼鏡をかける。
《他視の眼鏡》。
他人の目に映る“自分”を見ることができる道具。
最初は、それが自信をくれた。
けれど今は、鏡の中の顔が他人のものに見える。
肌の艶も、笑顔の角度も、全部“誰かの目”を通した結果にしか思えなくなった。
自分がどう感じているかより、
どう見られているかの方がずっと重要だった。
“かわいいね”の一言で生き返り、
“老けたね”の一言で死にたくなった。
眼鏡を外すと、世界の輪郭がぼやける。
視力の問題ではない。
ただ、誰の視線にも映らない自分は、
本当に“存在していない”気がするのだ。
◇
仕事の現場で、スタッフの視線が痛かった。
笑い声がするたび、自分の名前を呼ばれている気がした。
「神崎さん、こっちお願いします」
呼ばれて立ち上がっても、誰もこちらを見ていない。
――誰の目にも映っていない。
そう思った瞬間、全身から血の気が引いた。
鏡を見れば笑顔は作れている。
けれどその笑顔が「見られるための表情」だと気づいた瞬間、
吐き気が込み上げた。
眼鏡を通してみると、スタッフの顔が歪んで見えた。
皮膚が薄く透け、口元が引きつっている。
(まただ……また私を笑ってる。)
心臓が速くなり、指先が冷える。
「大丈夫ですか?」と声をかけられたが、答えられなかった。
何を信じていいのか分からない。
見られることが、こんなに怖いなんて知らなかった。
◇
昼休み、化粧室の個室に閉じこもった。
壁の向こうで別のモデルたちが話している。
「神崎さん、最近ちょっと変じゃない?」
「やっぱり無理してたんじゃない?」
誰の名前も出していないのに、全部自分の悪口に聞こえた。
指先が震え、眼鏡を取り出す。
レンズ越しに覗くと、隣の個室の扉の向こう――
そこにいるはずの女たちの姿が透けて見えた。
笑っていた。
楽しそうに、自分の“いない世界”で。
(いない方がいいってこと?)
そう思った瞬間、涙がこぼれた。
それでも眼鏡を外せなかった。
見ていないと、完全に世界から消えてしまいそうで。
◇
SNSを開くと、コメントがいくつか消えていた。
“神崎理沙、落ちぶれたな”
“加工きつい”“劣化した”
見たくないのに、見てしまう。
誰かがそう思っている。
その“目”が、自分を形づくっている。
眼鏡を通してスマホを覗くと、画面が歪んだ。
コメントの文字が人の顔に見えた。
笑っている。全員が、私を見て笑っている。
指が震え、スマホを床に叩きつけた。
「やめてよ……見ないでよ!」
叫び声が狭い部屋に反響する。
窓の外、通りを歩く人が一瞬こちらを見た。
その一瞥にさえ、心臓が跳ねる。
――見られたいのか、見られたくないのか。
自分でも、もう分からなかった。
それでも、視線がない世界だけは耐えられなかった。
◇
夜、寝る前に鏡を見る。
眼鏡をかけると、部屋の中に自分が増えた。
撮影の自分、メイクを落とした自分、笑顔を作る自分。
どれが“本物”か分からない。
鏡の中の彼女たちが、順番にこちらを見て微笑む。
“みんな、あなたを見てるよ”
“もっと見せてあげて”
耳の奥でそんな声がする。
理沙はゆっくりと立ち上がり、窓のカーテンを開けた。
ビルの明かりが遠くで瞬いている。
レンズ越しに見る街は、無数の目で埋め尽くされていた。
◇
次の日、彼女は撮影に現れた。
顔色は悪く、目の下には濃いクマがある。
メイク担当が驚いて声をかけた。
「理沙ちゃん、大丈夫? ちょっと休んだ方が――」
「平気。今日もちゃんと見てもらうから。」
撮影が始まる。
フラッシュが光るたび、胸が苦しくなる。
シャッター音が遠くでこだまのように響く。
スタッフが何か話している。
「最近、ちょっと怖いね」「目の焦点が合ってない」
その声が耳に届き、足元がぐらついた。
「もっと……見てください」
無意識にそう呟いていた。
◇
撮影後、SNSに写真を投稿する。
フォロワー数は減り続けていた。
反応がないと落ち着かず、何度もページを更新する。
いいねがつかない。
誰も見ていない。
“見られない”という事実が、存在を否定するようで怖かった。
その夜、理沙は自分の顔をスマホで撮り続けた。
笑顔、涙、怒り。
どんな表情をしても、画面の中の彼女は他人のように見える。
「ねぇ、見てよ……私、ここにいるの」
やがて投稿内容は変わっていった。
「誰か見て」「見つけて」「ちゃんといるから」
そんな言葉が連続する。
コメント欄には心配の声と、冷たい皮肉が並ぶ。
“メンヘラ”“構ってちゃん”
その文字の一つ一つが、彼女の皮膚に刺さるようだった。
◇
数日後。
ニュースサイトに、小さな記事が載った。
《元人気モデル・神崎理沙 SNSで不可解な投稿の末、自宅で保護》
倒れていた部屋の壁一面には、無数の写真。
彼女自身の顔ばかり。
どれもピントが微妙にずれていて、
まるで他人が撮ったように見えたという。
スマホの最後の投稿には、たった一文。
【見て。私を見て。】
◇
……雨の音が、静かに響いていた。
棚の上に置かれた《他視の眼鏡》のレンズが濡れたように光っている。
私はそれを手に取り、埃を払った。
レンズの奥に映るのは、無数の目。
誰かが見て、誰かが嘲笑し、誰かが哀れんでいる。
それは、彼女が求め続けた世界そのものだった。
「人は“見られることで”存在を確かめる。
だが、見られることしか信じられなくなったとき――
その目が、牢獄になる。」
店の奥で、時計がひとつ鳴った。
私は眼鏡を棚に戻し、目を閉じた。
外では、まだ雨が降っている。
次の客が、きっとこの雨の中で
また“誰かの目”を求めているのだろう。




